44 騎士の誓い6481
湯上りの身体には心地いいひんやりとした空気は、本格的に冬が近付き始めたのを告げる。
常人ならば湯冷めで風邪を引いてしまう心配もあるはずだが、しかし、加護により超人的な肉体は、急激な温度変化に曝されようとも体調不良というものを知らない。昔は風邪を引けば、ただただ退屈だった記憶しかないが、風邪も引くことができなくなった今となっては、僅かばかりに名残惜しくも感じる。
名残惜しいといえば、地霊族族長ファイドルのこともだろう。彼と過ごした時間は一日にも満たない。とはいえ一緒に昼食も食べたし、風呂で腹を割って話したりしたから、既に長年の関係と匹敵するとでもいえよう。
ファイドルは尖った耳と、爛々たる紅玉の瞳を人目に見られぬよう、深くフードを被り直した。俺の剣のように光さえ飲み込むような漆黒の外套は、この闇に紛れて街から出るためのものだ。既にここ周辺は人払いされているとはいえ、万が一のことがあるかもしれない。いかにしてオリバーとファイドルが盟約を結ぼうとも、魔族であるファイドルがこの街にいるのは色々と都合が悪かった。
オリバーはまだ事後処理に追われているらしく、ファイドルを見送るのは俺とエリアの二人だけである。
雑談を交えながら歩いていると、このコズネスの四方を囲む城門の一つ、西の大門に到着した。既に話は通っていたようで城門の傍らに立っていた衛兵が小さく会釈し、立派な門の隣にある小さな潜戸を開けた。
「今日は世話になった。本当はしばらく滞在したいところだが、近辺の森に待たせている部下たちの手前、俺は早く帰る必要がある。じゃあな、また会おう」
そうやって、ファイドルは背を向けて去ろうとするが、はためいた外套の裾を小さな手が掴んだ。ファイドルも、魔王らしさがなくなった彼女の手に消えてしまいそうな儚さを覚えたのだろうか。彼は引っ張られるがままに、エリアへ向き直ると図体には似合わない優しそうな声で説く。
「そんな顔するなよ、エリア嬢ちゃん。俺は嬢ちゃんの親父さんに恩義がある。彼が世界平和を望んでいたのなら、そして、エリア嬢さまがその想いを継ぐのならば、俺は最大限尽くすのみ。…………心配すんな、一生会えなくなるわけじゃねえさ。必要なのは別れの涙ではなく、再開の約束さ」
やはり早くに父親を亡くしたエリアは、ファイドルにその面影を感じるのか。僅かな交流しかなかったのにも関わらず、エリアは涙ぐんでいた。しかし、気丈に振る舞う。
「――確かに、そうじゃな。また会おう」
「おい、それとな小僧。エリア嬢さまを泣かせるなよ。泣かせたら、次は命がないと思え。……まあ、小僧ならあまり心配せんでもいいかもしれんがな。人族のくせに俺と引き分ける戦闘センスに加え、恐ろしいのは今が成長期ってことだ。一年もすれば俺を越えるだろうよ。だが、剣を磨くのは訓練のためじゃなく、主を護るためだ。忘れんなよ」
「おう。……褒めてくれるんだな」
「俺は飴と鞭を使い分ける良き指導者だからな。それと最後になったが、オリバーって奴にもよろしく伝えといてくれ」
絶対に忘れるな、と。
じろりと睨んだのは、最後の念押し。それだけをファイドルは言い残すと、今度こそ外套を翻して潜戸から抜け去る。漆黒を纏ったその背中が闇に融け消える前に、小さな扉は再び何者も往来できぬよう閉ざされて、しっかりと施錠される。姿はもう見えない。が、エリアはその扉を名残惜しそうに眺めていた。
「――帰るか、俺たちの場所に」
こくりと頷いたエリアを連れ立って、俺は帰途に就いた。
鍛冶の街コズネスはその道の複雑さから、一度迷えば一週間は抜け出せない、かつて訪れた吟遊詩人がそんな言葉を残したそうだ。しかし、親友イザラの父親がこの街に鍛冶工房を構えていたため、それなりな頻度で遊びに来ていた俺は、縁がなかった商業区を除けば迷うことはない。対してエリアは滞在期間が一週間程度であり、しかも人目を避けるためにほぼイザラの工房へ籠っていたため、土地勘なんてあるはずもなかった。
ゆえに、俺が先導して歩きエリアが続くのは当然の結果だった。
だからこそ、ふとしたエリアの質問には意表を突かれた。
「――のう、エイジ。何処へ向かっておるのか?」
ぎくっ、と足を止めて振り向いてしまったのは、負けを宣言するようなものだ。畳み掛けるようにエリアは言う。
「工房はこちらではないじゃろ?」
「――どうしてそう思うんだ?」
質問に質問で返すと、エリアが頭上を見上げる。
「星々が妾に教えてくれる」
「な、なるほ……ど?」
エリアを侮っていたわけではない。だが、土地勘がないだろうと高を括っていたのは事実だ。実際に彼女は工房の道までを覚えていたわけではないが、俺と違って高度な英才教育を受けてきたのだろう。まさか空に散りばめられた小さな星々で企みが露見するとは思っていなかった。
俺も四年間の旅で同じような能力は自然と培われてきたが、それは大雑把な方角と時間を図る程度のものだ。天測術は自身の位置や季節の移ろいにも影響されるため、想像以上に難易度が高いのである。
仕方あるまい。俺は観念したように肩を竦めた。
「すまん、説明もなしに連れまわして。この先におすすめの絶景スポットがあるんだ」
「絶景スポット?」
「詳しくは着いてからのお楽しみってな」
怪訝に首を傾げるエリア。しかし、もうそれ以上に俺を問い詰めるようなことはしなかった。聞かずともすぐに答えは知れるのだから。
歩みを再開させる。遠くで喧噪が聞こえるのは、戦争のごたごたを発端にしたお祭り騒ぎだろう。勝利を収めたわけではないため、お祭り騒ぎの口実はないのだが、それでもするのは、ただ単に騒ぎたいだけだ。
対して、表の道から外れたここは人気というものが一切なく、等間隔に街灯の光が落ちているだけで、ひっそりとしている。たいして広くもない側道を、エリアと並んで歩く。
静寂という空気が広がる。
そこに話題もなにもない。
やがて前方の視界が広がってくる。鍛冶の街コズネスは魔族の侵略に備えられており、乱雑で密集した街の造りになっているゆえに、広がった視野を得るのは困難だ。しかし、ここはコズネスで最も高い場所。四年前の記憶だけを頼りに、くねくねとした迷路を攻略することで辿り着いた一番の観光名所、展望台だった。普段なら家族連れや恋人たちでいっぱいになるそこは、運が良かったのか、さながら俺とエリアの貸切状態だった。
エリアはそれを認めるや否や、引き留める間もなく一気に駆け出し、転落防止用の塀へ乗り出すように景色を仰いだ。
そして感嘆の声。
「うわぁ……」
それは視界の端から端まで続く夜景。点在する街灯が星屑のように揺らめいている。少し目線を上へとずらせば、本物の星空が広がっている。空という奈落へ吸い込まれそうだ、というのはこのことだろうか。
エリアは万金に値するその絶景にしばし目を奪われて、震えた声で問う。
「この景色を、妾に?」
「ああ、これをエリアに見せたかった。そして――」
言葉を途中で途切れさせた俺に訝しんだエリアが振り向き、はっ、と息を飲んだ。
なぜなら、俺がその傍らで片膝を付いて跪いていたから。
「――なな!? なっ、なっ、なっ、何をしておる!? まさか、ぷっ、ぷっ、ぷろっ、プロポーズじゃあるまいな!?」
酷く慌てて噛み噛みな様子のエリアへ、俺は冷静に説明する。
「プロ……? いや、なにもこれも騎士の誓いだ。俺は魔王エリアの騎士を名乗ってはいるが、考えてみればきちんと騎士の誓いをしていなかっただろ?」
かつて俺の隣に住んでいたセシリスという少女は、東西南北に伝わる様々な物語を教えてくれた。大国を滅ぼしたという炎龍の伝説、その暴走した炎龍をたった一人で喰い止めた剣聖の英雄譚、人界を守護したという七大天使の物語。眉唾物も多いだろうそんな話の中には、騎士が登場する物語も多かった。そして、物語に登場する騎士は揃ってある儀式を行うものだ。
俺は以前にエリアの騎士だったクルーガからその肩書を引き継いだだけであり、そんな儀式を何かした覚えはなかった。
そう説明すると、エリアは納得しながらも困ったように言う。
「そういえばそうじゃな。とはいえ、詳しい儀式の方法など妾は知らぬぞ」
「それでいいんだ。そもそも列席する者もいない形だけの儀式になるし、ただ俺が騎士として誓いたいだけなんだ」
俺が真摯な目で訴えかけると、最終的に承諾した。
ファイドルとあの大浴場で語った時に考え付いたものだが、もし誓いの儀式をするならばここほど相応しい場所はないだろう。そう思った。
「じゃあ、始めるぞ」
しっかりとその姿を目に焼き付けると、瞳を閉じて、頭を下げた。
左腰から宵闇の剣を鞘ごと取り外して掲げ、静かに引き抜く。しゃらん、とした音と共に現れた細い刀身は、闇より深い深淵の輝きを放つことだろう。俺が差し出す宵闇の剣をエリアが受け取る。
宵闇の剣は何よりも重い伝説の金属とされるアダマントを、親友イザラが鋳って造ってくれた名剣だ。普通の剣と比べても、それに勇者の標準装備として教会から与えられていた希望の剣と比べても、格段上の重量を誇る。普通の冒険者では持ち上げることさえかなわないものだ。
それをエリアは震えながらも片手で持ち上げたらしい。魔力の形質を変化させて得た身体能力は伊達ではなかったようだ。
直前まで別の剣を使うかどうか悩んでいたが、剣と命を主に預けるというのがこの儀式の趣旨とすると、仮初の剣を使うなんて考えられなかった。結局はエリアの能力頼みになったが、余計な心配だったみたいだ。
エリアが宵闇の剣をぴたりと星空へ高く向けたのが、気配でわかった。
そしてゆっくりと下ろされて、剣の側面が俺の右肩へと当てられる。繰り返し持ち上げられ、刀身が反転。刃の同じ側が俺の身体へ触れるように、同じく左肩へも当てられる。
静寂をエリアの凛とした声が打ち破る。
「この世界が誕生せしその時から受け継がれしその想いに。繰り返し訪れた幾千の生と死の輝きに。今一度の感謝を。襲い来る困難に立ち向かったその勇気に。定められし運命に抗わんと振るったその剣に。今一度の御礼を。そして、騎士の貴き志を胸に抱き、いかなる嵐が来ようとも、妾を護ってくれると誓うか?」
視線を上げる。
覚悟は既に終わっていた。
世界が祝福してくれたのか、この冬初めてとなる細雪が落ちる中、偽りのない本心を続ける。
「この世界の全てに、掛け替えのない誇りと剣に誓う。いかなる嵐が待ち受けようとも、俺はこの命を代償にしてでも一生護り抜く。この命が尽きるまで俺は騎士エイジ、エリアの騎士だ」
「――ありがとう」
珍しく古めかしい言葉使いではなく、少女らしい年相応の言葉を聞いた気がした。
その感謝と共に返された宵闇の剣を受け取り、鞘へ戻すと左腰に差しなおした。いつもと同じ重さなのに、どこか違うように感じた。誓いを通して課せられた責任という名の精神的な重さだろう。しかし、不快ではなく、どこか心地いい。
これで名実共にエリアの騎士になった。その実感をしっかりと噛み締めてから、俺は立ち上がった。
「今度こそ帰るか」
「――うぬ!」
大きく頷いたエリアは、そんなに嬉しかったのかスキップでもしそうな勢いで歩き出す。
ひらひらと舞い落ちる雪が街灯の光をぼんやりと移ろいで美しかった。
両手で受け止めようとはしゃぐ、その年相応の笑顔は綺麗だった。
必ず俺が護らなくてはならない。笑顔も未来もその夢も、全部この俺が。今回の事件の黒幕がエリアを狙うかわからない。だとしても、これまで続いてきた戦争を終結させようというのだ。エリアを狙う敵は大量に出てくるだろう。彼らからエリアを護るのは騎士である俺の役目だ。
決意を刻み込んでいると、前方に見慣れた鍛冶工房が現れる。
驚いたことに、イザラが亡き父親から受け継いだ、立派な水車が併設されているその工房の窓からは、淡い光が漏れていた。ファイドルが人目を憚って出れるように、深夜を選んで行動していたというのに、イザラはまだ起きていたらしい。といっても、イザラが起きていなければ、工房へ入るのも一苦労なのも事実だが。
工房の扉を開けると、カンテラに火を灯して読書していたらしいイザラが俺たちに気付き、凝り固まった背中を解すように背伸びすると、眠そうな声で言う。
「よお、お帰り」
「ただいま」
「エリアさんもお帰り」
「うぬ、ただいまじゃな」
どちらも本心からの言葉だ。九歳の時に故郷を失った俺も、家族と住んでいたらしい深い森から離れているエリアも、今やこの工房が第二の家みたいなものになっていた。
イザラが欠伸を堪えながら訊ねる。
「それで、どうなったんだ? 風の噂で死者が出なかったとは聞いたんだが」
「万事滞りなく。エリアが戦場の端から端まで自分の声を届けさせるという荒業で、一瞬にして争いを終結させたんだ。ありゃ凄かったぜ。青空を数え切れぬほどの魔法陣が埋め尽くす光景は、魔王の面目躍如ってとこだ。まあ、詳しく語りたいところだが、とにかく今日は疲れた。話は明日にして、とりあえず寝ようぜ」
「それがいい。俺もこんな時間まで起きていることがないから、瞼が鉛のように重い。二人が帰ってこなかったら、そろそろ寝るところだったしな」
イザラは読んでいた本を閉じると、カンテラの空気孔を閉じることで消火した。直後、工房は暗黒に包まれる。でも、イザラは自分の工房だから配置を覚えているし、俺もエリアも加護持ちだから、差し込む僅かな月光だけで障害物がわかる。
俺たちは施錠したイザラと共に階段を登り、そこでエリアと別れた。エリアが向かったのは唯一ベッドがあるイザラの自室だ。流石に高貴な身分であるエリアを雑魚寝させるわけにはいかないため、彼女には唯一あったイザラのベッドが貸し与えられている。そして、そこの本来の主であるイザラと俺はリビングが寝場所だ。
元々ここには一台のソファーがあって、それは最初の数日ほどイザラが使っていたのだが、いかんせん、何日も床で俺が雑魚寝している訳にもいかない。そのため、追加で購入された新しい二台目のソファーが、壁に寄せられた作業机の代わりとして、今は部屋の中央にでかでかと鎮座している。
俺もイザラもそれぞれソファーに座ると、両足からブーツを脱いで、アダマントの直剣は枕元へ立て掛けて、横になった。加護により風邪を引くことはないが、それでも本格的な冬が迫っているのだから、少し肌寒い。俺は毛布を手繰り寄せて被った。
数秒も経つと、隣のソファーから、すうすうと寝息が聞こえてきた。連日規則的な生活を続けているイザラにとって、第二の刻まで起きているのは言葉通りに堪えたのだろう。
俺も早く寝ようと、瞼を閉じた。寝れる時に寝る、馬車の中だろうと立ったままだろうと寝る、というのは旅する者にとって鉄則であるため、俺も例に漏れず、すぐさま眠気が襲ってくる。とくに今日はファイドルとの死闘を繰り広げているから、いつにもまして身体共に疲れが激しい。それに抗わずに、流れへ身を任せていると、四肢の感覚が抜け落ちて、眠りへと落ちていく。
「これは……?」
その呟きは言葉になったのか、既に夢の中だったのか。
自我の残る最後の瞬間、俺の眼前にはとても懐かしい風景が広がった。フロゥグディにも劣らない、陽光をこれでもかと反射して黄金の海にも見える、視界一杯の麦畑。そしてそのずっと先に、わりと豪華な建物――学校という教育機関があった。
これは、八年前の記憶。既に滅んでいる俺の故郷、シレミスの村だった。




