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リメイク中作品  作者: 沿海
3章 憎しみは真理にあらず
57/72

57 辿り着いた地の果てで8869

 鋭い痛みに飛び起きる。

 敵襲に備えた訓練は何度も行っているから、寝起きの意識でも動きは洗練化されている。

 右手で枕元に置いてあるはずの剣を掴み――

「おい、小僧。まだ身体を起こすな。傷に障る」

 その言葉と一緒に、視界の端からぬうっと太い腕が伸びてきて、起き上がろうとしていた俺の身体を押し留めた。

 腕の先を辿ると、そこには先の抗争で戦ったはずの好敵手ファイドルがいた。

 俺が何か言おうとすると、それよりも早く、鋭い痛みがまたもや襲い掛かる。

「痛ッ!」

「そりゃそうだろうよ。無茶しやがって、魔法の暴発か? 運が悪けりゃ、左手は使えなくなっていただろうよ」

 その言葉に左手を持ち上げて確認すると、黒焦げで何とも悲惨な様子だ。ファイドルはそんな左手に何かペースト状の薬を塗っているところだった。先ほど感じた痛みは薬の痛みだったわけだ。ここまで酷い惨状なのに感覚がまだ残っていたのは、少し安心できた。もしかしたら熱耐性のある小火龍(ファイアドレイク)の皮で造られたコートが、多少なりとも被害を軽減したのかもしれなかった。

「……治るのか?」

「ああ、大丈夫だ。一週間ほどすれば、見た目はアレだろうけど、普通に生活できるほどまで治るだろうよ。小僧の身体が傷に強い特徴に加え、この地霊族秘伝の薬だ。本来は地霊族専用の薬で、刺激が強すぎるから逆に人間だと致死毒になるはずなんだがなあ。小僧は耐えれるみたいだな」

「……それはよかった」

「それよりも感謝しろよ、小僧。あの場に俺がたまたま出くわさなかったら、小僧はあそこで死んでたぞ。しかも、この薬がなかったら、左手はそのまま壊死していただろうな。自分の運の良さと俺に感謝しろ。なんで地霊族族長であるこの俺が、お前にわざわざ薬を塗らなきゃならん」

「……ああ、ありがとう」

 俺が感謝の言葉を伝えると、ファイドルは頷き、薬を塗り終わったのか、その上から包帯を巻いていく。その手際は素晴らしく、長らく怪我人の治療をしてきたかのようだった。

「よし、これで治療は終わりだ。後は放っておいても治るだろう。この貸しは高く付くぜ」

「本当に助かった。今度、酒でも奢るよ」

 俺の言葉に、ファイドルはにやりと笑った。地霊族は他種族よりも酒精が強い酒を好むという噂も聞くが、本当なのだろうか。どちらにせよ、この恩はかなりのものだ。いつか必ず返さなければと決意する。

「それで、ここはいったいどこなんだ?」

 ぐるりと周りを見渡した。

 俺が寝ているベッドと、ファイドルが座る椅子。それだけが置かれた狭い個室だ。個室としてはこれといった特徴のないところだが、俺は酷く不思議な感覚に襲われる。よくある木造じゃない。土、それとも、石なのか。床も壁も天井も継ぎ目なんてどこにもない石だ。岩盤を繰り抜いて造った地下室なのだろうか。それと、その部屋の外からは馴染みのある規則的な重低音が聞こえる。たぶん、鍛冶をしている音なのだろう、イザラの工房でよく聞いた。

「ここか? ここは地霊族の村だ。ああ、そこから説明しなければならないな。……二日前、戦闘音を聞いて駆け付けた俺は、ホーンウルフとの戦闘で満身創痍だった小僧を保護した。俺たちはちょうど村への帰還途中だったため、小僧もついでに連れてきたわけだ。まあ、小僧の容態を鑑みて、行程を早めたがな」

「なるほ……ど?」

「もちろん、安心しろ。コズネスには小僧の安否を伝えるために使いも送った」

「……助かる」

 僅かに逡巡した俺にファイドルは怪訝な顔をしながらも、よっこらせ、と椅子から立ち上がった。

「とりあえず、行くか。この村の紹介がてらに自慢の温泉へ行こう。約束しただろ?」

 そんな約束しただろうか、と少し考えて思い出す。コズネス攻防戦の後で彼と共に大浴場へ浸かっていた時、ファイドルが地元にある温泉を自慢していたのだ。あの時は流れでいつか行ってみたいと発言した気もするが、これほど早く実際に訪れるとは思ってもいなかった。

「小僧、早く来い」

「あ、ああ」

 扉の前で急かすファイドルに促され、俺はベッドから起き上がると、床に置いてあった履物に足を通す。部屋の隅にある机には、俺の荷物がある。宵闇の剣と、ブーツと、チェストプレートを含めた冒険装備。それを見て着替える必要があるか悩んだが、戦闘することはないだろうし、ここに置いていこう。それに今纏っているのは白いゆったりとした患者服で、傷に障らないからちょうどいい。

 俺はゆっくりとファイドルの背中を追って、扉から部屋の外を出る。

 瞬間、息を呑んだ。

「お……おお!」

 圧倒される、とはこのことか。

 その瞬間の感動は、とてもじゃないが言い表せないものだった。

 かつて見たことがない幻想的な光景が広がっていた。

 洞窟、なのだろうか。一面が全て石でできた広い空間。吹き抜けになっている中心に近付くと、上下が見通せる。ここは元々あった縦穴洞窟の壁面をくりぬいて、住めるようにしたのだろう。何十層もの住処がそこにはあり、吹き抜けに掛けられた橋を使って住人が往来している。そして、この場所が自然のものであることを証明するように、きらきらと青色に輝くとてつもなく巨大な水晶がそこかしこに埋まっていて、まるで街灯の代わりになっているようだ。

 地霊族。上手い名前だ。まさしく、地に住む魔族だ。

 俺が言葉を失っていると、ファイドルは後頭部を掻いた。

「なんだ、俺は昔からここに住んでるから何の感想も湧かねえが、そんなに凄いのか?」

「あっ、あたりまえだ! 噂には聞いていたけれど、ここまで凄いとは……」

 魔界には人族の想像もできないような場所が多いらしいが、この景色を越えるものはないだろう。そんな確信を抱くほど、素晴らしい景色だった。特に吹き抜けの上は空が見えており、そこから差し込む陽光が洞窟を貫くように一直線で最下層まで伸びている様子は、一筋の煌めく糸のようで綺麗だ。

 胸の奥が熱くなる。心の淀みが少しずつ洗い流されていくようだった。

「まあ、ここに滞在するのだろ? 自由に見て回ってくれ」

「もちろん!」

「やけに食いつくな……っと、それよりも風呂だ、風呂。小僧の看病をしていたから、この村に帰ってから俺もまだ風呂に入ってないんだ」

 そう言いながら歩くファイドルに、慌てて俺は後ろに付く。この村は洞窟が基になっているため、通路が複雑なようだ。壁に掘り出された剥き出しの階段を下り続けたり、吹き抜けにある吊橋を渡ったりして、そろそろ足が限界になってきたところで、最下層に辿り着いた。結局、何階層あるのか考えるのも恐ろしい。

「ここは?」

「他の街でいうところの、商業通りってとこか」

 その最下層も凄かった。中心は上が吹き抜けで雨も光も届くためか、噴水が中央にある緑に溢れた広場になっていて、そこを交差点として十字に長い道が通っている。そこにはいくつもの露店や商店が立ち並び、呼び込みや値切り交渉の声がここまで届いていて、コズネスの商業通りを遥かに越えるその熱に気圧される。

 たぶんだが、上階層が全て居住区になっているため、本来ならば分散されるはずの酒場などが一か所に集まっているのだろう。しかも、どうやらかなり種族的に寛容らしく、地霊族のみならず、魔人族や森精族やさらに夜影族も往来していて、流通が活発に行われていることも一目でわかる。ただ、いくら種族的に寛容といっても、両瞳が赤くなく両耳も尖っていない俺はかなり目立ち、じろじろと通行人に見られるが、隣に地霊族族長のファイドルがいるから、出会い頭に攻撃されることはなかった。

 正面の道路を歩き始めると、多種多様な匂いが鼻に付く。焼かれた肉と香ばしい油の香りは、たぶん串焼きのものだろう。思い返せば、ファイドルは俺が二日も寝ていた、と言っていた。つまり、あの卵料理から二日以上も胃に食事を収めていないわけである。考えれば、急に腹が減ってきた。イザラの工房で同じことを思った時は、何でもいいから腹に収めたいとでも考えたが、しかし今は別だ。肉や野菜をいためたものなど、がっしりした何か腹に残るようなものを食べたい。

 そんなことを考えていて、俺が屋台の前で立ち止まってしまったからだろう、正面の道路を指さしてファイドルは言った。

「温泉はこの先だ。そんなにじっと見なくても飯は逃げないぞ。後で行ってやるから、とりあえずこい」

 その言葉に従い進むと、この通りには似つかわしくない木造の建築物が正面に見えてくる。岩と土に囲まれたこの地下空間において、木の温もりを感じる造りはどこか懐かしく、奇妙な安心感を与えてくるものだ。

 同じく木造の看板が掲げられていて、彫られた名前が目に入る。しぶきの湯か、随分と風変わりな名前だ。

 まるで常連のようにファイドルは横開きの扉を開け放ちながら躊躇なく中へ入ると、そのまま流れるように更衣室で衣類をぽいっぽいっと籠に脱ぎ捨て、湯けむりで満たされた白い空間に消えていく。そのあまりの自然さに呆気に取られていた俺も、ようやく我に返り、慌てて白い患者服を脱いだ。左腕は包帯がまかれたままで湯に濡れても大丈夫なのか、そもそも傷にお湯が障らないのか、と躊躇したが、ファイドルが言及しないのだからまあ大丈夫なのだろう。

 扉の向こう側からは、低く重たい音が絶え間なく響いてくる。水の音……いや、もっと重く、広く、腹の底に響いてくるような轟音。まるで山鳴りのようなそれを背に、俺は湯けむりに誘われるように一歩、踏み出す。

 視界が、世界が、まるごと変わった。

 ――滝。

 そこはただの温泉ではなかった。巨大な岩窟を丸ごと利用した、まるで神殿のような空間だった。天井ははるか頭上、高すぎて首を反らさねば見上げられず、そこには吹き抜けの開口部が穿たれていて、紺碧の空がぽっかりと浮かんでいる。

 の隙間から、大量の湯が滝となって流れ落ちていた。ざあああ、と轟音を立てながら、真下の巨大な岩にぶつかり、しぶきを四方に撒き散らす。その飛沫はまるで細かい霧のように空間を満たし、湯気と光が交じり合って、空間全体が淡く光って見える。

「ああ……」

 驚嘆。それしかなかった。

 幻想的だ。その光景を呆然と眺めながら、ふと壁面に目をやると、岩肌の隙間に自生する苔のような植物が、ゆらゆらと自然発光していた。薄青、翡翠、淡い金……まるで夜空に浮かぶ星雲のように、ゆったりと呼吸するような輝き。それが湯気と混ざり、まるで夢の中にいるような錯覚を覚える。

 見惚れていると、ファイドルの声が聞こえた。

「おお、やっと来たか。そこに座れ」

 声のした方を見ると、既に湯船の岩に背を預けていたファイドルが、頭に手ぬぐいを乗せながら俺を手招いていた。

 身体に湯を掛けてから、その温泉に浸かっていたファイドルの隣で腰を下ろす。なるほど、かなり熱い。確か前に聞いた話だと、源泉の温度が高すぎるため、滝にすることで温度を下げているとかなんとか。しかし、その調整された後の温度でさえ熱い。とはいっても、疲れた身体にはちょうどいい温度だった。じわり、と全身が解けていくような感覚。息を吐くたびに、身体の奥から何かが抜けていく。

 湯は無色透明だが、湯底からは仄かに鉱石のような香りが立ち上っていた。鉄や土の匂いに混じって、微かに甘い草の香り……きっとこの地霊族の土地特有の成分なのだろう。

 青空と星雲と滝。絶景かな。

 無口でその景色を堪能していると、ファイドルが沈黙を破る。

「凄いだろ?」

「……ああ、凄い」

 それしか言えなかった。

天を見上げれば、空。空の青が岩盤の縁を縫って注ぎ込み、その光はしぶきと湯気に反射して、まるで宙に光の糸が舞っているかのようだった。ああ、これはたまらない。身体だけじゃない、心まで浸されていくような感覚。まるで、湯そのものがこの地底の命であり、脈動であり、地霊族の息遣いそのものなのだ。

 暫くすると、ぽつりとファイドルが呟いた。

「それで……小僧。前の状況はだいたい予想が付いている。たぶん、あれだろ? そっちの女神から加護を剥奪されて、その現実から逃げてきたとか、そんなところだろ?」

「……ああ」

 湯の熱気のせいではない。俺は一瞬、言葉に詰まった。図星だったからだ。短く、絞り出すように応じると、ファイドルはふんと鼻を鳴らした。

「まっ、当然だな。そっちの女神――名は知らんが、えらく魔族に対して敵意を持ってるらしいじゃねぇか。小僧が世界平和なんてお題目を掲げる限り、どうしたって正面からぶつかる相手になる。――ところで、小僧。俺はお前と約束したよな? どんな状況でもエリア嬢ちゃんを護れと。小僧がエリア嬢ちゃんを護る騎士である限り、俺は小僧に惜しまず最大限の協力をしようと。なぜ、小僧は一人でのこのことこんなとこまで来ているんだ? なぜ、エリア嬢ちゃんを一人にさせているんだ?」

「っ! それは――」

 唐突な叱責に胸が締め付けられた。

 静かだった湯の音が、急に遠ざかっていくような錯覚。身体は熱いのに、内側から急激に冷えていく。ファイドルの言葉はまっすぐで、そして容赦がなかった。言い訳の余地もない。確かにそうだ。俺は、逃げた。加護を失い、無力さに打ちのめされて……すべてを放り出して。

「……悪かった」

 ぽつりと、それだけしか言えなかった。

 忘れていたわけじゃない。コズネスの大浴場でファイドルと交わした会話はもちろん覚えている。地霊族とコズネスの正面衝突を誰かが企んだ可能性、その誰かの目的がエリアである可能性。俺がエリアの騎士である限り、一生をかけて彼女を護るとファイドルに約束した。

 しかし、俺は逃げてしまったのだ。怖かったのだ。失望されるのが、無力さを見せるのが、何より自分自身を直視するのが。エリア本人にも護ると誓ったのに。俺は自分の不甲斐なさで何も言えなかった。

 ファイドルは返事をしない。ただ黙って、湯に腕を沈めたまま天を仰いでいる。湯の熱気に混じって、張り詰めた空気がじわじわと広がっていく。雰囲気がピリついていた。顔が見えなくても、彼が怒っているのがわかる。沈黙の裏にある失望や、呆れ、あるいは悲しみに似た感情が、無言の湯けむりに滲んでいた。

 岩にもたれかかったままのファイドルの背中が、まるで巨大な岩壁のように思えた。どんな言葉を投げかけても、届かない気がして……俺は口を開くことすら躊躇した。

 居た堪れなさに耐え切れなくなって、俺が再度、謝ろうと口を開きかけた時だった。

 ふっ、と彼は小さく笑い、険悪な空気を霧散させた。

「小僧が全て悪いわけじゃない。理屈で考えれば当たり前だったのにも関わらず、女神がお前から加護を奪うだろうと俺も予想だにしていなかった。俺にも落ち度があるわけだ。ま、仕方ねぇ、謝ったからには許してやるよ」

「……ありがとう」

 声が震えていた。自分でも、情けないほどに。許してくれるとは思っていなかった。

 彼の寛大な心に救われて、俺はまた視線を落とした。そんな辛気臭え顔すんな、とファイドルは話の方向性を変えた。

「で、小僧。これからどうするつもりなんだ? 何か考えがあるなら話してみろ、相談ぐらいなら乗ってやる」

「……助かる。じゃあ、少しいいか? ファイドルに加護を与えた魔王って、確か五代目守護の魔王レグノスだったよな?」

 ファイドルは頷き、湯の中で身体を少し起こす。湯気の向こうで、その目がわずかに細められた。

「ああ。守護の魔王と呼ばれるように、とにかく民を護ることに執着してたらしい。あらゆる災厄を、国境を、種族を問わず、自分の身一つで塞ぐような男だったと聞くな」

「エリアは二代目聡明の魔王アンネローゼの加護」

 確認するように尋ねると、ファイドルは再び静かに頷いた。

 俺は、一瞬だけためらう。けれど、この問いを避けていては何も始まらない。

「――なあ。女神の代わりに過去の魔王から加護を貰うってできるのか?」

 その言葉を口にした時、思わず呼吸を詰めた。拒絶されるのが怖かった。絶望が戻ってくるのが怖かった。

 だが、ファイドルは、わずかに口角を上げる。

「小僧もその考えに行き着いたか」

 その目には、少しだけ感心したような光があった。

「可能性としては、確かにある。ただし――簡単にはいかねぇ問題もある」

 そう前置きしてから、ファイドルは少し声のトーンを落とした。俺も滝が落ちる轟音に負けぬよう、意識して耳を澄ませる。

「人界の女神様ってのはな、どうも世界が許す限り、いくらでも加護を配れるらしい。つまり、同時に何人もの人間に加護を与えることができる。けど、俺たち魔族の魔王は違う。神格化された魔王が加護を与えられるのは、一度にたった一人。ひとたび加護の譲渡が終わってしまえば、他の奴は誰もその魔王の加護を受け取ることができない。たとえば、俺に加護をくれた守護の魔王レグノスは、今も俺に加護を与え続けている。つまりこの時代で、レグノスの加護を持っているのは俺ただ一人だ。他にはいねえ」

 俺は思わず息を呑んだ。

 それならエリアは二代目聡明の魔王アンネローゼから加護をもらっている以上、その加護を持つ者は、やはり彼女だけということになる。

 そうなるということは。俺はこの時点でファイドルの話がどこへ向かうのか予想できていた。

「神格化されている魔王ってのは、初代から十代目まで――封印されている三代目反逆の魔王イシュルヴァを除いた九人が該当する。ただな、俺たちが生きている今の時代、すでにその九人のうち、八人の加護持ちが確認されてる」

「じゃあ……」

「そう。小僧、お前が加護を得られるとしたら――残ってるのは、初代原初の魔王ただ一人ってことになる」

 言葉の意味を飲み込むのに少しかかった。だが、次の一言で、さらに重く現実が突きつけられる。

「しかもな……そいつが本当に存在したのかどうかも怪しい。記録がほとんど残ってねぇし、誰かに加護を与えたって痕跡も一切ない。名前だけは伝説に残ってるが、実態は謎に包まれてる。まるで誰かが彼の名前を歴史から消したように、な。――ま、方向性は間違ってねえだろうよ」

 ファイドルはそこで話を中断した。だが、それだけでも新たな加護を得るというのが途轍もなく難しい課題だというのが理解できた。

 湯けむりの向こうに滝が揺らいでいた。

 原初の魔王――存在するかどうかすら定かでない相手。加護を得る唯一の道が、そんな曖昧な伝説にすがるしかないとしたら……。

「……でも、どうすればいいんだ。儀式が必要なのか? そもそも、どこにいるのかも、どうやって加護を受けられるのかも、何一つわからないじゃないか」

 口に出すそばから、自分の言葉が頼りなく響いているのがわかった。自嘲するように視線を落とす。滝のしぶきが、微かに額に当たった。

 やはり希望など、幻想に過ぎないのだろうか――そう思いかけたその時だった。

 隣のファイドルが、ぐいとこちらを向いた。その顔には、どこか人を食ったような、それでいて妙に真剣な――そんな得体の知れない色が浮かんでいた。

「……なあ、小僧」

 彼の声は、今までとは明らかに違っていた。熱を帯び、低く、慎重に言葉を選ぶような響きがあった。

「過去に消えた歴代の魔王と――接触する方法。それを、もし俺が知っていると言ったら……お前は、どうする?」

 その言葉に、鼓動が一瞬跳ねた。

「……どういうことだ?」

 湯気の向こう、ファイドルの目がこちらを射抜いてくる。からかっているわけではない。冗談めかしているように見えて、底がまったく読めない。その目には、明らかに何かを知っている者の光があった。

 問い掛けると、ファイドルは少し考えるような仕草をした。

「そうだな。最初から話すか……。小僧、お前は先代魔王のことを知っているか?」

「確か、エリアの父親だっただろ」

「その通りだ。十一代目氷結の魔王クラディオ。カリスマ的センスと素晴らしい統治で、民に慕われていた魔王だった。あいつは昔からいい奴だった。弱い立場にいる者を第一に考えるからこそ、誰しもが奴の背中に付いていきたかった」

「……おい、いったい何の話だ?」

 俺の疑問に答えず、ファイドルは続ける。

「あいつは生まれた直後から次代の魔王として育てられ、対して、俺は次代の族長として育てられた。昔から交流があり、俺たちは親友だった。だから、知っている。あいつは強くなかった。魔王は誰よりも強いから尊敬される。だが、あいつは魔力量は高くとも、突出した能力がなかった。剣の才もなく、魔法の才もなく。そんなあいつが魔王の肩書きを引き継ぐ直前、一週間ほどあいつは俺にさえ何も言わずに姿をくらました。そして、けろっとした顔で一週間ぶりに現れたあいつは、『氷結』の肩書を名乗った。氷結、わかるか小僧。氷結とは何かを凍らせる能力だ。魔法が使えない俺ですら、これが異常だとわかる。熱素、風素、水素、泥素、光素、世界にはいくつもの魔素があるわけだが、どこにも凍らせるどころか温度を下げるものなんてものさえない。最も性質が近い熱素でさえ、あれは温度を上げる魔素であり、逆のことはできない。それをクラディオは簡単にしてみせたわけだ。しかも、だ。あいつはそこにある岩の上に立ち、落ちてくる大量の湯を全て瞬時に凍らしてみせた。わかるか? 普通の奴にこんなことできない、異常なことだった。なあ、小僧。あの一週間という空白の期間で、いったいクラディオに何があったんだ?」

「……ッ!」

 湯の中だというのに、俺は背中に寒気を感じた。


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