51 痛みのすれ違い5113
いつものように、目が覚めた。
旅をしていた時は、ろくに寝ることもできなかった。魔物がいつ襲ってくるかわからないため、剣を抱いて寝るのがあたりまえで、見張りとして一晩中ずっと起き続けることもある。天候によっては夜通しで道程を進むこともあるし、寝れば死ぬといった極限状態に陥ったこともある。
どちらにせよ、俺にとって睡眠とはほとんど意味のないものであった。
女神から与えられていた勇者の加護は万能で、その超人的な能力は多岐に渡る。単純な身体能力の向上だけでなく、特殊な剣技が使用できるようになったり、魔力量の上限値が僅かに高くなったり。五感が強化されたり、無尽蔵のスタミナで疲れにくくなったり、致命的な傷でなければ補填魔法で塞いでおけば勝手に治ったり、そして睡眠しなくてもコンディションが変わらない。例え何日も寝ていなくても、集中力を乱すことがない万全な状態であった。
色々な理由もあって寝る習慣はまちまちだが、ほとんど必ず毎日することもあった。剣の素振りだ。
日の出と共に起床し、仲間たちが起きてくるまで剣の素振りをするのが俺の日課だった。
必ず同じ時間に起床し、同じ時間に素振りをする。四年間も続けたその習慣は、もはや考えなくても身体が覚えているぐらいだった。
だから、今日もまたいつものように、目が覚めた。
そして気付く。
その身体の重さに。
ああ、もう加護はないんだな。
かつては目覚めた直後だろうが、筋肉はしなやかに動いて風のように軽やかだったはずの身体が、今は鉛のように重い。視界は霞み、聴覚も鈍い。まるで五感すら、靄が掛かったような曖昧な感覚だった。
そう、これは現実だった。
昨日、俺は勇者の資格を剥奪された。
――堕天の勇者。汝に似合う言葉はこれ以上にないだろう。
女神の言葉が耳の奥で木霊する。魔族の滅亡を望む女神にとって、以前までの人形みたいに操ることができた聞き分けのよい俺はまだしも、エリアと協力して世界平和を目指そうとする俺は目の敵となったのだろう。必死に対話を試みようとする俺には聞く耳も貸さず、彼女は問答無用で俺から加護の力を取っていった。
現実に直面しなければいけなくなったのは、すぐのことだった。アダマント製の宵闇の剣はろくに振れなくなったし、身体も重たく思うように動かない。構えてスターダスト・スパイクを発動しようとすれば、純白の燐光が漂うことがない。全ての要素が、俺は既に勇者ではなくなったのだということを通告していた。それでもなお現実の直視ができなかった俺に、優しい嘘を与えることなく、代わりに抱いていた幻想を砕いたのはアガサだった。
――あなたは女神の加護を失った。
諦められずに様々な剣技を試し、勇者専用剣技は果たして一度も発動に成功できず、縁がなかったはずの筋肉痛に全身が苛まれ、そして全てを否定するかのように泥のように眠ったところまでは覚えている。
重すぎる現実は俺に夢への逃避を囁いていた。
おとなしく二度寝でもしようか。そう考えて、俺は両目を閉じた。
だが、眠れない。すでに目が覚めてしまっているし、心が妙にざわついて、まぶたの裏側でさえ安らぎを与えてくれなかった。
布団の中は暖かい。冬が到来したばかりの朝にしては、ぬくもりがしっかりと残っている。だというのに、まるで吹きさらしの崖にひとり立たされているような、どこか心細い冷たさが、胸の奥に居座っていた。
だから――、どうしても考えてしまう。
勇者ではなくなった俺は、ただの一般人だ。それも、世の中に山ほどいる「剣が少し使えるだけの男」に過ぎない。じゃあ、そんな俺に、一体何ができる? この先、何をして生きていけばいい?
エリア――あいつが俺を旅の仲間に選んだのは、俺が勇者だったからだ。
女神の加護を与えられた人族最強の兵器だからこそ、魔族の王である彼女は対等な立場で手を結ぶ価値を見出してくれた。
しかし、今の俺は勇者としての資格を失った。きっと、その旅に同行できるだけの能力を示すことはできない。彼女のように知性を持たず、かつての能力は失ったのだから。勇者じゃない俺に、果たしてあの旅に加わる資格はあるのだろうか。
舞台から退く。それが自然な流れだろう。
誰からも責められることはない。
いや、むしろ、当然と受け止められるだろう。
元勇者が、ただの人間に戻った。ただそれだけの話だ。
――でも。
その後に残されたエリアは、どうなる?
あいつが信じて進もうとしている「人間と魔族の共存」という理想を、他に誰が担える。どこを探しても、そんなものに真剣に向き合う奴はいない。人間の中にも、魔族の中にも、理解者などほとんどいない。むしろ周りは敵だらけだ。
アガサのことも考える。彼女は何度か俺たちを助けてくれた。能力もあるし、知識も豊富だ。けれど、どうしても信用できない。あの無表情の奥に何を隠しているのか、いつまで経っても見えてこない。悪い奴じゃないとは思う。でも、彼女はいつか俺たちと決別するのではないか、そんな疑念が拭っても消えなかった。
ならば、やはり――俺が、傍にいなければならないのか。けれど、それはただの執着じゃないのか。肩を並べる資格がないとわかっていても、傍にいたいと願うのは、ただの甘えか?
駄目だ。堂々巡りだ。考えても考えても、答えなんか出てこない。どうすればいい。いったい、どうすれば――。
思考が、渦巻いて止まらない。まるで自分という存在の輪郭が、曖昧になっていくような錯覚に襲われる。
――考えても、無駄だ。
最後には、そんなひと言で、すべてを押し流すしかなかった。
俺は心に蓋をする。感情が湧き上がらないように。後悔も、焦燥も、悲しみも、何もかも、いっそ無かったことにするように。
「……起きるか」
小さく呟いて、布団からもぞもぞと這い出る。冷え切った空気が、頬を撫でていく。暖を取っていた身体が空気に触れた瞬間、ぶるりと震えが走った。加護を失って、温度変化にも弱くなったらしい。
それでも、布団に戻る気にはなれなかった。眠気はもう、とうにどこかへ消えている。
窓から差し込む朝日が、木造の天井や壁を金色に照らしている。外はまだ霜の気配が残る冬の朝。それでも日差しはやわらかく、少しだけ気分を落ち着けてくれる。
部屋には、俺一人だけだった。エリアはもちろん隣の部屋で寝ているはずだが、問題は、イザラの姿がないことだった。鍛冶師は朝が早いとはいえ、この時期は炉が冷え切っていて、火がまともに使えるまでに時間がかかる。無理に早起きする必要はないはずだ。
怪訝に思って耳を澄ませると、床下から何か音が聞こえた。やっぱり起きているらしい。
俺はブーツを両足に履くと、枕元に立てかけていた剣へ手を伸ばしかけ……そして、やめた。握っても、意味がない。加護を失った今の俺には、不壊黒鉄製の剣は重すぎる。素振りすらままならない。
剣を残し、身軽な格好のまま階段を静かに降りていく。
一階に降り立った瞬間、かすかに鉄と火の匂いが鼻を掠めた。炉が使われた直後のような、暖かな残り香。カウンターの奥でイザラは何か作業をしていた。
俺はなるべく何でもないような口調を装い、話し掛ける。
「おはよう」
「……エイジか、おはよう」
イザラの声も、よそよそしくは感じないが、どこか普段より少しだけ疲れているように聞こえた。鍛冶師も朝からの準備があるとはいえども、こんな時間に起きることはないはずだ。
その顔を見た瞬間、俺は気付いた。目の下の隈。落ち着きのない手の動き。寝不足か、あるいは。
「珍しいな、イザラがこんな時間に起きているなんて。しかもその顔……あまり寝てないだろ?」
そう言うと、イザラは一瞬ばつが悪そうな顔をして、視線を逸らした。
「……まあな。ちょっとさ」
歯切れが悪そうに彼は答えた。曖昧に笑うその表情は何かを隠しているようだ、そう思った矢先、イザラがぽん、と何かをカウンター越しに差し出してきた。
「ほら、これ。エイジに」
ぶっきらぼうに彼が差し出したものを受け取る。
それは一振りの剣だった。
俺は無言で鞘に収められた刀身を抜き出す。一見すると、色こそは異なるが、太さや長さデザインに至るまで宵闇の剣と同じものだった。だが、それは驚くほど軽かった。アダマント製のものとは比べ物にならないが、加護を失った今の俺にすると、ぴったりと手に収まる。
「……これは?」
「前にお前が使ってた勇者の剣、あれを鋳潰してな。炭素鋼と混ぜて造った。強度はアダマントには劣るが、そのぶん軽い。扱いやすさ重視で仕上げた。……銘は、『白百合の剣』ってところかな」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
白百合。
清らかさや再生を象徴するその名は、彼が何を言わんとしているか伝わるのに十分だった。
「この剣なら、加護がなくても扱えると思う。今のお前でも、な」
俺は、はっとした。
イザラの目はまっすぐだった。ふざけた調子はない。本気だ。
「まさか……お前、このために……?」
「ああ、あの宵闇の剣が再び振れるようになるまでの当面は、これを代わりに使えばいい」
苦笑しながらそう言う彼の顔に、ほんの少しだけ誇らしさが滲んでいた。
俺は、胸が詰まるような思いで剣を見下ろす。
この白百合の剣は、身体能力が低下した今の俺に合わせられて造られた剣だ。
彼はあまり寝れなくて、といった。まさか、彼が寝ていないのは、この剣を造っていたからではないだろうか。考えてみれば、冬の朝なのに、あまり寒くない。炉を使用していたということか。
嬉しかった。心から、嬉しかった。
でも同時に、悔しかった。加護を失った俺を、こうして気遣わせてしまったことが。唯一の親友であるイザラに、こんな風に思わせてしまった自分が、情けなくて仕方なかった。
そう自分に嫌気が差していただろうか。俺は思っていたことと真逆のことを気付かず口走っていた。
「……いらないよ」
イザラが驚いたように俺の顔を見る。
その言葉をすぐ修正すればよかったのに、俺は俺らしくもなく言葉を続ける。
「いらない。その剣じゃなくても、宵闇の剣だってまだ使えるはずだ。それはエリアにでも渡してやってくれ。あいつも成長して、そろそろ武器が身に合わなくなってきたからな」
白百合の剣を、イザラに返す。
刹那、重い沈黙が流れた。イザラは剣を受け取りながら、ゆっくりと視線を落とす。
胸の奥が、ぎり、と軋んだ。言ってしまった。
今更ながらに、激しい後悔に苛まれる。
「……すまない」
俺はすぐに頭を下げた。声が少し震えていた。
「俺のために鋳ってくれたのに、言い過ぎた。まだ少し気持ちの整理ができていないみたいだ」
イザラはしばらく黙ったままだった。炉の火が消えたあとの、微かな金属の匂いだけが、空気を満たしている。やがて彼はふっと息を吐き、肩を小さく竦めてみせた。
「……いいさ。お前と俺の仲だろ」
その言葉には、まるで何事もなかったかのような、軽さがあった。だが、それが逆に心に沁みた。気遣ってくれるその優しさが、余計に胸を締めつける。
言葉が見付からないまま、俺は手元のカウンターに視線を落とす。そこには、戻された白百合の剣が静かに横たわっていた。冷たく、けれど確かに人の手で形づくられたそれは、どこか申し訳なさそうに沈黙していた。
ふと、工房の窓の外に目を向ける。まだ日が昇りきる前の朝の空気が、白くけぶっている。吐いた息さえすぐに白くなりそうな、凍てつくような冬の朝だ。
だけど、外に出たいと思った。言葉ではどうにもならないこの気持ちを、居た堪れないこの感情を、少しでも吐き出したかった。
俺は無言のまま立ち上がり、壁に掛けてあった外套を手に取った。革の質感が手のひらに冷たく伝わってくる。すると、背中越しに呼び止められる。
「エイジ、どこ行くんだ?」
背後からイザラの声がかかる。責める声でなかったことへ一抹の安堵と失望が浮かぶ。
少し考えて、俺は振り返らずに答えた。
「……今のところただ少し歩きたいだけで、何も決めていない。昼までには帰る」
顔は見せなかった。今の顔を、見せたくなかった。何を言っても言い訳になる気がして、足早にドアへと向かう。それだけを言い残して、俺は工房の外から出た。




