50 堕天2336
「はっ――!」
俺は飛び起きると、枕元に置いていた宵闇の剣を手に取り、抜刀してから油断なく構えた。
場所は、鍛冶工房の二階。リビングとイザラの自室を兼ね備えた、住居スペースだ。時刻は薄暗い窓の様子を見ると、まだ夜明け前なのだろう。ひんやりとした空気が広がっていて、冬の到来に相応しい気温だ。
俺以外に動くものはいない。たった一つしかない寝室のベッドはエリアが使っているから、隣のソファーでイザラが雑魚寝している。いたって普通だ。侵入者も、俺の命を狙う狼藉者もいない。旅していた頃とは違うのだ。あの時は僅かな殺気にも反応しなくてはならなかった。だが、今はどこにも殺気を感じない。ここは街中だから魔物もいない。安心していいはずだ。剣を抜く必要なんてない。
しかし、俺は構えた剣を納刀できなかった。
嫌な汗がじっとりと身体に張り付き、心臓が五月蠅いほどに高鳴っている。何とも言えぬ不快感が心身を蝕む。
ああ、身体が重い。心が重い。
こんなわけもわからぬ感覚を引き起こしたのは、先ほどまでの夢が原因だろう。たしか、とても懐かしくて、とても悲しい夢を見ていた気がする。その寸前の記憶を手繰り寄せようとするが、なぜか、全て両手から零れ落ちるかのように、どんな内容も思い出せない。
手を伸ばしても届かず、俺はその夢の回想を諦めた。えもいわれぬ不快感と違和感が増すばかりだが、霧の中を手探りで歩くのは不可能なのだ。
俺は頭を振って、嫌な感覚を追い出すと、静かに納刀した。しかし、この僅かな金属音に気付いたのか、イザラが首を眠そうにもたげた。
「……エイジ。もう起きるのか?」
言外で起きるには早いぞ、と言っている。鍛冶師であるイザラは炉を温める必要があるため、冬はかなり早くから起きている。だが、そんな彼もまだ起床しない早朝。
「ああ、悪夢を見たらしく二度寝はできそうにない。庭で素振りでもしてるよ」
そう答えると、俺はブーツを両足に履いてから階下へと向かう。まだ心臓は高鳴ったままで、だからこそか、一歩ごとの階段が僅かに軋む音が不愉快で忌まわしい。裏庭に続く戸を開けると、夜中にしっかりと冷えた空気が工房内に吹き込んでくる。
身体中にびっしょりと嫌な汗が張り付いている俺は、ほっと息を吐いた。どうやら、知らず知らず身体もだいぶ凝り固まっていたみたいだ。両手を宙に掲げてほぐしてみる。が、やはり重い荷物を背負っているような感覚は抜けないままだ。
まあ、それも剣を振る内に消えてなくなるだろう。素振りのいい所は、その反復動作のおかげで心が浄化していくような、五感が研ぎ澄まされていくような感覚がすることであるから。
俺は宵闇の剣を静かに抜いた。やはり酷い違和感だ。握る剣が予想以上に重い。もちろん素材は端から端までアダマントなのだから、普通の剣より数倍も重いだろう。前に使っていた勇者用で誂えられた希望の剣と比べても倍以上の重さだが、三週間以上もこの剣を扱っているから流石に慣れている。
――はずなのに、なんて重さだ
片手だけでは落としてしまいそうな負荷が掛かる。まるで、俺が初めて鉄製の剣を持ち上げた時に戻ったかのようだ。
俺は深く腰を落とすと、剣の切っ先が地面に接触するぎりぎりまで下げる。俺が二番目に覚えた古代流派剣術、旋緋。イメージを固めると世界の理が読み取り、剣に赤い燐光が宿る。いつもよりも体調が悪いからか、その光は酷く弱々しい。吹けば消えてしまいそうだ。
俺は素早く息を吐くと、右足で強く地を蹴った。剣が引っ張られるように加速する。何度も行った動作をトレースして、左足を軸にして、右足を滑らせるように前方へ移動させる。
最大の威力が乗った剣は右下から鞭のように跳ね上がり、ぶんっと虚空を切り裂いた――
「んなっ!?」
が、俺は剣技の慣性に踏ん張り耐えることができず、そのまま無様に地面へ倒れ込んでしまった。直後、右肩から指先に渡り、筋肉痛のような鋭い痛みが走る。加護を得てから一度も経験したことがない痛みだ。ありえない、たった一度も剣を完璧に振ることができないなんて。
一体、何が起こっているんだ。
俺が四つん這いの体勢で呆然としていると、視界に人影が入った。顔を上げた俺が見たのは、ぶかぶかのローブに袖を通し、空色の短髪が目立つ少女。最凶の魔術師とも呼ばれる仲間のアガサだ。
「エイジは既に気付いている。気付いているのに、気付いていないふりをしている」
「なに、を……?」
「立って剣を握って、エイジ。確認に必要な剣技は理解しているはず」
何を言っているのかわからない。少しも理解できない。しかし、アガサはなぜか俺の身体が重い原因を知っているようだった。
俺は言われた通りに剣を握り構え直す先ほどの旋緋と構え方がとても似ているが、発動される剣技は全く似てもいない。俺が扱う剣技の中で最も発動が難しく威力も高い九連撃剣技、スターダスト・レイン。俺がイメージを込めると、すぐさま刀身が青白いスパークを――纏わなかった。
「――ッ!」
ありえない。なぜだ。どうして。嘘だ、そんなはずはない。俺だけが使える剣技だぞ。認めたくない。理解したくない。嫌だ、嫌だ、何も見たくない。何も聞きたくない。真実なんて知りたくない。この世界に事実はいらない。これは夢だ。俺を起こしてくれ。助けてくれ。優しい嘘を俺に――
「エイジ」
アガサは無表情ながらも少しばかり悲しそうな顔を見せた。しかし、彼女は俺が内心で叫ぶ願いなど聞き入れず、決定的な一言を告げた。
「エイジ。あなたは女神の加護を失った」
【第3章へ続く】
現在、リメイク版の公開はここまでです。続きが気になる方は以下のURLからオリジナル版を閲覧できますが、完成度には差があります。それでもよければどうぞ↓↓
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オリジナル版は第3章まで公開しています




