56 逃げて、逃げて、辿り着く場所6632
――走る。
直視したくないものから逃げるように走る。逃げ場などないと知っていながら。
加護を失ったのだから、その速度は遅い。しかも、簡単に息が上がってしまう。脚は重く、心臓は早鐘のように打ち鳴らす。
だけれど、俺は走り続ける。
逃げたのだ。俺は。昔と何も変わっていない。ずっと。
最初に逃げたのは、あの時だった。魔族の襲撃で故郷が灰となったあの日。炎に包まれる村、家の下敷きとなった母親、血に染まる土。あの惨劇を直視できなかった俺は、「復讐」という名の殻に逃げ込んだ。怒りに身を任せて、ただ前だけを見ていた。何も見ようとせずに。
旅の中で出会った多くの人と魔族。その果てに知った、「敵」と思っていた彼らもまた人間と同じように、喜び、苦しみ、悩み、願って生きている存在だったという事実。勇者の責務から逃げた俺は、戦いからも逃げて、剣を振るうことを拒んだ。
そして、エルリアの村でメリーという少女を殺してしまった後もそうだった。良心の呵責と責務の板挟み、本心と義務の矛盾、それらを深く考える苦しみから逃れるために、何も考えずに魔族を殺し続けてしまった。
逃げて、逃げて、逃げて。逃げ続けた人生だ。
そして、逃げた終着点がここだ。
加護を失い、仲間を失い、独りぼっちで、行く当てもない。走り続けることしかできなかった。加護を失い、身体能力が低下している今、走り続けることは簡単じゃない。心臓が破裂しそうなほど高鳴り、息は絶え絶えで、眩暈がするほど苦しい。でも、走る。
どこをどう走ったのか。自分でもわからない。
気が付けば、俺は深い森の中にいた。
辺りは暗い。背の高い木に囲まれているからではない、上空を見ると、既に陽は落ちてしまったようで、星々のきらめきが僅かに見える。月は雲に隠れて見えない。辺りには風もなく、空気がねっとりと纏わりつくような重たさで支配されていた。
地面は落ち葉で湿っていて、足元を踏むたびにぬめりとした感触が靴越しに伝わってくる。何かを踏んだ気がしても、視界が悪すぎて確認できない。耳を澄ませば、森の奥から微かに虫の羽音、どこかで木の枝が軋む音がした。鳥すら眠りについたような、死んだ静けさだった。
概算で、数時間は走り続けたのか。加護を失っても、普通の冒険者よりかはだいぶ体力があるみたいだった。
そう現実を認識し始めると、疲れがどっと押し寄せて、脳が喉の渇きを訴えてくるし、急に身体が重くなる。俺は木を背にして、へなへなと座り込む。もう限界だった。
「……最悪だな、俺」
絶え絶えの息で呟く。
自嘲でもなく、憎悪でもなく、ただの空虚な呟き。
気分は最悪だ。何もしたくない。けれど、何もしないわけにはいかない。もうコズネスに戻ってあの二人と顔を見合わすなんてとてもできないが、しかし、何か行動しなくてはどうにもならない。
「水素召喚――」
濁った空気に、淡く青い魔力が満ちる。手のひらに冷たい水が生まれ、ぽたぽたと滴を垂らした。その水を両手で受け止め、喉に流し込む。
水の冷たさが、逆に現実感を強調した。俺は今、生きている。死に損なった人間として。
視線を落とすと、鞘に納めたままだった宵闇の剣が右手に握られていた。
ずっとこれを持って走っていたのか。今更ながらに驚愕すると共に、今更ながら握りしめていたそれがとても重く感じて、地面に投げ出した。次にサイドポーチの中を検める。補填魔法が使えなくなった時のためにある傷薬と、何枚かの貨幣。少額だが、新たな街で最初の何日間かは生活ができそうだ。ただ、食べ物の方は……
収納魔法を展開し、次元の狭間にある持ち物も手を突っ込んで確認する。替えの衣類が何着か、野宿するためのテントぐらいで、食料は何も入っていない。加護を失った今、収納容量も魔力量も落ちてしまい、保存の効かない食糧は真っ先に外していた。今さらになって、その愚かさを悔やむ。
自分が今いる場所も把握できていない中で、野営に最も大事な食べ物がないなんて。何かをしたいとは思えないけれど、飢え死にするのが嫌だったら、行動しなければならない。野兎あたりなら簡単に入手できそうだ。簡単な罠でも張ろう。
そう思い立って、ゆっくりと立ち上がった瞬間だった。
「――っ!?」
ぞわり、と背筋を冷たい刃物でなぞられたような感覚。空気が濁る。肌を刺すような緊張が、森の奥から静かに染み出してくる。
――何かに観察されている。
しかも、殺意が乗っている視線だ。
俺は地面に転がっていた剣を手に取りながら、ゆっくりと見渡す。
そして、視線が合う。
赤い瞳だ。魔族じゃない、魔物。草むらの中から顔だけ覗かしている。白銀の体毛に紅玉の瞳、そして額には何か鋭い突起がある。
ホーンウルフ。名前にホーンとあるように、額から立派な角が生えている狼のような魔物だ。
区分としては中級に値して、単体だとそこまで強くない。しかし、奴らは群れる。群れて野生の魔物を追い掛け回し、弱ったところで仕留めるという狡猾な性格をしている。
「しまった……」
思わず、呟いてしまう。
最悪だ。タイミングが悪すぎた。
過去の俺ならば群れだろうと難敵ではなかった。しかし、今は違う。加護を失った身体では、すべてが劣っている。体力も、感覚も、技のキレさえも。
今までは俺が彼らを狩る側だったのに、逆転し、俺が狩られる側になってしまった。
草むらの中で赤い光が明滅する。その数は八つ。つまり、そこには少なくとも四匹のホーンウルフが潜んでいる。
無意識に息が詰まり、肺がうまく動かない。湿った空気が肺に張り付き、冷たい汗が背中を這った。
加護を失ってしまった今の俺には、やつらの対処は少し難しい。
「くそっ……」
悪態を付きながら、俺は鞘から剣を抜いた。
ホーンウルフは俺が明確な敵対の意思を表したからか、がさごそと草むらの奥へ消えていく。逃げたのではない、襲うその隙を伺うつもりなのだろう。
俺は周りに気を払いながら、慎重に移動を開始する。
彼らは逃げ回った獲物が疲れたところを襲う。だから、移動するのは体力を消耗するだけで、あまり得策ではない。とはいえ、周辺は障害物が多くて奴らに地の利を与えるし、対峙するなら、崖を背にするなどで奴らに囲まれないような対策が必要だった。
走らず、しかし、歩きもしない、そんな速度で移動する。行き先を悟られないように、できるだけ木々を左右に避けるみたいに、じぐざぐと不規則に進む。同時に、彼らの嗅覚を狂わせるため、風素を稀に召喚し、俺の匂いを広範囲に拡散させたり、逆に途絶えさせたりといった技術も行う。四年間の旅で得た、ちょっとした技術だ。
そんなことをしながら、俺は半刻ほど前へと進み続けた。
だが、ホーンウルフからの行動は何もない。
意識をより広げるが、俺以外に動く対象はいない。
静かすぎる。
まさか、俺を見逃したのか。
そう気を緩めてしまった途端。
「――グウゥルルルゥゥ」
「くッ!?」
殺気が溢れたと思うと、後方からホーンウルフが飛び掛かってきていた。
反射的に振り向きながら剣を掲げると、ガチリッ、と嫌な音を立てながら、大きく開かれた顎がその刀身に噛みついた。間一髪。僅かに動作が遅れていたら、その顎は俺の首を噛み千切っていたことだろう。
だが、安堵するのにはまだ早い。後方から他三匹のホーンウルフが迫ってきている。
それらに対処するため、俺は刀身に噛みついたままのホーンウルフを振り落とそうと、剣をぶんぶんと振るが、落ちない。
「くっ、離れろよッ!」
どれだけ振り落とそうとしても離れない。たぶん、ホーンウルフは俺に攻撃を防がれたと理解しているが、同時に、俺の攻撃する手段を封じることができたと悟っているのだろう。しっかりと噛みついていて、離れようとしなかった。
ただ、そうやって引き剥がそうとしている間に、別の個体がどんどん迫る。仕方がない。
俺は刀身にホーンウルフがぶら下がった状態のまま、剣を構えて、すぐさま剣技を発動する。
「――ゼアァッ!」
どこからともなく現れた赤い燐光が収束し、低く重い金属音を響かせる。
古代流派剣術赤釘。あまり使い慣れた剣技ではないけれど、突き技以外だとオリバーが指摘したように姿勢を崩してしまう可能性があるし、咄嗟に発動できるのがこれしかなかった。
僅かな溜めの直後、紅色に染まった剣尖が加速する。
この突き技は前に使っていた勇者専用剣技スターダスト・スパイクよりも威力の面で劣るものの、単発技であるにも関わらず、攻撃時に二度の衝撃が発生するという、他の剣技にはない少し珍しい特徴がある。
加速する刀身に走った一度目の衝撃に、ホーンウルフが耐えられずに振り落とされ、それでもなお加速する剣尖が飛び掛かってきていた別個体の立派な角と衝突する。刹那、轟音。
俺の剣は黒色に戻り、対して、高威力の剣技を正面から受け止めたホーンウルフの角は、みしみしと嫌な音を響かせたと思ったら、直後、砕けて空中に破片を撒き散らす。破片が星明かりを反射して、まるで小さな流星のように夜空に散った。
立派な角を失ってしまったホーンウルフは、ところが、全ての衝撃を相殺しきることはできずに吹き飛ばされ、気を失った。そして、迫っていた他の二匹はその光景を見て、驚き動きを止めた。
「今だ!」
俺は踵を返し、逃走を再開する。
あの場所で対峙を続けていても、ただ状況が徐々に悪化するだけだ。ならば、より戦いやすい場所を探すべきだろう。闇に沈んだ森を掻き分け、逃げる。
息が荒い。喉が焼ける。だが背後では、木々を踏み倒しながら追いかけてくる重たい足音。角を失った個体以外のホーンウルフ三体は、先ほどのように姿を隠すのに諦めたのか、堂々と後ろを追ってくる。同胞がやられたのを見てなりふり構わなくなったと表現するべきか、憤怒の形相で俺を追跡する。俺は、忘れた頃に飛び掛かってくる奴らを避けながら、走り続けた。
木の根が足を取る。枝が頬を裂く。
それでも走った。
「しつこいな……」
過去にそんな恨みを買うようなことなんてしただろうか、そんなことを心の片隅で考えていると、前方に切り立つ崖が見えた。追い詰められた。が、これで敵に囲まれる心配はないし、木々が少ないため遮蔽物の心配もない。
俺は崖の麓まで走り寄ると、反転し、剣を構える。
攻撃態勢に入った俺を見て、三匹のホーンウルフは足を止めた。暗がりの中で睨み合いの距離を取ったまま、唸り声を漏らす。
「グルルルッ……」
「現代流派剣術アルベルト流――」
唸り声を響かせるホーンウルフに対して、俺はオリバーから教わったばかりの剣技、トライラッシュの予備動作を即座に行う。
鈍色の閃光が、紅玉の瞳に反射する。
睨み合いが始まる。俺も、そして、頭が賢いホーンウルフも、次の戦闘が始まればどちらかが斃れるまで終わらないと理解しているのだ。
地の利は俺にある。背後が崖であるから、ホーンウルフは俺を囲むことができず、得意である連携を取れない。しかも、辺りは木々が少ないため、身を隠すこともできない。
数の利は彼らにある。俺が一体を処理している間に、他の二体が飛び掛かってきたら、それだけで俺は負ける。
俺が生き残るには、一度の失敗もなく最善の行動で勝利を手繰り寄せなければならない。まずはこの剣技トライラッシュで最初の一体を倒してから、直後にどうしても発生してしまう隙を体術でカバー。そして、流れるように次なる剣技を発動する――
先に動いたのは、先頭に立つホーンウルフだった。
「グガアァァッ!」
「――しっ!」
咆哮とともに飛び掛かってきた獣に向かって、すぐさま剣を閃かせる。
虚空に刻まれる灰色の直線。目にも留まらぬ速さで、剣尖が三度、瞬いた。
しかし、驚愕で顔を歪めたのは俺だった。
その目にも留まらぬ剣尖を、ホーンウルフは身を捩ることで、僅かに掠って血を流しながらも避けた。そして、その速度のまま俺に体当たりをする。その顎で喰い千切られることはなかったが、その体当たりは俺の体勢を崩すには有効だった。
地面を失い、足が何もない空中を滑る。
「ああ……」
全てがスローモーションに見える。死にそうになる時に時間がゆっくりになると聞いたことがあるが、これのことなのか。
右手から零れ落ちる宵闇の剣。後ろに倒れゆく身体。そして、そこに向かって大口を開けて飛び掛かってくる二体目のホーンウルフ。その上下に並んだ鋭い牙は、俺の首筋を想像もできない圧で噛み締め、俺は一瞬で絶命し、深紅の鮮血を雨のように撒き散らすのだろう。
死を司る魔の手がそこまで迫っている。
死ぬ。死ぬ。死ぬ、死んでしまう。嫌だ、いやだ。死にたくない。まだ。俺はここで死んでしまうのか。まだ何も終わってないのに。こんな。誰も知らないこんな場所で――
脳裏をひやりとした何かが横切った。
瞬間、死の恐怖と裏腹に――左手が無意識下で突き出される。
なぜか赤く染まった手刀が、飛び掛かってきていたホーンウルフの口元に向かって、吸い込まれるように突き刺さる。
なぜ、いや、いったい何が起こった。まさか、死の恐怖で身体が反射的に最善の行動をしたのか。左手から溢れ出る赤い光は、血の色ではなく、まさしく剣技と対なるもの、体術が発動した色だ。古代流派体術蜂刺し。
その突き出された左手は口内を突き進み、ホーンウルフの喉元まで貫通した。ホーンウルフは即死しなかったが、身体中を痙攣させている。もうこのホーンウルフの命は俺が握っているといっても過言ではない。しかし、奴は諦めていなかった。
「――グウゥ!」
「くっ!」
左手に痛みが走る。
俺の腕を噛み切ろうと、顎に力を入れてくる。みしみしと鋭い牙が筋肉を貫き、その先端が骨に届きかけていた。俺の左腕が、音を立てて悲鳴を上げる。起死回生、というより、相打ち覚悟なのだろう、その咬合力は本当に俺の腕を噛み千切らんとするほどだ。このままだと数秒以内に左手を失ってしまう。
ならば、と俺は咄嗟に熱素を生み出す。
「――熱素召喚・全開放オォォッ!!」
流れるように、解放。
ただ起句と終句しかない、本来は失敗とされる不完全な魔法を左手の先で発動。暴発する。轟音。主句がないため行き場がなくなった荒れ狂う制御不能の熱素が左手から放出される。ホーンウルフの喉奥で解放されたそれは、密閉された場所で爆発を起こし、ホーンウルフは原型も残らず血潮となって飛び散る。しかし、それでも荒れ狂う熱素は止まらない。
「があぁぁッ!」
俺の左手を焦がし、装備ごと表面をまるで消し炭にしてしまう。尋常じゃない痛みに脳裏でちかちかと光が明滅する。肉が焦げる臭いと、ぷすぷすと立ち昇る黒い煙。
激痛。灼熱。骨の芯まで焼かれる感覚。
想像していたよりも激しいその苦痛に俺はふらつき、そして、その隙を待っていたかのように飛び掛かってくる最後のホーンウルフ。
「ガルルルッ!」
「っ……!」
もう抵抗できなかった。宵闇の剣は取り落とし、左手は消し炭になり、挙句の果てに、痛みでもう指先すら動かせない。
――ああ、ここまでか。
ここまで意地汚くあがいてみせたが、ここで俺の負けだ。
俺は敗北を受け止めるように後ろへ倒れながら、瞳を閉じた。さあ、勝者の特権だ。俺の身体を喰らうがいい。
だが、その時はいつまでも訪れなかった。
いくら待っても、牙の感触は訪れない。
怪訝に思って両目を開けると、先日に別れたばかりだったはずの男が背中を見せて立っていた。男は剛腕で巨大な剣を一閃させた。最後のホーンウルフが、断末魔を上げる間もなく斬り裂かれていた。
彼は、振り返りもせずに言った。
「よう、坊主。もしかして家出中か?」
その逞しい背中は、まるでいつかの師匠みたいだな。
そんな感想を最後に、意識が暗闇に沈んでいった。




