55 逃げる8988
涼しい風が目抜き通りの熱気を押し流していった。
コズネスの街は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。香ばしい焼き飯の匂いが風に乗り、屋台の掛け声と笑い声が交錯する。
訓練場を後にした俺は、周囲の通行客へ迷惑が掛からない程度の駆け足で工房へ向かう。
疲れからか足取りは少し重いが、どこか、胸の奥に微かな芯のようなものが灯っているのを感じていた。
イザラは急に工房から飛び出した俺に怒っているだろうか。エリアは姿の見えない俺を心配しているだろうか。そう思うと、足取りが軽くなるのは当たり前だった。
俺は息を切らしながら工房の扉を開け放った。
「待たせたな」
その声に、カウンターで帳簿を眺めていたイザラが驚いたように顔を上げる。
「おっ、おう……息切れしているみたいだが、何かあったのか?」
「いや、何も」
俺は頭を振る。
しかし、イザラの目は鋭い。俺の顔をまじまじと見てから、鼻を擦りながら言った。
「へっ、晴れやかな顔になったな」
「ああ、もう問題ない」
今なら胸を張ってそう言える。
オリバーが教えてくれたのは、何も剣の振り方と突き技の有用性だけでない。彼は遠回しに、見えてなくてもそこには別の方法がある、ってことを教えてくれただけでなく、魔王から代わりとなる加護を与えてもらうという代替案まで提示してくれたのだ。それは表舞台から転落した俺がまだ戦えることを意味している。もう思い悩む必要はなかった。
安心させるように俺が笑って見せると、イザラは安堵したように小さく息を吐いた。
「それでいい、落ち込んだエイジを見るのは親友として心苦しいからな」
「――ありがとう、俺の親友でいてくれて。また白百合の剣も試し振りもさせてくれ」
「もちろん」
心からの感謝を伝えると、イザラは照れ隠しなのか、話題を変えた。
「それよりも、昼だ。上で二人が昼飯を張り切って作っているぞ。お前が帰ってきたら一緒に食おうってさ。さあ、行ってやれ」
「ありがとう」
イザラが上階を指して催促するから、俺は階段を上る。
この工房は二階建てであり、下階が鍛冶場と武器の売り場がある商業用スペース、上階がリビングと寝室がある生活用スペースとなっている。
みしりみしりと階段の床材を踏み鳴らしながら、先ほどの言葉に疑問を覚えていた。
二人、とは誰のことだろうか。
片方は考えるまでもなくエリアだろう。もう片方はいったい誰なのか。
その疑問は、リビングに入ると解消される。
しかし、一目散に加護の話をエリアにしようとの決意は、衝撃的な光景に吹き飛ばされていた。
そこには確かに二人の姿があった。
片や紅玉の瞳を持ち、漆黒ながら星空のように輝く長髪の少女。十二代目霹靂の魔王、エリア。
片や灰色の瞳を持ち、流るる小川を連想させる水色短髪の少女。最恐の魔術師、アガサ。
なるほど、二人といえばこの二人しか考えられない組み合わせである。
ただ、俺は驚きで何も言い出すことができなかった。
「なっ、なんだ、それは……」
思わず口から声が漏れる。
服装だ。見慣れない服装を二人は身に纏っている。
白と黒だけで配色されている服だった。フリルだったか、ひらひらとした白い布のようなものが全体的にあしらわれており、黒を基調としたスカート。そして、なぜか腰には短いエプロンを付けている。
本当に見たことがない異国風の服は、しかし、どこか格式張った印象を与えていた。例えば、エリアの護衛だった今は亡きクルーガの執事服、とでも表現すれば伝わるだろうか。
全く同じ服装を着ているエリアとアガサは、困惑している俺の姿を認めると、声を完璧に揃えて言った。
「おかえりなさいませ、ご主人様!」
何とか思考を巡らせ、発言する。
「……ご主人、様? いや、それよりも、その服はいったいなんだ?」
俺が腹から出させた問いに、んーとエリアが少し考えてから答えた。
「これはのー、アガサが教えてくれた礼装で、メイド服というみたいじゃぞ。どうやら落ち込んだ者を励ますには最適らしいの。ま、どうやら妾たちが元気付ける必要はなくなったようじゃが、楽しんでくれ」
「そ、そうか。ありがとう」
どこか釈然としないが納得だ。俺が加護を失って落ち込んでいたから、エリアは元気付けようとしてくれたのか。既に俺はオリバーとオリバーにより立ち直っているが、それでもエリアの精一杯の気遣い、まっすぐで不器用な優しさが心に染みた。
とはいえ、そのメイド服というものが元気付ける効果に優れているなんて、少し信じられない。謎過ぎる。ただの白黒服なだけだ。気遣いは嬉しいが、なぜこんなもので俺が元気付くと思ったのだろうか。
俺は怪訝な視線をアガサに向ける。
「で、アガサ。これはなんだ?」
「メイド服。遥か昔、高位の者に側付きで従っていた人が着ていた。それから格式ある服として巷に広がったけれど、今は廃れてしまった」
「それはわかった。だが、なぜお前だけでなく、エリアまで着させているんだ?」
少し責めるような口調になったのは否めない。
アガサは魔術師として大量の書物を紐解いてきたのか、その知識は魔法だけに関わらず幅広い。魔界各地の歴史にも精通していて、旅ではかなり助かったが、稀に変なことを言い出す。四人で旅していた時にトラブルが発生すれば、だいたいアガサのせいだった。
対してエリアは本当に無垢な存在だ。ずっと魔王城で過ごしてきたからだろう、俗的なことは何も知らず、ゆえに自分の知識にするため、巷での作法などの勉強を必死に頑張っている。
だから、この二人は互いに魔術師の研究者気質というのを抜いても、凄く危険な組み合わせなのだ。アガサが変なことをエリアに言えば、すぐ鵜吞みにしてしまうだろう。
そんな未来は避けたいと思っての発言だったが、むっとした顔をアガサは見せた。いつもは無表情なのだから、かなり珍しい顔だ。
「不満。別に無理強いはしてない。エリアが元気付けたいって言ったから、手段を教えただけ。……でもまあ、無垢な彼女にあることないこと吹き込むのは面白かった」
「おい!」
「それよりも、エイジ。朝食を用意してる。先に席へ座ってて」
そう言いながら、アガサはエリアを連れて奥へと消える。
いろいろと指摘したいところだが、アガサのことだ。何も聞き入れてくれはしないのだろう。諦めて、しぶしぶ俺は促されるまま席に座った。
すると、奥から料理を持ってきたアガサが、それをテーブルの上に置く。
これもいったい、想像もできない料理だ。
表面は黄色。たぶん、卵を使っているのかもしれない。大きさは皿にどんと乗っているぐらいであり、少し膨らんだ楕円形だ。予想だが、何か別のものを卵で包んでいるのだろう、表目はつやつやと輝いていた。
疑問に思っていると、次はエリアがやってくると、言った。
「では、恥ずかしながらも、妾が料理に愛を込めさせていただくのじゃ」
「……ん?」
思考が付いていかない。戸惑う俺に、エリアは謎の術式を詠唱した。
「えっと、確か……萌え萌えきゅん、美味しくな~れ!」
「…………」
意味がわからない。
その全く意味がわからない台詞を言いながら、エリアは赤いソースで黄色い料理に何かよくわからない図形を描いた。匂いからして、至って普通のトマトソースだ。これで愛が込められたのか。いや、そもそも愛を込めるとはなんだ。わからない。エリアは何をしたいのだろうかと、俺は頭を傾げた。
俺が何も言わず何も反応しなかったから恥ずかしくなったのだろうか、エリアは顔を赤く染めて、ぱたぱたと奥へ走り去った。代わりにアガサがカトラリーを一組持ってきた。
「では、どうぞご賞味ください」
フォークとナイフが手渡されると、アガサは俺の後方に控えた。疑問の声を上げる。
「あれ? 二人は食べないのか?」
「もちろん。今のわたしとエリアはメイド。つまりお給仕をする立場だから、食べない」
よくわからない理屈だが、食べていいなら食べよう。加護を失ってから気分も食欲も落ち込んでいて、ずっと空腹だったのだ。
フォークとナイフを持ち、恐る恐る黄色い食べ物を左端から切り分ける。すると、中から赤いつぶつぶしたものが現れる。トマトソースを絡めた米だろう。そして、そこかしこにある肉のようなものは、ぶつ切りにされた鶏肉か。ふわりと香る、バターとトマトの甘酸っぱい香り。あまりの匂いの良さに、思わず喉が鳴った。
フォークで掬って、口元に運んで食べてみる。
うっ、美味い。
単純にそんな感想が浮かぶ。
外の卵はふわふわで、少しとろけるような舌触りだ。バターの芳醇な香りと卵のまろやかさが、絶妙なバランスでトマトライスを包み込む。ライスには角切りの鶏肉が惜しげもなく混ぜられており、噛むごとにジューシーな旨味が溢れる。
すぐに次の一掬いを口内に入れる。
バターの優しい味に卵とトマトソースとが相まって、素晴らしい美味さだ。卵の焼き加減も素晴らしく、ふわふわとろとろしていて、高級さを滲み出している。卵に包まれた中身も一品だ。トマト風味の米に鶏肉の旨味。とても考えられた料理で、飽きることがなく、端から端までずっと美味い。
なんだろう、エリアが愛を込めるとかどうとか言っていたが、本当に愛が込められていそうな美味さだ。いや、愛ではなく、まるで母親の愛情のようだった。料理は違えど、遠い記憶にある母親が作ってくれた夕食は同じような優しい味がしたのを覚えている。
懐かしさで感傷的になっていると、いつの間にか、俺は黄色い料理を食べ終わっていた。ナイフとフォークを皿に乗せる。
気が付くと、俺の左右にエリアとアガサが控えていた。俺が何かを言うよりも早く、エリアがなぜか丸盆で顔を隠しながら聞いてきた。
「どっ、どうじゃった?」
「ん?」
何を聞いているのだろう。考えていると、逆側に立つアガサが助け舟を出してくれた。
「そのオムライスはエリアが作った。美味しかったのか気になってる」
納得だ。頷く。
「もちろん、びっくりするほど美味しかった。いつだったかエリアが鹿肉のスープを作ってくれたが、こんな本格的な料理だって作れるんだな。意外だ」
魔王城のお姫様なのだから、自分で料理する機会なんてないと思っていた。
俺が本心から美味しいと誉めると、エリアは丸盆から顔の半分だけ覗かせて答える。
「妾は教えられた通りに作っただけじゃ。このオムライスとやらは妾の知らない料理で、本当の功績者は調理法を懇切丁寧に教えてくれたアガサである」
そうなのか、と俺はアガサの顔を見ると、彼女は首を振った。
「そんなはずない。わたしは教えることができても、こんな上手に料理なんてできない。卵なんて焦げなく綺麗に焼いていたり、上手にトマトライスを包んだりするのは、とてもわたしには真似できない。そこは自信を持った方がいい。それに、エイジを元気付けようと発案したのはエリア。つまり、エリアこそが評価されるべき対象である」
アガサの料理苦手は俺も知っている。脳内に大量の料理知識があるにも関わらず、食文化には興味がないのか、調理を全くしない。いつだったか旅の最中に彼女へ夕飯を頼んだ時は悲惨だったものだ。どこかで捕まえてきた魔物を熱素で軽く炙っただけ。肉食系だったため本当に不味くて、貴重なレーションを消化することになったのは苦い思い出だ。
だからこそ、アガサの指導下で料理を完成したエリアが凄いという発言は納得できるのだった。
しかし、その言葉に次はエリアが反対しようとした。このままだと互いに互いを誉め続ける流れになってしまう、そう思って、俺はすぐに言葉を挟んだ。
「おい、もうわかったから。つまり、二人とも俺を励ましてくれようとしていたんだろ? ありがとな」
俺は二人をしっかりと見据えて言った。
エリアもアガサも俺を元気付けてくれる。オリバーもそうだった、多少なり自分の利益を追求していたが。
加護を失い、本当に悩んでいる。そんな時にこうして励ましてくれるのが嬉しいのだ。
嬉しさで心が温かくなっていると、アガサがふと言った。
「ところで……結局、服装については触れなかったね」
「ん? 服装について? ……いや、触れただろ。確か、側付きの人が着ていたメイド服とかいうものだろ?」
「んー、んー、そうじゃない」
曖昧に答えると、アガサはじれったそうに指を左右に振った。
「違う、そうじゃない。エイジ、わかってない。女子が服装を変えたら――まず、ちゃんと褒めるのが常識」
「そっ、そうなのか……?」
戦場で育った俺に、そんな常識はなかった。けれど、否定する理由もない。
俺は戸惑いながらも、アガサへ視線を向けた。黒を基調としたスカート、ひらひらと揺れる白のフリル、腰に巻かれたエプロン。確かに、どこか凛とした印象があった。
「なんか、似合ってると思うぞ、アガサ」
俺がそう発言すると、はあっ、とアガサは無表情であからさまに溜息を付いた。
「本当にわかってない。どこがどう似合っているのか詳しく伝えないと。何より、褒める対象を間違えている。わたしよりもエリアを褒めてあげて。エイジを元気付けるために、頑張って着替えたのだから。……この服、可愛いでしょ?」
こてん、とアガサが首を傾げた。俺も首を傾げる。
「か、かわいい……のか?」
自分の言葉に、自分で混乱していた。何をもって「可愛い」と言うのかすら、俺にはよくわからない。だが――エリアの姿を、改めてじっと見つめる。
そもそも、俺は普通の人生を歩んできていない。物心付いた時に故郷を滅ぼされたわけだし、一般的に思春期と呼ばれる時期はずっと戦場で生きてきた。だから、格好いいとか可愛いとかそんな感情は、たぶん、他人よりも希薄にしか存在していないのだと思う。
そのため、アガサの言葉は理解できない。とはいえ、何か言った方がいいのかもしれないと考えて、俺はもじもじとしているエリアの姿をじっと見る。
星空のように輝く黒髪を、背中まで流しているその姿。どこか緊張しながらも、笑顔を崩さず、フリルの付いたスカートをそっと押さえている。豪奢な衣装ではない。けれど、妙に丁寧で、清楚だ。
よくわからない。
うーむ、やっぱり、よくわからない。
ただ、なんだろう。よくよく見ていると、薄らと感じる格式張った印象は、エリアのお嬢様らしい雰囲気をより引き出し、言われてみれば、少し心惹かれるものがある。まるで――守ってあげたくなるような?
これが、可愛いという感情だろうか。
思い返せば、よくわからない台詞もよくわからない動作も、この服装に合わせて考えると、なぜか守ってあげたくなるというか、魅力的に感じるのかもしれない。
「……うん、可愛いのじゃないか? 特にいつもと雰囲気が違っていて、珍しいというか新鮮感がある」
そう俺が言うと、もじもじとしていたエリアが顔を丸盆で完全に隠して、ふいに走り出した。
加速魔法でも使ったのかというほどの速さで、リビングの奥へと消えていく。
「あっ、あれ……?」
俺が困惑していると、隣のアガサが小さく頷いた。
「うん、もう少し詳しく褒めてあげてほしかったけど、まあ及第点かな」
「……逃げてしまったけど?」
「照れてるだけ」
「そうなのか? そうなのか……」
やはり俺にとって女子という生き物は理解不能なものだ。
そんな感想で頭を満たしていると、アガサが少し真面目な口調で話す。
「ところで、エイジ。これからどうするの?」
その声色に、空気が一変した。
俺は少しだけ視線を落とす。そして、しっかりと顔を上げた。
アガサがこの工房へ来たのは、エリアと共に俺を励ますためではなく、その答えを得るためだろう。
その疑問に、次は確固たる心で答える。
オリバーとオリバーのお陰で、答えは得ているのだから。
「決まってる。これまで通り戦う。たとえ加護がなくたって……俺は、まだ戦える」
「……どういうこと?」
「オリバーに会った。あいつが俺に新しい道を示してくれたんだ。いいか、俺があの重い剣で素振りができなかったのは、剣技発動時に発生する軌道と慣性力の方向が違ったからだ。つまり、逆に軌道と慣性力が同一方向である剣技、突き技ならこれまでのように戦えるはずなんだ。だから、安心してくれ。俺は戦える」
やりたいこと、やれることが脳裏に広がる。平和が実現した未来が想像できる。
俺ならその未来まで戦い続けることができる。たとえ、勇者の能力を失っていたとしても。
しかし、アガサの鋭い雰囲気は消えない。否定されるのが怖くなって、俺は彼女の言葉に被せるように続けて発言する。
「それに、加護もある。俺は女神から勇者の資格を奪われた。でも、それだけで諦めるわけにはいかない。別の加護を探せばいいとオリバーに指摘を受けた。例えば歴代の魔王から」
俺と視線を交差させているアガサが、ほんの少し眉を動かす。
「歴代の、魔王?」
「そうだ。魔王は死後しばらくすると女神のような存在になって、気まぐれで魔族に加護を与えると聞いた。今のところ神格を得た魔王は九人もいるんだろ? その中の誰かから、新たな加護を貰うことができれば……」
言いながら、自分でも気付いていた。言葉の先が、どこか曖昧で、手応えがないことに。
だが、口にしなければ、すべてが終わってしまう気がした。
アガサは短く息を付くと、その考えをばっさりと切り捨てた。
「エイジ、貴方は逃げてる」
「……逃げてる?」
「現実から逃げているようにしか見えない。確かに死んだ魔王は神様になる。でも、彼らはどこにいるの? 黄泉の国? 神格を持ったあとの彼らと接触する手段が、今のあなたにあるの? 加護を貰うにはどうすればいいの? 祈る? 儀式をする? それとも、どこかに赴く? 誰に教わるの?」
その言葉は、凍てつく風のようだった。
俺が何も答えることができないのを認めてから、アガサは無慈悲な正論を続ける。
「仮に――奇跡的にその手段が見つかったとして。どれだけの時間がかかると思ってるの? 一年? 二年? それまであなたは、ただ座って待っているの? 女神は待ってくれない。もうわたしたちに残された時間は少ない。なのに、エイジは悠長に待つつもりなの? それに、エイジは勇者。かつて魔族と戦い、何百、何千という命をその手で断った。そんな貴方に魔を統べる魔王が、加護を授けてくれると?」
アガサは座った俺の前に来て、真正面から見下ろした。
その灰色の瞳は、まるで俺が苦手な魔法書のように冷たく、そして痛々しいほど現実的だった。
「勇者の加護は万能だった。身体能力の向上のみならず、並外れた五感、他の誰にも使えない高威力の剣技。それを失った貴方は、はっきり言えばとても弱い。確かに加護さえあれば戦えるようになるかもしれない。けれど、今の貴方はわたしにも、加護の形質を変換したエリアよりも弱い。ねえエイジ、もう一度聞くけど。あなたは、本当に自分が今までのように戦えると思ってるの?」
言葉が、心臓の奥に突き刺さった。震えが、膝から、背筋から、喉元から這い上がってきた。
真っ白になった。視界も思考も何もかも。
衝撃的な言葉だが、どこか納得していた自分もいた。
言葉が出なかった。
頭のどこかでは、わかっていた。アガサの言っていることは、すべてが正しい。現実から目を逸らし、「まだやれる」と自分に言い聞かせていた。
理屈も、現実も、可能性のなさも――痛いほど理解できる。
それでも、口を閉じているしかなかった。
ただ、胸の内に広がる冷たい空白を、どうすることもできなかった。
事実をこうも仲間から真向に断言されると、逃げていた現実に向き合わなければいけなくなる。……逃げていた?
ああ、逃げていたのか。その表現はとてもしっくりくる。
ずっと俺は逃げてきたんだ。俺はただただ眼前の現実から逃げて、希望に縋っていただけだ。なら、これからも逃げ続けていてもいいだろう。
嫌などろどろした思考に落ちていく気がした。
俺は震える足で、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
力の抜けた動作だった。椅子が音を立てて少しだけ軋んだが、それにも構わず背を向ける。
「エイジ?」
アガサが呼び掛けてくる。
でも、その声に返答できなかった。
冷たい水に頭から沈められたようだった。肺の奥まで満たされる絶望に、呼吸もできない。心の中心が、ぽっかりと空いたままだ。
俺は立て掛けてあったアダマント製の剣――宵闇の剣を手に取ると、ふらふらと階段へ向かう。
奥から慌てて出てきたエリアが制止しようとする声も聞こえるが、は彼女たちの視線を避けるように、ふらふらと階段へと足を向ける。手すりにすら頼らず、ただ足元を見つめて降りる。一段ずつ、一歩ずつ。まるで夢の中を歩いているような、ぼんやりとした感覚だった。カウンターで剣の検分をしていたイザラが、俺の顔を見てぎょっとした。とても身体中が熱く感じるが、たぶん他の人から見ると、俺の顔は血の気のない蒼白なのだろう。
イザラが何か俺に言う。けれど、真白になった俺の思考には届かないし、知らない。扉を開ける。外の空気が肌に触れる。ひどく暑いはずなのに、どこか遠い場所のように感じた。
その瞬間、誰かが背後で叫んだ気がする――けれど、もう俺は、聞いていなかった。俺は工房の外へと駆けだした。どこへ向かうのかもわからない。けれど、このままここにいたら、全部が壊れてしまう気がした。
ここで戻らなければ、ずっと後悔する。頭ではわかっていても、そう、俺はその瞬間に逃げてしまったのだ。現実から。過去から、仲間の視線から、自分自身の弱さから。
震える脚で、必死に地面を蹴って、ただ遠くへ――遠くへ。




