43 陰謀と飛躍の予感10077
鍛冶の街コズネスは特別な立地に建立された都市だ。
七十年ほど前に大地融合という、神の御業かと思われるような地殻変動が起こり、二つの大陸が繋がった。伝わる話では、地震の如き地鳴りが一晩中続き、朝になると海だったはずの場所には大地が広がっていたらしい。この歴史的な謎現象が原因で、それまで互いに未接触だった人族と魔族が戦争を始めるに至ったのである。
とにかく、その大地融合は二つの大陸が両側から押され合って起こった。だからこそ、その境には絶壁のような山脈が形成され、中心地であるフロゥグディも小高い丘の上に位置している。変化は表面的なものだけにはとどまらず、地中深くでも起こっていたらしい。
つまり、温泉が湧き出すようになったのだ。
その莫大な湯量をそのまま引いてきた、コズネス一番の温泉施設。浴槽の広さは湯気で見通せないほどで、たぶん騎士団の円形闘技場にも匹敵するほどだろう。同時に百人がのびのびと湯に入っても、狭苦しさは感じないはずだ。
俺は掛け湯だけすると、広い浴槽の片隅にゆっくりと身体を浸からせる。肩ほどまで湯の中へ沈めて全身を伸ばすと、戦闘で疲れ切った身体が暖かな解放感で包まれて、声が出てしまうのは当然だった。
「はぁ……」
怪我している時に湯へ浸かると傷に障るというが、勇者の加護が万能なおかげで、腹部の傷は既に塞がり、折れた肋骨も修復されているようで、痛みは感じない。フロゥグディでの一幕、ニードルベアの突進で受けた傷と同じような状態だったが、あの時ほど複雑な損傷はなかったようで、もう激痛が俺を襲うことはない。その代わりに襲うのは、疲労からの眠気。
とはいっても、ここで寝るわけにはいかない。同伴者がいる。
「おお、こりゃ凄いな」
そう言いながら同じく掛け湯だけして俺の隣に座るのは、先ほどまで俺と死闘を繰り広げていたファイドルだ。
「くぅ……」
やはり気の抜けた声が出るのは仕方ない。
俺が隣へ視線を向けると、立ち込める湯気の向こうに、ファイドルの髪の赤褐色が混ざる。燃え盛る炎のように真っ赤な瞳と、俺の首よりも太い腕。衣服を纏っていないからこそ、どれだけの鍛錬を積めばこの境地に至るのだろうと思わせられる逞しい筋肉が、より一層確認できる。
武器を浴槽まで持ってきていないのは、敵対しないと言外に示しているからか。ファイドルは魔法を使えない地霊族であるため、俺のように剣を収納魔法へ保管できない。裸の付き合いという古い諺がある。武器も服もない状態で、相手に敵意がないことを信じているという意味らしい。それならいまこの状況を指すのであろう。
俺は収納魔法が使えるため、いつでも異空間から宵闇の剣を取り出すことができる。しかし、地霊族であるため魔法全般がすべからく使用できないファイドルは、あの大剣を脱衣所にそのまま放置してきている。俺が襲い掛かってきても丸腰で対処できると自信を持っているのか、はたまた、俺が襲い掛かってくることはないと信用しているのか。
ファイドルは無防備な姿を俺に見せているが、対して俺は彼ほど緊張感なく過ごすのは不可能だった。つい先ほどまで真剣で本気の戦いをしていたのに加え、俺は彼に殺されかけたのだ。ファイドルはそんなことお構いなしな態度で浸かっているが、俺は気にする。この会話のない沈黙が少し落ち着かない。
「はあ……」
隣で耳を澄ましても聞こえないほど小さな溜息が漏れた。
落ち着かないのは死闘を繰り広げたからではなく、ひとえに罪悪感が原因なのかもしれない。俺はエリアと出会う以前、多くの魔族を殺してきた。整世教会の命令だったからとはいえ、許されざる罪を犯してきた。その過去は消えない。師匠のアングリフは千人殺したら世界中みんな救えばいい、と言っていたが、それはそうだとしても罪悪感は消えない。
俺がぎりりと歯を噛み締めると、ファイドルは耳聡く聞きつけたのか俺を見た。
「小僧。浴槽内でまで怖い顔するな。お前が魔族の俺へ負い目を感じているのはわかるが、今はとりあえずリラックスしろ」
「……」
何も答えれない俺を見て、ファイドルはやれやれと肩を竦めた。
「はあ、お前も頑固だな。その件はもう魔王を交えた場で水に流しただろ。昔の小僧は俺たちの同胞を多く殺したかもしれないが、今の小僧は世界に平和を導こうとしている。大切なのは過去じゃなくて、現在だろう? いざこざは暫く忘れて、ゆっくりと湯に疲れ」
「……ありがとう」
感謝の言葉はするりと胸から出た。ファイドルは、ああ、と力強く首肯した。
彼のように俺を許してくれる魔族は極少数だろう。そして、その極少数派だったファイドルが俺を許してくれて、幾分か俺の心は救われた。
人族と魔族を交えて行われた交渉会議の場で、俺は自分の勇者という肩書を明かし、誠心誠意からファイドルに頭を下げた。その場で斬り殺されても当然だと覚悟があった。ファイドルはまず激昂のままに、何か言葉を出そうとした。が、踏み止まり、暫く俺とエリアの顔を繰り返し見比べ、しかと考えてから、一言だけぽつりと呟いた。
――許す。
と。
遺恨が必ずあるはずなのに。彼は俺を許した。どれだけの葛藤がそこにあったのだろうか。会議に出席する身として、自分の感情を優先することは断じて許されない。ファイドルは地霊族に伝わるらしい、もう決して誰かを傷付けない、という信念を貫いたのだ。
そんな彼のおかげもあって、今の状況が存在するのだろう。
俺は肩まで湯に入れながら、先の交渉会議に想いを巡らした。
俺とファイドルが剣を交え合った後に行われたその会議は、意外に揉めずにつつがなく終わった。
もともと両者が相手を殺さないように手抜きして戦っていたからというのもあり、危惧していた死者が幸いにも全く出なかったことや、何よりも魔王としてのエリアの存在が大きかったと思う。既にエリアがオリバーからの信頼を一定以上得ていたのに加え、ファイドルとは一度だけしか顔を合わせたことがなかった関係だったらしいが、彼は魔王エリアへ多大なる恩義があった。だから、エリアが仲介することで不本意な結果になることはなかったのだ。
決まったのは、教会への体裁を取り繕うため、表面下でこっそり協力しましょう、という方針だ。アルベルト騎士団がどれほど強くても、教会の権威に正面から対抗するわけにもいかない。魔界側でも表立って人族と協力する方針を掲げると外聞が悪いため、新たな火種を作らないように全て水面下での、書類も残さない口約束がなされた。
だが、それでも魔界の有力種族である地霊族の族長と、人界での教会に並ぶ権力機構アルベルト騎士団の総長が、口先でも不可侵条約を結んだのだ。それは歴史に類を見ない大きな転換点になるのは当然で、後世の歴史家が血眼になって情報を探そうとすることだろう。
今更ながらにその会議がどれだけ歴史に影響を残すのだろうか、しみじみと考えていると、ふとファイドルが沈黙を切り裂いた。
「いやあ、それにしてもいい湯だな。……けども、やはり俺の村にある温泉が一番だ」
独り言のようにも聞こえるそれは、俺に向けた言葉だ。無視するわけにもいかなかった。
「そうなのか? ここもコズネスで一番の温泉施設だぞ?」
「確かにここの温泉は広い。広いが、まあそれだけだ」
ファイドルは世間話をするように続ける。事実、その話題は俺の緊張を解すためにあるのだろう。
「広さでは負けるかもしれないが、見るものを圧倒する力は俺らの村でも大地融合の影響でな、温泉が湧くようになった。少し前に地理考古学者が滞在していたことがあったんだが、そいつによると、温泉とは高温の地熱で暖められた地下水が断層を通ってできるらしい。俺の村は地中深くにあるからな、その地熱の恩恵も多いようで、温泉があっちこっちから湧く」
「へえ」
「俺の街が自慢する一番の温泉は、湯の滝だな。なにせ、源泉の温度が高すぎるから、滝にすることで適切な温度まで下げている。もとは自然の産物だったが、高所から叩きつけられる湯の光景は圧巻だ」
「それは凄いな。いつか行ってみたい」
「いつか、か。この戦争が終わってからエリア嬢ちゃんと一緒にゆっくり浸かりに来ればいい」
彼はそこで話題を切ると、一呼吸。
たったそれだけで場の空気が変わった。
「それはそうと、小僧。お前にだけ伝えておかなければならないことがある」
その口調は確かに先ほどと変わらないように感じるが、僅かに統べる者としての鋭さが混じっていた。世間話はここまでで、ここからは真剣な話を始める、ということだろう。
「……なんだ?」
静かに尋ねる。ここでその話題を出すということは、オリバーやエリアには伝えるつもりがないらしい。
交渉会議ではそれぞれの立場や持っている情報が相違ないように共有している。前にオリバーへ話した時と同じく、俺がエリアと出会ってからどのような理由で旅を共にすることとなったかとか、クルーガが裏切り、しかしそうした原因は『呪い』という何者かによる摩訶不思議な制約のせいだったとか、今回の戦いでいかのような思惑で俺とエリアが行動したか、といった内容を簡単に説明している。対して、ファイドルも魔王エリアとの関係や、なぜコズネスへ進軍するに至ったのかといった内容を。こういった互いに持ち合わせている情報の共有がなければ、例え口約束だろうとここまで強固な同盟にならなかっただろう。
そんなわけで、俺が会議で彼に抱いた印象は、誠実、ただその一言だった。交渉といった高度な戦略は門外漢であるが、加護によるものか、俺は他人よりも相手が纏う気配や雰囲気を感じるのに長けている。だからファイドルが嘘偽りなく会議に臨み、誠実に説明していたことを知っている。
ゆえに、そんなファイドルがあの時点で何かを隠していたなんて信じられなかった。しかも、俺だけにそれを明かすというのもだ。
ファイドルは独り言のように、前方を見据えたまま語る。
「進軍を始めた理由は、エリア嬢ちゃんがコズネスに幽閉されているという噂が、部下の間で広まったからだと俺は言った。それは事実だが、俺には一つだけ黙っていたことがある。その噂を広めた奴がいる。ジャンとフィリス……まあ、名前はどうでもいいが、とにかく二人いた。そいつらが噂を最初に広め、魔王を救うためコズネスへ進軍すべきだと騒ぎ立てていたのもそいつらだ。戦いが終わって会議に出向く前、俺はその二人から詳しい話を聞こうと、ひいては二人を会議に同席させようと思って、そいつらを探したんだが、見付からなかった」
「……見付からなかった? それがどうしたんだ?」
「つまりだな、俺を扇動していた奴らが、狙ったように揃って行方不明になりやがった。これは偶然か?」
「っ!?」
息を飲んでしまったのも、仕方がない。
「昔から知る俺からすると、あいつらは俺を裏切る奴じゃない。俺の予想だが、誰か黒幕が二人の弱みか人質を握っていて、抗えなかったあいつらは俺に嘘の情報を流したのだろう。そして状況が悪くなって口封じでもしたのか。……だが、ただのこれは予想だ。しかし、奇妙な事実もあるだろう? 地霊族を扇動したと書いていたらしいクルーガ宛の手紙。そのクルーガは呪いとやらで何者かに操られていた。この全部が裏で繋がっていると考えた方がいい」
恐ろしい話だ。ここ最近の騒動が全て何者かの画策によるものだったら。
だが、全ての元凶である犯人が実在するならば、いったいその目的は。最初から考えてみよう。
俺が思考を深みに落としたと感じ取ったのか、ファイドルは言葉を噤んだ。ありがたい。
まずクルーガは何者かに呪いで操られて、エリアを拘束した。魔王の証というものを継承するために。しかし、それが呪いによるもので彼の本意ではないとすれば、黒幕はクルーガを通して魔王の証を得たかったのに違いない。
次に、エリアがコズネスへ幽閉されていると偽の情報を流した件だ。これの目的が全くわからない。先と同じく、ファイドルを間接的に使うことでエリアを得ようとしたのか。……いや、違う。例の手紙の内容からすると、クルーガが既に死んでいること、つまり魔王の証を奪取する計画が失敗したことを知らなかった。もとより計画は成功したと信じていたはずだ。そうでなければ、あんな内容の手紙にはしない。だとすれば、別の目的があったはずだ。
思い出せ。あの手紙の内容を。そしてその真意を捉えろ。
簡単に要約すると、地霊族を扇動して、組ませた大軍をコズネスへ送った。それらと炎龍と共にコズネスを陥落させよ、となる。
何が目的だろうか。文面の通りに受け取れば、コズネスを陥落したかっただけだ。しかし、真意はそこにないような勘がする。地霊族に手先が潜んでいたとするならば、黒幕は地霊族とコズネス在住騎士団の仲がわりかしよかったのを知っていたはずだ。目論見通りに争いは起こっても、大きな戦争に発展するまではいかない可能性に考えが及んだはずだ。事実として死者はなく、戦争にならなかった。そもそも失敗を前提とした作戦だったのか。実は大掛かりなこの舞台こそが陽動で、あずかり知らぬ別の舞台で何かが起きているのか?
「……いや、違う」
黒幕はクルーガの作戦が成功したと信じていたはずだ。つまり、この争いに炎龍が参加すると信じていたということ。もしそうなっていたならば、地霊族の思惑がどうであろうとコズネスに在住するアルベルト騎士団は全滅し、コズネスは焦土になっていただろう。続いて、一つの大都市を失った人族は必然ながら、魔族への報復を決める。憎しみの連鎖が始まる。となれば、真の目的は人族と魔族に殺し合いをさせることだろうか。
しかし、黒幕には悲運なことで、その目論見を偶然にも阻むことになった登場人物がいる。アルベルト騎士団総長のオリバー・アルベルトだ。彼は騎士団のトップである総長なのにも関わらず、何の理由があるのか最前線の街までやってきていた。出会った当初は名前も肩書きも隠していたようだが、この諍いを機に堂々と指揮していた。人望ある彼が地霊族を傷付けるなと周知していたからこそ、人族から戦争に発展する火種が生まれることはなかった。
そして、もう一つ想定外だっただろう登場人物が七代目勇者エイジ、つまり俺だ。最初の炎龍による襲撃を退け、操られていたクルーガの計画を阻止し、強敵ファイドルとの一騎打ちで相打ちに持ち込んで、エリアの大魔法が完成するまでの時間を稼いだ。流石に俺の存在を予想していたとは考えられない。
「…………」
本当にそうだろうか。ふと考える。
魔王エリアがコズネスに囚われている、と黒幕は地霊族に偽情報を流した。そこから彼もしくは彼女は、魔王エリアがコズネスへ滞在していることを少なくとも知っていたはずだ。その情報はどうやって得たのか。エリアはクルーガが何者かへ手紙を送っていた場面に遭遇している。そのタイミングだろう。だとすれば、俺という勇者の存在も書いていたのではないか。既に勇者の存在は知られていたのではないか。それとも、勇者の存在は言及されていなかったのか。クルーガは呪いの主とやらに歯向かって、俺の情報を隠したのか。
ああもう、と。
地団駄を踏みたかった。全ての謎を解くピースはクルーガが持っていた。呪いとは何か、その主は誰なのか、黒幕は何者か、なぜエリアは狙われたのか。その全ての答えをクルーガは知っていた。しかし、彼は既に亡くなっている。俺が殺してしまった。だからもう真実を知るすべはない。闇の中に消えたのだ。
謎が新たな謎を呼び込み、点が増えるだけで線として繋がらない。ぐるぐると取り留めのない思考が加速する。何が正しくて、何が間違っているのか。どこから誰かの思惑が介入しているのか。考えることがありすぎる。わからないことが多すぎる。エリアやアガサと比べれば俺の頭脳は決して明晰ではないが、考えることこそが今俺にできることだ。全てを解き明かすための手掛かりはもうあるはずなのだから。
そうして俺の思考がより深くへ落ちていこうとしていた時だった。
ぺたぺたと。
俺を我に返らせたのは、背中側から響く軽やかな足音だった。
最初はやっとオリバーが来たのかと思った。彼は俺とファイドルに世界平和という悲願のためだとかいって風呂を勧めたくせに、自分は後始末があるとかで来なかった。だから、やっとオリバーが来たのかと思ったのだが、しかし、この足音は成人男性のもととすれば軽すぎる。
それはまるで子供のような。
振り向くと、湯煙の向こう側に小さな人影が映りこんだ。
「エイジ」
俺の名前を呼びながら湯気から現れたのは、見紛うことはない、仲間のアガサだった。
見紛うことはないと表現したが、それは四年間も行動を共にした俺であるからこそ可能だっただけで、普通の人にはその娘が最恐の魔術師アガサだとは判別できなかっただろう。
なぜなら、アガサは一糸さえ纏わぬ、つまり裸体だったから。
彼女のトレードマークであるはずのローブはなく、天使のような純白の肌が印象をがらりと変えていた。とはいえ、四年前から全く成長しない貧弱過ぎる肉体は誰しもが想像するままなものであり、そしてその貼り付けたような無表情もそのままだ。
「ああ、アガサか。お前も風呂入りに来たのか?」
こくんと頷いた。
「うん。オリバーが入って来いと。だから、来た」
「……そうか」
「そう」
アガサはそのまま律儀に作法を守って、掛け湯だけするとごくごく自然な動作で風呂に、俺をファイドルと挟んだ反対方向に、ゆっくりと身を沈める――
その直前に、アガサの手首を掴んで引き戻した人物がいた。
「アガサ! そんな破廉恥な格好で何をしておるのじゃ!」
「なにって……風呂入りに来た」
「ふっふっふっ風呂じゃと!? 女子はこっちの風呂じゃ!」
途轍もなく慌てた様子のエリアが、全裸状態のアガサを引っ張って浴室から出ていく。
もちろんエリアも風呂に入る用意をしていたのだろう。彼女も冒険者服を脱いでいるから、黒色の下着が露になっていた。上品なレースがあしらわれている上下一対のそれは、たぶんかなりの高級品だ。俺からすれば、アガサを注意しているエリアも同じような格好なのだが、しかし、狼狽したエリアは残念ながら自分自身の状況には気付かない。
どたばたと嵐が過ぎ去って、一息。
僅か数十秒にも満たない出来事だった。
「はあ、まったく。あいつらは大人しく風呂に入れないのか?」
俺が呆れたようにがっくりと項垂れると、静観していただけだったファイドルがじっと俺の顔を見る。
「……おい、小僧。なんだ、その……」
「歯切れが悪いな」
「そりゃそうだろ。……小僧に聞きたいんだが。お前は今の光景を見て、何も思わないのか?」
「――ん?」
首を傾げて、しばらく考えて、ファイドルが何を言わんとしていたか悟った。
「ああ、なるほどな。俺にも思うところはあるが、あんなのに反応していたらキリがない。旅ではよくあることだったからな」
本当に今のようなことは、四年間の旅ではよくあることだった。過酷な環境下では呑気に風呂で寛ぐこともできない。そもそも、風呂さえないのだから、水浴びさえできれば御の字だった。互いの裸がとかなんとか言っていられる余裕がない状況も多く、特にアガサの裸は流石に見慣れすぎている。
俺も最初の頃は絶対に女性陣と風呂なんて入りたくなかったが、成長しない自身の身体に頓着しないアガサが特に乱入してきたため、恐らく悪い方向に慣れてしまった。ファイドルの反応から鑑みるに、俺も四年間で常人的な思考から随分と乖離してしまったらしい。
しばらく人里で過ごすなら、それなりに一般常識を取り戻さなければ。
エリアも幼少期は深い森で、それからは長らく魔王城で過ごしていたため、金銭感覚や巷で必要となる一般知識が欠落している。と思っていたが、俺も他人のことを指摘できないようだ。
しみじみとそう考えていると、ファイドルはやれやれと肩を竦めた。
「それはそれは……エリア嬢ちゃんもこんな奴が相手だと、可哀想だな。あんなにわかりやすく好意を表しているのにな」
「ん? なぜエリアが関係あるんだ?」
「……俺は諦める奴が嫌いだが、鈍感な奴も嫌いだ」
その言葉には、どこか棘があるように感じた。
全くもって意味がわからない。だが、素直にその意味を訊ねれば、たぶんより呆れられる。そんな気がしたため、俺は意味がわからないまま沈黙する。
はあ、とファイドルは溜息だけ付くと、身体を起こして一段上へと座った。そしてアガサとエリアの乱入によってずれてしまった直前の話題に話を戻した。
「――それで話が逸れてしまったな。つまり、俺らがあずかり知らない水面下で何かが起こっているのかもしれないんだ。偶然かもしれねえし、偶然じゃないかもしれねえ。ただ、用心しておいて損はないだろ?」
そうだな、と俺は頷いた。
俺とエリアが世界平和を目指しているのに対して、世界に混沌を齎そうとしている者もいるのかもしれない。俺の代わりはいくらでもいるだろうが、エリアの代わりは存在しえない。もし彼女の命が失われるようなことがあれば、それこそ全面戦争に達してしまう。ファイドルが指摘するように、用心するに越したことはない。そう考えると、エリアが地霊族の前で狐面をしていたのは、どこかにいるかもしれない敵を警戒しての可能性がある。彼女は俺と違ってしっかりしている。
俺が気を引き締め直していると、ファイドルは脈絡のない質問をしてきた。
「小僧は闘う前、エリア嬢ちゃんの騎士だと名乗ったな?」
「ん? ……ああ、そうだが?」
「騎士とは自身の命を代償にしても自身の主を護る存在だ。小僧にとっての主はエリア嬢ちゃんだ。小僧がエリア嬢ちゃんの騎士を名乗るならば、それを絶対に履き違えるな。この先お前らにどんな苦難が待ち受けているのか知らねえ。さらなる強敵が現れ、信用していた仲間が裏切るかもしれない。全世界が敵に回るかもしれない。だが、お前は常にエリア嬢ちゃんの味方でいろ。嬢ちゃんを護るためならば、どんな奴が相手でも躊躇いなく剣を振れ。絶対に一生かけて嬢ちゃんを護れ。絶対に、絶対にだ」
念押しするかのように、力強くファイドルは言う。
そんなこと念押ししなくても、そう答えたかった。
しかし、こちらを見詰めるファイドルの眼差しは真剣で、声は微塵の茶化しもなく、俺は気圧されて何も言い出せなかった。クルーガの前例があるからだろうか。彼はエリアの騎士と名乗っていたのに、何者かに呪いで操られて、挙句の果てに主であるエリアに手を出してしまった。それぞれの想いがどうであれ裏切り行為には違いない。ファイドルはそれを懸念している。そして、エリアを狙う敵がどこかにいることを確信している。そう感じれた。
俺はエリアの騎士。それなりの覚悟を持って名乗っていたはずだが、彼の前になると甘かったとそう言わざるを得ない。流れから死にゆくクルーガの前で騎士を受け継いだのであって、思えばエリアに対しての誓いは立てていないのではないかと。この後にエリアと合流したら、すべきことをしよう。そう決意する。
「小僧がエリア嬢ちゃんを護る騎士である限り、俺は小僧に惜しまず最大限の協力をしよう。人族との和平もそうだし、平和を脅かす敵へ共に戦ってもいい。だが、小僧がこの盟約を違えたら……」
その先は言わずとも知れた。かつてない闘気が圧となって、俺は頷くことしかできなかった。彼はそんな様子の俺に小さく笑みを零すと、代わって気負いのない声音で言う。
「とまあ、ここまで言っておいてなんだが、もちろん杞憂の可能性もある。とりあえず心の片隅にでも留めていればいい。じゃ、俺は先に上がるわ」
よっこらせ、と立ち上がったファイドルは背中越しに右手を振りながら、脱衣所へと歩き去る。
エリアと出会ってから二週間。人族と魔族の間での和平を目指し、世界平和を目標に据えたこの旅は、やっと最初の一歩を踏み出せた。本来ならば敵であったはずの地霊族族長のファイドルが、共に戦ってくれると明言した。それはどれほどの飛躍になるのだろうか。
たった一歩。されど一歩。
これからも堅実に着実に前へと進み続ければ、何年になるかわからずとも、いつかきっとそこに。
新たな章が始まるような予感で満ちていた。




