52 一筋の光明8372
工房の外は想像よりもずっと寒かった。
冬の吐息が街路をなぞるように吹き抜け、まるで記憶の底にある傷をえぐるようだった。空気は透き通っていて、痛いほど冷たい。しかし、その冷たさが今の俺には丁度よかった。身体が凍えようと、心の中の虚無感に比べれば何でもなかった。
目的地は考えてない。ただ歩きたかった。歩くことで混沌とした気持ちを整理して紛らわしたかった。
鍛冶の街コズネスは城郭都市。魔族の侵攻を想定して築かれた迷路のような構造は、計画性と無駄の狭間に存在する芸術だった。意味のない曲がり角、行き止まりに見える階段、すべては敵を惑わせるためのもの。数多くの分岐点は街の住民ですら覚えきれない。
俺は数年間コズネスへ来ていなかったといっても、昔からイザラの工房へ遊びに行っていたので、この街の地理には詳しい。縁がなかった場所でもなければ迷うはずはないのだが、今はただ歩きたいだけなのだ。行く当てもなく歩き続ける。
最悪だ。
胸にぽっかりと空いた穴は塞がりようがない。比喩でもなんでもなく、あの女神は俺の胸から加護を奪ったのだから。憂鬱な気分は歩くだけだと、紛らわすことなんて流石にできない。
いったい、どこで間違えてしまったのだろう。
加護を失ったのは、女神の意に反することを俺がしたからだ。
俺は勇者でありながら、魔王と手を取り合い、世界平和を望んだ。
エリアの言葉に心を動かされたのは、自分の中に、既に答えがあったからだ。あまりにも多くの命を殺めた。その重みに、もう心が耐えられなかった。
けれど、その選択を悔いているわけではない。世界平和こそが心の奥底で俺が願っていたものだと、今ならば断言できる。ただその選択は遅すぎただけだった。
どこから歪んでしまったのか。エルリアの村で無邪気な少女を切り捨ててしまったあの日か。円形闘技場の中央で勇者に選ばれたあの瞬間か。それとも、魔族に両親を奪われ、帰るべき故郷を失った遠い過去のことか。あの時、復讐を選ばなければ、俺は正しい道を歩めたのだろうか。
そんなありもしない夢を見ていたからか。どこをどう歩いたのか把握できていなかった。
気が付けば、路地を抜けて広い目抜き通りに出ていた。
「ここは――」
商業区だ。
鍛冶の街コズネスで最も活気に溢れた地区だ。有名な鍛冶屋が立ち並び、商館も混ざっている。その隙間を埋めているのは酒場などの飲食店。そして意外にも、こんな朝早くだというのに、それなりの往来だ。鍛冶屋は開いていないが、商館に務める人も歩いているし、朝から店に客を呼び込もうとしている看板娘もいる。
だが、朝の淡い光の中で、商人たちの呼び声や娘たちの笑顔は、どこか遠い世界のもののようだった。俺の中の時だけが止まっている。世界がまるで灰色だけだった。
その騒がしさに紛れたくて、近くの酒場に心が惹かれた。そこの活気なら、この憂鬱な気分も紛らわせるかもしれない。
そう思い立って、身近な酒場に俺は入ると、目抜き通りが見える場所に座った。テラス席だ。
眼前にあったメニューをちらりと見ると、俺は店員を呼ぶ。
酒は飲むつもりはない。成人しているため、酒を飲むこと自体はできるのだが、自棄酒には及ばないし、加護を失った今となっては、酒にも弱くなっているかもしれない。周りの他人に、何よりこれ以上、エリアやイザラに迷惑を掛けるわけにはいかない。
そうした考えで、俺は普通にコーヒーを頼む。
店員は訝し気に俺を見たが、それは酒場に似合わぬコーヒーを頼んだからではないだろう。辺りを見回すが、早朝から酒を飲んでいる者は誰もいない。俺が目立っているのは、それだけ酷い顔をしているからだった。どれだけ抑えていても、漏れてしまう感情があるのだ。
「どうぞ、コーヒーです」
店員はおずおずと俺の前に注文したコーヒーを置くと、逃げるように店の奥へ戻っていった。そこまで酷い顔なのかな、と苦笑しながら、俺はコーヒーで口内を湿らす。
苦い。
まるで俺の心境を現したかのような、とびきりの苦さだ。喉に落ちる頃には、鈍く重いものが胃の底に沈んでいくようだった。
加護を失ってから、聴覚や視覚といった感覚の能力がどれも軒並み低下したが、どうやら味覚だけは普段通りらしい。まるで俺の気持ちを代弁するかのように苦いコーヒーに、俺は溜息を付いた。
「まったく、ここのコーヒーは苦いな」
そんな独り言を漏らした時だった。
誰に聞かせるでもない、空気に溶かすような言葉だったはずなのに、声が返ってくる。
「だけれど、僕はその苦みが好きかな」
驚いて、顔を上げると。
きらきらと輝く金髪が目に入った。
「やあ、エイジ君。奇遇だね。こちらの席、座っていいかい?」
軽く笑いながら、彼は返事を待つ間もなく椅子を引いた。
その所作は、まるで古い友人にでも会ったかのように自然で、無遠慮だった。
虚を突かれた俺は、咄嗟の反応すら遅れた。
「あ、ああ」
俺が急な来訪者に呆然としていると、金髪の青年は店員を呼んで、早口に注文をする。
「店員さん、僕も彼と同じコーヒーを。それから……そうだね、ごろっとリンゴのタルトをお願いできるかな。うん、彼のも一緒に二切れでさ。……砂糖? ミルク? 僕はいらないかな。たぶん、こっちの彼もいらないと思うよ。じゃあ、よろしく」
言葉が淀みなく流れる。芝居の台詞のように整って、隙がない。
ひらひらと青年が手を振ると、店員はぱたぱたと店の奥へ逃げていった。
俺はじろりと青年を睨みながら、ゆっくりとカップを置いた。驚くほど低く鋭い声で問い掛けた。
「オリバー、なんのつもりだ?」
自分でも驚くほど低い声。
怒気を込めたつもりはなかった。けれど、吐き出された言葉には、鋭く尖った殺意すら滲んでいた。
それを正面から受けた金髪の青年は、しかし、何の動揺も見せずに肩を竦め、まるで春の陽気に頬を撫でられたような穏やかさで言った。
「どうもこうもないさ。ただの偶然さ。少し散歩をしていたら、どこかで見た顔があったものだから」
青年はにやりと笑った。
その表情からは、心の底で何を考えているのか少しも読み取れない。
オリバー・アルベルト。
アルベルト騎士団三代目総長、整世教会教皇の次に人界で最も大きな権力を持つ者である。
お忍びを演じているのか、着ているものは冒険者らしい装備だが、それでは誤魔化せないほどの気品さが外見からは溢れている。くすみさえない煌めく黄金の髪に、透き通ったベネディクトブルーの瞳、そして誰もが振り向いてしまう美形の顔立ち。その存在は、絵画から抜け出たように整っていた。
そんな英雄譚に出てくる主人公のような青年は、俺の正面に音もなく腰を下ろし、手をゆるやかに組んだ。明らかに長話をするつもりの態度に、俺は先ほどの答えを真っ向から否定する。
「……そんなはずはないだろう。いつかのように、俺の後ろをつけてたんだろ?」
鋭く絞り出された言葉に、オリバーは悪びれもなく頷いた。
「ご明察だ、その通りさ。アガサ君によると、君は加護を失ったらしいから、もしかしたら落ち込んでいるのではないかと思ってね。あの工房を出てから、後ろをつけさせてもらったよ」
「趣味が悪いな」
「そう言われると思っていた。でも、君にしては意外と元気そうじゃないか。返事もまともに返ってくる」
心外であった。俺は首を振った。
「そうでもない。今にも吐きそうなほど気持ち悪い感覚がしている」
「確かに、芸術的なほど不健康な顔をしているね。目の隈が凄いよ、まるで死ぬ直前の病人みたいじゃないか。――おっと、タルトが来たね。店員さん、ありがとう」
見ると、ちょうど、注文したものを店員がトレイに乗せて運ばれてくる。
オリバーの顔に目を奪われたまま、彼女はそれらをテーブルに置いた。オリバーのコーヒーと、確かリンゴのタルトだったか。香ばしい香りが鼻を誘う。椀型の生地に牛酪とリンゴがこれでもかと盛られ焼かれて、確かにとても美味しそうだ。
オリバーはフォークで一切れ持つと、気楽な動作で口内に放り込んだ。
「んー、やっぱりここのタルトは美味しいね。この店に入ったエイジ君はお目が高い」
「…………」
「あっ、もちろんそっちのタルトは君のだから、食べていいよ。もちろん、支払いは僕が持つから安心して」
この場の重みを解きほぐすような無邪気さ。
いったい、何しに来たのだ。優雅にティータイムするわけではないだろう。
オリバーは俺と話をしに来たはずだ。俺の未来について。
気になっているはずなのに、言い出さない。ずかずかと他人の心に土足で入り込む性格なのに、そんなところは配慮があるのだなと感じた。とにかく意外だった。
俺はその配慮に甘んじて、タルトを口内に含む。しっとりとした触感のリンゴに、さくさくと崩れる生地、ほんのりとした甘みの牛酪。なるほど、美味い。その甘さのお陰で、少し気持ちに余裕が生まれる。
フォークを皿に置くと、俺は自分から話し始める。
「……アガサから聞いているのなら、話は早い。俺はつい昨日、女神の加護を失った。まあ、考えれば予想できることだった。女神の意向と違うことを俺はしていたのだから」
オリバーは俺から言い出すとは思っていなかったのだろう、きょとんとしていたが、すぐに頷く。
「そうだね。女神は世界平和を望んでいなかった。いや、例え望んでいたとしても、魔族を殲滅した後の、人族だけの世界平和だろうね。だから、霹靂の魔王エリア嬢と君が戦いではなく融和を選んだ時点で、加護が消えることは既定路線だった。けれど、ただ……ひとつだけ想定外があった」
「――想定外?」
言葉を濁した彼に、俺は続きを促した。オリバーは仕方ないといった表情で、続ける。
「たださ、加護を失うのがこんなに早いなんて想定外だったよ。本来なら一年とか二年後あたりになるはずだったのに。君の意志が行動に結びついてから、わずか数週間で干渉されるとは流石の僕でも思っていなかったよ。……まさか、ずっと女神がエイジ君を監視してた? 女神の干渉力が知らぬ間に増大した? まあ、理由はわからないけど、どちらにせよエイジ君は加護を失った。そのせいで、僕の計画が全て崩れてしまったよ」
「……計画、ってなんだ?」
俺の疑問に、オリバーはフォークで生地を切り分けながら答える。
「君たちが目指す世界平和には僕も賛同しているんだ。組織の立場的に簡単ではないだけで。以前、君たちに僕は計画の一端を話したよね? 覚えているかい?」
「あー、もちろん……。ルベルク共和国の首都ヴァルナにエリアが訪れることだったな? 何か特別なことをする必要はなく、ただ魔王がアルベルト騎士団の本部があるその場所に行くだけで、それまでの教会至上主義をひっくり返す……だったよな?」
記憶に自身がなくて同意を求めると、彼は頓狂とした顔で頷いた。
「よく覚えているね、その通りさ。しかし、それは君たちというジョーカーが現れたから造った策なだけで、かねてより僕が考えていた計画はまた別にあった。それは信頼できる人物に僕の使者としてドロッセルという街へ向かってもらい、そこで協力体制の同盟を結んでもらうという計画さ。もちろん、ドロッセルはわかるよね?」
「もちろん。群雄都市だな?」
群雄都市ドロッセル。魔界の中央にあるという街の名前で、魔界でも珍しい様々な種族で構成されていることで有名だ。普通、魔界では自分たちの種族だけで村などを形成しているが、対して、ドロッセルは全ての種族に開かれている。しかし、そこは強者だけを歓迎すると聞く。
戦闘能力が全ての街で、強ければ強いほど偉いとされている。毎年秋の季節になると最強の座を争うために、統一武道選考会というものが行われるらしい。いわゆる、弱肉強食の街ということだ。
「ドロッセルの連中は、人族と魔族の戦争には首を突っ込まない主義なんだ。ああ見えて、彼らは彼らだけで腕を競い合ってるのが性に合ってるらしくてね。だけど、もしも彼らが本気で参戦すれば……戦況なんてあっという間にひっくり返る。火に油を注ぐようなもので、戦は一気に泥沼さ。なにせ、あそこは戦うこと自体が娯楽みたいな連中ばかりだからね。被害は、想像するのも嫌になるくらい甚大なものになるだろう。だけど、彼らは戦争に参加していない。傍観を選んでいるんだ」
なるほど、と俺は感嘆した。オリバーの狙いは、彼らを説得して仲間に引き入れることなのだろう。不安の種は少ないに越したことはないし、しかも、いざ味方にできればこれ以上ないほど頼もしい存在になる、そういう目算なわけだ。
「……なるほどな。とはいえ、そんな交渉を任せられるような信頼できる人が都合よくいるのか?」
「僕を誰だと思っているのさ! 信頼できる人は二人、いや三人……? ともかく、その内の一人はエイジ君も知っている名前だろうね。ベゼル・アルダウス、商人さ」
誰だっただろう、と考えて思い出す。
商人ベゼル。俺とエリアがフロゥグディからコズネスへ移動するために使った、護衛依頼の雇い主だ。後々に調べて、実はコズネスでも有数な商社の一つ、ベゼル商会を立ち上げた創始者本人だったことに驚いたものだった。
商人ベゼルは魔界で仕入れた商品を人界で売る、しかも仕入れから輸送と販売まで全て自ら行うという、他に類を見ない商売モデルで成功した商人だ。そんな風変わりな性格だからか、魔族に対しての偏見は一片もなく、エリアが魔族だと知っても苦笑いだけだった。
「彼があの商会を創設しようとしていた時から、彼は僕の知り合いでね。お金では買えないほどの信頼を貸し合っている仲なのさ。だから、僕は最初に交渉人として彼を派遣するつもりだった。というわけで、彼をこの街に呼び戻したわけさ。いやあ、運命って凄いね。商人ベゼルから君と知り合いだったという話を聞いた時は、本当に驚愕を通り越した驚愕だったよ」
「…………」
おどけた様子のオリバーだが、本当に驚いていたのは俺の方だった。
以前にも教会への反乱を企てていると聞いたことはあったが、そこまで入念に綿密に計画が練られていたなんて。
これは年単位のものであり、彼は俺に計画の全容をまだ話していないのも読み取れた。
例えば、聞いた話通りに計画を実行するならば、俺の師匠であり彼の腹心らしい騎士団師範長アングリフに命令書を託してしまえば、全て問題なく実行されたはず。そしてオリバーはルベルク共和国首都ヴァルナからわざわざここまで来なくてもよかったはず。
しかし、彼がここにいるのは――アングリフを交渉人ベゼルの護衛として同行させるつもりだったのだろう。彼の護衛をしたことがある俺にはわかる、ベゼルは自衛の手段さえ持たない弱い商人だ。対して、アングリフは加護こそ持たないが、俺に剣を教えたほどの実力者で人生経験も豊富。上級の魔物さえ相手にしなければ、お荷物商人の一人ぐらい抱えても群雄都市ドロッセルまで辿り着けるだろう。
そしてコズネスの騎士団を纏めていた彼が不在となると混乱する可能性があるため、総長であるオリバーがわざわざ訪問していたというのが事の真相か。
繋がった。吐き気がするぐらいに完璧な計画だ。
しかし、オリバーは残念にもその計画の修正を余儀なくされる。いや、幸いにもより成功率が高くなる作戦に修正する機会が巡ってきた。
「――そこで俺が現れた、ということか」
「そういうことだよ。商人ベゼルの代わりに、君が僕の使者として交渉へ望んでほしかった」
彼の奇策は納得できるものだ。先の戦いでファイドルに負けた俺だが、使者としてドロッセルに訪れたら、普通は非力な人族のくせして強い奴として歓迎されたはずだ。
「しかし、俺が言うのもなんだけど……勇者として俺はこれまでに何人もの魔族を斬ってきたんだ。故郷を滅ぼされた恨みで、理屈も関係なく、ただ目の前の敵として殺してきた。そんな俺が、あいつらに歓迎されるとは思えない」
そう言って、俺は目を伏せた。
正義の名のもとに積み重ねてきた殺しは、今や過去の亡霊のように俺の背に張りついている。歓迎される資格なんて、あるはずがない。
「……それも、もちろん想定済みだよ、エイジ君」
彼はさらりと言ってのける。まるで、俺の内心を最初から読んでいたかのように。
「同盟を結ぶためには、僕の代理を戦争の象徴となった君が行うべきだ。でも、どうしても勇者という立場への批判は避けられない。だから、君の正体を明らかにした上で、既に君が安全な人物だという証明をすればいい。僕が信頼する二人に書状を持たせ、君より先んじてドロッセルへ向かってもらうことにしたんだ。ここで交渉人としてのお役が御免になってしまった商人ベゼルに、その役目を任せようとしたんだよ。彼はフロゥグディ経由で魔界を巡り、魔族からの信頼が厚いからね。もう一人の同行者も……まあ紹介する必要はないけれど、彼女も似たようなものさ。裏切られる心配もないし、魔界でも顔が広いからね。そんな彼らに君の安全性を周知させてもらってから、本命であるエイジ君が訪れて同盟を結ぶ。単純で合理的な奇策さ」
俺は瞠目して深呼吸した。以前から彼の知性は知っていたつもりだったが、ここまでとは流石に思っていなかった。全て彼の掌の上で踊らされていた、そう言われても信じてしまうほどに、彼の作戦は荒が見付からない完璧なものだった。
商人ベゼルは、どうやら魔界では中立の存在としてかなり名が知られているらしい。偏見も先入観もなく魔族と分け隔てなく平等な商いを行い、良好な関係を築いてきたと噂に聞く。そんな彼が呼びかけるのならば、かつて多くの魔族を殺してきた勇者であった俺が既に安全な存在であるという荒唐無稽な事実でも、信じてもらえることができるのだろう。
だが、オリバーは見込みを間違えた。俺が加護を失うのは既定路線だったらしいが、女神がここまで早く行動に移すとは想定していなかったという。
俺は加護を失った。だから、もう使者として訪れることはできない。政治と軍略の専門家であるオリバーが立てていた計画を、俺は崩してしまったのだ。
それを自覚して、俺は深々と頭を下げた。
「すまない、俺のせいで迷惑を掛けてしまった」
謝罪の言葉は思ってもいなかったのか、オリバーは面食らった顔でいやいやと手を振った。
「謝る必要はないよ。僕は計画をエイジ君に話した覚えなんてないし、そもそも、本当に困っているのはエイジ君じゃないか。僕のことを考える前に、自分のことを考えるべきだよ。……話を戻すけれど、エイジ君は女神の加護を失って、以前より大幅に弱体化した。で、これからエイジ君はどうするつもりなんだい?」
問いかけは鋭く、だがどこか優しかった。俺は冷めてしまったコーヒーを喉に流し込んで、一拍置いたがそれでも答えは見付からない。
「……まだ、わからない。だが、何かは見付ける。必ず見付けなければならない。でなければ、ここにいる意味がないからな」
加護を失った。
加護は万能だった。基礎体力の向上。戦闘能力の向上。それだけではなく、筋肉痛にも病にもならない。視力や聴覚を含む五感さえも強化される。例えるなら、一騎当千の強さを与えるのが加護だった。
全てを失った俺は、代わりに何か別のものを見付けなければならなかった。
「どのような道を辿るのもエイジ君の自由さ。でもね――」
彼は真剣な顔で声を潜めた。重要な言葉が紡がれる、そう直感した。
「何かを見付けるのならば、できるだけ急いでほしい。既に賽は投げられた。先日のコズネス攻防戦で僕たちアルベルト騎士団が魔王と協力したという情報が整世教会へ伝わるのは時間の問題なんだ。二年、いや一年もすれば全面戦争が始まる。天使計画という懸念すべき事項もある。だから、それまでに君は新たな何かを見付けなければいけない。魔界で信頼と信用も得なければいけない。もう君は後戻りできない選択をしたんだよ」
囁くほど小さな声に、俺はぞわりと背中を震わした。
思わず気圧されてしまった俺を見て、オリバーはふふっと笑って深刻な空気を吹き飛ばした。
「もちろん君だけが全てを背負う込む必要はないさ。アルベルト騎士団が掲げる方針は昔も今もいつだって『戦火から民を護る』だ。世界平和を願う者への助力は拒まないのだから。でも残念ながら、僕の騎士団は立場的に主立ってエイジ君へ協力できないからね。僕が個人として少しだけ助力してあげよう。加護を持たない者なりの戦い方、それを君に提供しよう」
「戦い方?」
顔を上げる。
オリバーはにやにやと笑いながら、優雅にコーヒーカップを揺らしていた。
「うん、新しい戦い方さ。僕ら騎士団は加護を持たない者たちによって組織されている。だから、加護を持たないなりの戦い方をエイジ君に教えることができるよ。もちろん、対価はいらないさ。君が再び世界平和を目指すというのならばね」
「ほっ、本当か!」
思わず、俺は机の上に乗り出していた。彼は大仰に頷くが、その後に続く言葉は想定していなかったものだ。
「本当さ。訓練しよう、エイジ君。僕が教えよう。加護を持たない者なりの戦い方を君が会得するまで、責任を持って鍛えてあげるよ」
「……お前が、俺に?」
「いま僕のことを馬鹿にしたでしょ。確かに僕は君との戦いで一度既に負けている。でも、加護を持たない今のエイジ君では僕に勝つことは不可能だね。君には元々、身体の動きにセンスがある。でも、君は圧倒的な加護を過信したのか、それとも有り余る魔族への憎しみがそうさせたのか、動きがとても雑で荒っぽい。誰かを倒すためならそれで構わないけれどね、誰かを守りたいのならば僕に剣を教わるべきだね」
コーヒーの湯気が、ゆらりと揺れた。
それがまるで、沈んでいた水面に一石を投じたかのようだった。俺はその善意の施しにそっと問う。
「……どうして、そこまでしてくれる」
その問いに、オリバーは少しだけ目を細め、そして――静かに、けれどどこか切ない声で、こう言った。
「僕もまた変えられない自分の運命から逃げられない存在なのさ。だから、僕たちはエイジ君に期待する。いつか僕をここから連れ出してくれる存在になると」
そっと瞳を閉じた。
誰かが、まだ自分に期待している。誰かが、まだ自分を信じている。
消えかけていた心の炎が、音を立てて燃え盛る。
「いつから始めたい?」
その問いに、俺は真っ直ぐな眼差しで答えた。
「――今からだ」
「即答だね。うん、まあ、いいけど。……じゃあ、これから一緒に騎士団支部へ向かおうか。あの円形闘技場を使えばいい」
そう言って、オリバーは銀貨を数枚テーブルに置き、音もなく立ち上がった。
その背中に、俺は迷いなく続いた。
もはや、過去の力にすがる必要はない。
これからは、自分の足で立ち、自分の剣で世界を切り拓くために。




