46 黒く濁る瞳の少年7595
黒い瞳が、世界を映した。
絶望という名の深い闇を湛えていて、しかし、まだ一縷の希望を残している瞳。
まるで少年のような背丈の、事実まだ十四歳であり少年と呼べるだろう彼は、その身にそぐわない長さの直剣を腰に吊り下げている。
身に纏うマントは、新品同様に純白の輝きを宿していて。
しかし、彼の複雑な心象と立場は白とも黒ともどっちつかずな灰色の髪に現れている。
荷物は少ない。腰帯のポーチと、肩に引っ提げた皮の荷物袋だけだ。
冒険者ではないだろう。その雪のように白いマントは、傷もほつれも見当たらず、返り血の跡もない。
同時に、旅人でもないだろう。あんな小容量の荷物袋では、旅に必要な用具でさえとても入らない。収納魔法があっても、とても収まらないだろう。
どこかちぐはぐな格好の少年は、嫌でも目立つ。
だからだろうか、両手に花をいっぱいに抱えた、好奇心旺盛な少女は彼に声を掛けた。
「あなた、誰?」
「……エイジ」
答える義理もないのに、俯きがちだった顔を上げながら、エイジは答えた。少女の赤い長髪が風に揺れる。本来なら上品なデザインなはずのワンピースは動きやすいように裾と袖が捲られ、腰を括る帯には短刀が差され、その赤髪は手拭いで粗雑に束ねられている。ところどころ泥が飛んだ跡があるその様子は、まるでおてんば娘そのものだった。しかし、汚れていても天使のように綺麗な少女の顔は欠片さえ輝きを失わず、彼女は聞いたばかりの名前をもごもごと喉の奥で反芻した。
「エイジ、エイジ。……ふうん、エイジね。ここらでは聞かない珍しい響きね。それに貴方の瞳は見たことがない色をしている。綺麗だわ。……あっ、そうだ、私はメリー」
「メリー……」
どこかの女神とよく似た少女の名を、エイジは繰り返す。
「そう、メリーよ。よろしくね」
握手するためなのか、少女は右手を差し出そうとする。のだが、残念ながら抱えている花で両手は埋まっていた。赤に白に黄色に。色とりどりの花だった。
「うーん、仕方ないわね。これをあげるわ」
選ばれて渡された数本の赤い花を、エイジは思わず反射的に受け取った。これが友好の印なのだろう。それは夕焼けのように赤く、甘い香りがする。人界でヴァイシアの花と呼ばれるものだろうか。深い森の中でありながら日光を受けるような場所にしか生息しておらず、食用にも使われて疲労回復の効果があるらしい。でも、眼前のそれは記憶にある香りと少し異なった。
突然の好意にエイジが目を白黒させていると、メリーは開いた片方の手で、道の先を指した。視界の遥か向こうに小さな村が見える。
「エイジはどこへ行くの? まあ答えなくても、この道の先にはエルリアの村があるだけ。だから、エイジは必ずエルリアに立ち寄るのでしょう? あんな村、何も面白いものなんてないわ。村人は酪農が自慢とはいうけれど、そんなもの他の村でもやってるよ。何も特別なものなんてない」
「そう」
自嘲するような言葉に相槌を返すと、メリーは大きく頷いた。
「そうよ! あの村の住民になったら、変わらない毎日を享受し老いて死ぬだけだわ。魔物も出ないからって、お父さんもお母さんも村長さんも気持ちが緩んでるの。そんなの駄目だし、私は嫌だわ。こんな村なんて成人の儀を挙げたら、すぐにでも抜け出して世界を旅するの」
「…………」
「まあ、エイジにこんな愚痴を聞かせてもわからないよね。とにかく、あのエルリアの村に価値なんて少しの欠片もないのよ。まるで腐ったチーズよりも酷く、役目を終えた老牛と同じように。それよりも、ずっとずっと面白い場所に貴方を招待してあげるわ」
メリーはそう言うと、エイジの手を引き森林の中へと誘う。落ち葉の絨毯が広がるそこは、来たる秋の空気を孕んでいて少し肌寒い。とはいっても、どこにでもある普通の森だ。初めての場所なのに親近感をどこか持たせるその景色が、エイジに五年前の記憶を掘り起こさせるのは当然だった。
無意識下で頬が歪む。
わかっている。天に聳える山脈を越えて魔族が来るなんて、誰が想像できただろうか。あの日、エイジが村へ早く帰っていたとしても、魔族の襲撃は防げなかった。ただ小さな死体が増えていただけかもしれない。でも、まだエイジにはあの時のことが割り切れない。
あの時、村へ馬を飛ばして辿り着いた騎士に、エイジは頼み込んだ。魔族に復讐するための技術を教えて欲しい、と。彼は苦笑いと共に、その頼みを承諾してくれた。それからは大人たちの訓練に混じって剣を振った。過酷な魔物との戦闘をこなした。身体が引き千切れると錯覚するほどの痛みにも耐えた。だって彼らは、愛した同胞たちは、父親も母親ももっと苦しく痛い思いをしたはずだから。
そうして四年の月日が流れると同時に、エイジは女神の加護を得た。寵愛の証ともいえるそれは彼に超人的な肉体と戦闘能力、そして誰も真似ができない特殊な剣技を授けた。これで復讐の準備は整った。後は感情のままに敵の首を断ち切るだけだ。
なのに。
それなのに。
今はその赤い瞳を直視できない。
「着いたわ。ここよ、ここが私の城よ」
エイジはその声に反応して、顔を上げた。
それは小さな掘っ立て小屋だった。元々は猟師のためにあった小屋なのだろうか。錆び付いた罠のたぐいは山積みで放置されていて、小屋自体はおんぼろさを隠すように白い塗料で壁一面覆われているが、素人の作業らしく荒が目立ち、城というにはお粗末なものだ。ただ、側の小川に備え付けられた水車が綺麗な動作で回転しているのを見ると、かなりメリーが維持に手を加えているのが伺える。
「ここは?」
「私の秘密基地よ。村の子たちにも教えていない本当の秘密だけれど、住民じゃないエイジには教えてもいいよね? さあ、入って入って」
言われるがままに、エイジは中へ入り込む。
手狭な小屋だ。本当に猟師が寝泊まりするだけのために建てられていたのだろう。部屋の半分はベッドで占められていて、残りのまた半分は水車に繋げられた薬草を磨り潰すための石臼が陣取っていて、窮屈なことこの上ない。だが、小さな机にはメリーが持ち込んだはずの玩具や、ヴァイシアのような色とりどりの花が置かれている。傍に古めかしい本が積み上げられているのは、彼女が読まないものならば、それらを押し花にするためのものか。
「さあ、座って座って。お茶はないけど許してね」
エイジは手中にある花をどうするべきか悩み、結局、ごちゃごちゃとしたその机の上に置いて、メリーがベッドに座ったから、小さな椅子へ腰掛けた。
「ねえ、エイジ。あなたはどこから来たの?」
「……シレミス、という小さな村だ」
この頃になると、もうエイジはそれなりに受け答えができるようになっていた。
「知らない村ね。エイジという名前も聞いたことがない珍しいものだから、きっとその村も遠い地にあるんでしょう。ねえ、エイジは何をしてる人なの?」
「何って?」
「私の家はチーズを作ってる。そんな話よ」
「……俺は、冒険者かな」
「冒険者? そんなはずはないわ。だって彼らは乱暴で残忍な人たちだもの。上級冒険者だって嘘付くけれど蓋開けてみたら実際は中級ですらなかったり。ちっこい小動物みたいな魔物を倒しただけで代金をふんだくろうとせびるんだよ? 私たちを互助組合とかと間違えているのじゃないかしら。本当にぷんぷんだからねっ」
メリーは両手を腰にあてると、頬を膨らませた。
「そんな奴らと比べたら、エイジは私の話を聞いてくれるし、真っ白で格好いいし。本当はどこかの騎士なんでしょ?」
騎士。
それは自身の命を代償にしても自身の主を護る存在のことだ。彼らは高潔な精神の持ち主で、よく物語の主人公として登場する。姫と国を護るため、果敢に炎龍へ挑む剣聖の物語。かつて隣に住んでいた少女が自身の楽器を手に語り引きしてくれて、幼いながらもエイジは騎士に憧れたものだ。
しかし、今のエイジは憧れた騎士には到底似てもいない。
「……そんなことはない。俺は彼らよりも――酷いんだ」
だが、メリーは励ますためではなく、本当にそう信じているかのように否定する。
「そんなことあるわよ。その真っ白な戦闘衣には汚れもほつれもないし。ねえ、ちょっと剣を抜いてみて」
「…………」
「ほら。私は家畜をよく解体するからわかるけど、その剣は血の汚れもない新品当然よ。本当の騎士は魔物も悪人も斬ったりしないのだわ」
「斬らないんじゃない。斬れないんだ。その点で見れば、俺は騎士ですらない」
「まがいものでもいいの。事実がどうであるかは関係なく、エイジは心優しい人なのよ。……ところで、エイジはどこへ行くの?」
「どこって……、エルリアの村だけれど」
「違うわよ。私の村には立ち寄るだけでしょ? 私が聞きたいことは、その後どこへ行くのか。エイジの旅の終着点はどこなのかって話よ。服装からは旅人には見えないけれど、長い距離を旅しているという点では旅人でしょ」
「終着点か。…………俺の目指す場所は魔王城かな」
「魔王城? 魔王が住む城のことよね? 三年前に新たな魔王が即位したらしいって聞いているけど……大陸の端っこのようなここからじゃ、とてもじゃないけどたどり着けないわ。例え夜通し歩き続けても四年は絶対に必要ってみたいよ?」
「それでも、それでも俺は行かなくちゃならないんだ」
「ふうん、不思議な人ね。じゃあエイジは魔王城で、ううん、魔王さまに面会してどうするつもりなの?」
「…………魔王に頼むかもしれない。もう戦争を止めて欲しいって。まあ、今の俺が言えることでもないけれど。烏滸がましい要求だ」
「そんなことはないわよ。私だって早く戦争が終わって欲しいって思っているもの。だって、人界とは目と鼻の先のようなこの村は、大きな戦があれば最初に地図から消されちゃうわ。戦地にならなくても、大人たちが徴兵されてしまうかもしれない」
「――ごめん」
「どうして謝るの?」
「俺は君に伝えなければならないことがあるんだ。でも、それが怖くて――」
「とても悲しそうな眼をしているのね。大丈夫よ、世界は面白いことで満ち溢れているわ。そうね……まず初めに私の家でチーズの製造工程を見せてあげる。ミルクがたった一晩で固まる様子は理屈がわからなくても面白いものよ。ちょうど作業をしているかもしれないわ。そろそろ暗くなってきたし、村へ行きましょう」
しかし、メリーがベッドから立ち上がろうとした、その瞬間。
心ともなく伸ばしたエイジの手が、その白く細い腕を掴んでいた。無意識下の行動だった。
「――行かないで欲しい」
「痛いわ、エイジ。放して」
「行かないで、ほしい」
「急にどうしたの?」
エイジ自身さえも、どうしてこうしたのかわからない。思っているよりも強い握力が加わっているらしく、メリーの華奢な顔がしかめられる。それでも、どうしてとメリーは赤い瞳を灰色の瞳に合わせて尋ね続けた。どうして、どうしてと。わからない、エイジ自身にも。
いや、本当はわかっているのだ。エイジは予想される光景を見たくないだけなのだ。だから、その細い腕を引き寄せて言う。
「逃げよう。俺と一緒にここから逃げよう」
「……逃げるってどこに? どうして?」
「俺は耐えられなかった。きっと君も耐えられない。だから、どこかに逃げよう。どこでもいい。遠い異郷の地でも、人界でもいい。一緒にこんな場所から逃げよう。あの光景を見るのはもう嫌なんだ。地獄なんだ、あそこは。行きたくない。お願いだ、俺と一緒に逃げてくれ」
「よくわからないけど……エイジは辛い思いをしたのね。でも大丈夫よ。外の世界と違って、ここは退屈だけれど辛いことなんてないわ」
メリーはもう片方の手で、腕を掴んでいるエイジの指を包み込むと、ゆっくりとほどくように外す。乱暴な行為だったのに、メリーの瞳に恐怖はない。優しい天使のように微笑む。
「とりあえず、村へ行きましょう。もう暗くなるし私の家で泊まって。私は先に家族の元へ行って、エイジのことを話しておくわ」
メリーはそう言い残すと、掘っ立て小屋から走り出て行く。ぎりっと歯を食いしばったエイジは、同じように飛び出すとメリーの背を追いかける。
その小さな背中は、なるほど、森を庭とするおてんば娘らしく、草を掻き分け、木の根を飛び越え、ぐんぐんと先へ進む。どこに張り巡らされた木の根があるのか把握しているようで、全てを避けて村へと走る。とはいえども、女神の加護が授けられたエイジは、それよりも遥かに移動速度が速い。
しかし――
「…………」
一向にメリーの背へ追い付く様子はない。そればかりか、少しずつ距離が開いてきてもいる。
彼女を制止しなければならない。それなのに、足はなぜか重いままで動かし難い。まるで意識外で早く走るのを拒否しているようだった。それが正しいのかもしれない。初対面のエイジにも優しくしてくれた少女が、悲しむ姿を見たくなかった。
見たくないのであれば追い付くべきだ。しかし、追い付いた瞬間には既に絶望の渦中かもしれない。ならば、見たくないのであればエイジだけでここから逃げるべきだ。彼の人生は逃げの繰り返しだ。卑怯なのだ。今更ここで逃げても、何も変わらない。そんなことをくよくよと考えていたから、エイジの足は軽くならない。
だから、遅きに失した。
エイジがメリーに追い付いたのは、彼女が燃える村の中央広場でぺたんと座り込んだ後だった。その表情はただただ呆然としているようだった。
立ち込める肉が焦げる悪臭に、はっきりとわかる破壊の跡。この世界に地獄があるのなら、まさにこの光景を指す言葉だろう。
「――ねえ、エイジ」
震えた小さな声が聞こえる。
「ねえ、何があったの? どうして燃えているの?」
その問いにエイジは沈黙を返した。
エイジの脳裏には、あの光景が思い起こされる。燃え盛るシレミスの村。そして、その中心でうずくまる幼いエイジの姿が。父親は首だけが転がっていた。母親は燃えて倒壊した家の下敷きになった。友達の死体がそこらに転がっていた。誰も生きていなかった。
黙り込むエイジの代わりに、メリーの問いへ言葉なくも答えを返したものがあった。
爆発。新たに立ち昇る火柱。悲鳴が響くが、ぷつりと途絶える。生み出された熱い衝撃波がここまで届く。
広がる地獄絵図の中心に少女が見えた。ぶかぶかのローブを纏い、空色の短髪を返り血で汚し、鉄壁の無表情を被る少女。手あたり次第に魔法を打ち込む彼女こそが、この村を破壊した人物だとメリーは気付いた。隣には青年がいた。白く長い髪を靡かせ、カタナという異形の武器を振り回している青年。勇敢にも立ち向かう村の衛兵は無残にも切り刻まれ、亡骸となった後も何が憎いのか永遠にその刃で壊し続ける。教会の三角屋根の上には女が立っていた。両目に汚れた布を眼帯の如く両目に巻き付け、無骨な弓を担いでいる。村から逃げようとする親子の背中を無慈悲にも狙い、誰もここから逃がそうとしない女。
夢だと思いたかった。現実だと信じたくなかった。
その気持ちをエイジは知っている。
メリーは震える声で呟いた。
「ねえ、エイジ。あいらを倒して」
「ごめん……、それはできない」
「どうして? あなたは騎士なんでしょ? 冒険者でも何でもいい。あいらをお願いだから倒して」
藁にも縋る思いでメリーが見上げてくる。けれども、エイジは静かに首を振った。なぜなら、あの少女と青年と女はエイジの仲間だから。
一年前、三人の仲間と共にエイジは勇者として旅に出た。目的は魔王討伐。整世教会からは、魔界に混乱を招くために道中の主要な都市は攻撃するように頼まれていた。エイジは頷いた。故郷のシレミスを襲ったのは魔族。彼らに復讐をするため勇者まで昇り詰めたのだから、整世教会からのお墨付きはありがたかった。エイジにとって、魔族は全員が憎しみの対象だったのだ。
しかし、緩衝地フロゥグディを皮切りに、エイジは魔族と交流を持ってしまった。魔族は人族のように優しさを持ち、人族と同じ存在であると知ってしまった。確かにシレミスを襲ったような残虐非道な魔族もいるかもしれない。だが、エイジが出会ったのは心優しい善良な魔族ばかりだった。だから、エイジは魔族を殺せなかった。
それでも、魔王討伐という約束は反故にすることもできない。結局、自分の手が汚れるのを恐れたエイジは、三人の味方に荒仕事を任せて、不干渉を決めたのだ。逃げてしまった。
今回もそうだった。エイジは村エルリアの破壊を他三名に任せ、自分は全てが終わるまで近くをうろついているつもりだった。
しかし、エイジはメリーに出会ってしまった。怖いもの知らずで全てに興味津々な彼女は、まるで幼い頃のエイジを見ているようだった。その無邪気な少女が、かつての少年と同じ道を歩む姿なんて見たくなかった。復讐のための憎しみという黒い感情に溺れてしまう姿なんて。
ゆえに、エイジは逃げようと提案したのだ。
その提案を跳ねのけたメリーは、弱々しく肩を震わせた。
「……ねえ、エイジ。もしかして、エイジは全て知っていたの?」
「そうだ」
「ねえ、エイジ。あなたは、あいつの仲間なの?」
「……そうだ」
最も聞きたくなかっただろう裏切りの言葉を聞いたメリーは、僅かに涙を流すと、ゆらゆらと立ち上がった。その表情は怒りの感情で埋め尽くされ、その手にはいつの間にか取り出された短刀が握られている。
炎の赤い揺らめきを、刀身が反射した。
メリーは短刀を片手に、エイジへ向かって駆け出した。
エイジはその攻撃を受けるつもりだった。エイジは少女の憎しみを受けなければいけない立場であり、どちらにせよ、短刀がどれほど深く刺さろうとも、それでエイジが死ぬことはないのだから。
しかし――
脳裏をひやりとした何かが横切った。
「あっ…………」
それはどちらが発した声だったのだろうか。
次の瞬間には、エイジが振り抜いた剣により、メリーは一直線に下から上へと胴体を切り裂かれていた。どれほどエイジが反撃を自制していても、四年間の厳しい鍛錬で培われた反射反応が剣を抜いていたのだ。
その時、控えめの装飾が施されたその直剣は、初めて血の味を知ったのだった。




