42 多重陣式魔法6037
城壁よりも更に上空。等間隔に立ち並ぶ見張り台の一つに、二人の少女が立っていた。
片や長い黒髪を背中に垂らし、片や空色の短髪を風に靡かせた少女。
霹靂の魔王、エリア。
最恐の魔術師、アガサ。
魔界と人界でそれぞれ最も精通しているだろう二人は、今まさに、歴史に残る限り過去最大規模の魔法を行使しようとしていた。
「全素召喚――」
アガサは隣に並ぶエリアの手を握ると、詠唱を開始する。
発動するのは、寝る間も惜しんで完成させた、魔力を他人から他人へ譲渡するという規格外の創造魔法。元来、空気中に混ざっている魔力を体内に取り込んでしまえば、それはその人物の身体に馴染んでしまって、他人に分け与えるのは不可能なものだ。
しかし、それを可能にしたのは、エリアが提示してきた雛形となる術式。それもまた、かつて彼女の騎士であったクルーガという人物が考案したものを元としているらしい。
それまで長らく信じられてきた魔力運用一般概論を塗り替える常識外れの創造魔法。さりとて、これが巷の魔術師に普及したとして、そこまで影響は発生しないはずである。人から魔力譲渡を受けたとして、ただの魔術師が扱える魔力が増えたとしても、その者の練度は変わらない。より多くの魔法を同時使用できるようになるわけでもなく、せいぜい戦闘可能時間が長引くだけである。むしろ、魔力がすっからかんになったお荷物が増えるだけで、デメリットを上回るメリットは得ることはないだろう。
だが、アガサとエリアの二人が並べば、この魔法の真価が発揮される。
「……全開放」
終句による魔法の発動に伴い、絡み合った二人の指先を境にして、魔力が移動を始める。
まるで命がばらばらに分解され、溶けて、流れだしていくような。深い冷気に侵され蝕まれ、徐々に視界が暗くなる。
感覚からして、魔法は正常に動作したようだった。
「……アガサ、大丈夫かや?」
「問題ない」
どこか心配するようなエリアの問いに、アガサは素っ気なく答える。
この作戦の要はエリアだ。彼女が予定通りに大規模術式を起動しなければ、この戦場は収束しない。場合によっては、アガサが起動してもいいのだが、生憎と悔しいことにアガサは五重魔法が限界であると同時に、届ける声は魔王のものしか相応しくない。
とはいいつつも、エリアは弱くなってしまった。魔力の形質の変化させて、永久的な四肢の筋肉強化に回したらしい。未だにアガサにとって理解できないその選択により、彼女は魔王たらしめる圧倒的な魔法を行使できなくなった。主に、最大魔力量が低減した因果で。
ならば、アガサがその魔力を肩代わりすればいい。
アガサはいつでも誰かの代替品だ。今回は霹靂の魔王エリアが使用すべき魔力を、アガサが補完している。
だからこそ、アガサが失敗すれば、作戦全体の失敗を意味する。多少の無理は当然だ。
魔術師としては生命線である魔力が、生物の証である魔力が驚異的な速度で流れ出る。
意識が何度も何度も遠ざかり、その度に唇を噛んで覚醒する。
似たもので魔力枯渇症か。彼らは先天的もしくは後天的に魔力の補給ができなくなってしまう。生命の源であるそれが足りなければ大変だ。意識を失い、悪ければ命に関わることもある。
魔力量が四割を下回り、三割、二割、そして遂に一割を下回った。このまま魔法を維持していれば、あと十秒もすればアガサは倒れるだろう。手足の感覚は既になく、エリアが支えてくれなければ立っていることさえ覚束ない。
そんな時だった。
「…………」
突如として、どこからか湧いた魔力の奔流が、アガサの体内をじわりと満たす。霧掛かっていた思考は明瞭さを取り戻し、四肢隅々の感覚が現実に戻る。
何度経験しても慣れない不快な感覚だが、この状況では便利なものだ。
天使計画という非人道的な実験を経てアガサに与えられた唯一の加護。
魔力無限回復。
最大魔力量は五百ほどと、かつての魔王には足元にも及ばないが、アガサの強みは魔力が足りなくなれば自動的に補充されるところにある。この加護があったからこそ、エイジを追って魔界から人界まで休まずに走破できたのだ。
アガサにとっては、女神は自分を操る張本人であるからして、彼女から与えられた加護に頼るということは不本意であった。甚だ遺憾であった。しかし、目的を遂行するためならば、使えるものは全て使う。
瞬時に魔力が最大上限値ぎりぎりまで回復する。
だが、次の瞬間には繋がりを通して、エリアに移動してしまう。ごっそりとアガサの体内から魔力が失われる度に、何ともなしに回復していくが、それもまたエリアに吸収され、そして回復するという、埒が明かない。
そのままどれだけの時間が経っただろうか。一時間か、それとも二時間か。いや、恐らくどれだけの時間も経っていない。引き延ばされた意識がそう感じさせるだけだった。止めたのはエリアの声。彼女が絡めていた指を解いたことで、術式が中断される。
「もう充分じゃ、アガサ。次は妾の出番じゃ、そなたは休憩しておるがよいぞ」
「……ん、わかった。ありがと」
頷いたアガサは、そう身体に命令していなかったのに、へたりと座り込んでしまった。仕方ない。慣れない術式の行使に加え、二週間も不眠不休で魔法の開発に取り組んでいたから。我ながら情けないと思った。本来ならば敵であるはずな魔王の前でかくも無抵抗な姿を見せられるのは、少なからず彼女を信頼しているからか。望むのならば、あの時のようにこのまま眠ってしまいたかったが、魔術師として今から起こる現象を目撃せず眠るのは許されなかった。
エリアが一歩だけ踏み出した。
――空気が変わる。
霹靂の魔王を名乗っていた時の最大魔力量は八百ほどだったらしい。だが、今の彼女は上限をゆうに超えて、その数倍はあるだろう。圧縮された濃密な魔力が黄金の煌めきとして漏れ、紅玉の瞳と艶やかな黒髪を染め上げている。本物の女神を見たことがあるアガサは、その光景を四文字で表す。神々しい、と。
エリアがちらりと足元を見た。
そこに描かれているのは、魔法陣。これもアガサがこの二週間で開発したものだ。声を広範囲に届けるという術式を魔法陣として起こしたものであるが、たいして手間は掛かっていない。苦戦したのは、この見張り台に完成した魔法陣を描き移すことだった。
「始めよう。光素召喚……」
上空へ掲げられたその右腕に誘われるように、アガサも空を見上げた。
澄んだ青空に、紫の光が瞬いた。
光の粒子が次々と周囲から集い、巨大な魔法陣を描く。
戦場を覆い尽くすようなそれは、夜空のように太陽の光すら通さない。広大な草原が、闇に包まれる。
地霊族も、騎士団も、冒険者も。全ての者がそれまでの戦闘を忘れ、呆然と上空の魔法陣を仰ぎ見る。
あれは足元に描かれた直径十五メルの魔法陣を、何十倍にも拡大して転写したものだ。
これも彼女の騎士だったクルーガという人物が考案したものだそうだ。魔法陣とは大きく複雑なものほど高威力になるが、たいていの場合は描かれるべき布や紙に大きさの制限があると同時に、大きくなれば持ち運びに不便として、魔法陣にまつわる技術は追求されてこなかった。しかし、本来の魔法陣を光素で拡大し、それを同じように発動できるのなら。これこそ魔法史に残る大発明である。人界で最も魔法に精通していると自負しているアガサでも、考えたことさえなかったのだから。
しかし、それだけでは終わらない。
彼女の騎士からエリアに受け継がれたその技術は、更なる進化を遂げていた。
魔王の独壇場が始まる。
凛と響く、気高き声音だった。
「――全開放」
刹那。
新たな色が上空を塗り潰した。
巨大な魔法陣を中心に、次々と無数の小さな魔法陣が展開される。まるで蕾がほころぶように。戦場に死角はなくなった。百以上の大小さまざまな魔法陣が浮いている。
創造魔法として名付けるのならば、多重陣式魔法陣。
魔法陣はその準備にも発動にも時間がかかり過ぎる反面、周囲の魔力を収束させるため、術者の魔力が足りなくても発動できる。
が、この場合だとその魔法陣を展開するのに膨大な魔力を必要とするし、浮かぶ魔法陣を維持する必要もある。この百以上もの魔法陣を維持するために、いったいどれだけの計算が、集中力が、才能が必要なのか、アガサには想像できない。
この魔法陣を作成したのはアガサだったが、最凶の魔術師と呼ばれるアガサでも、これを制御できるとは思えなかった。そんな芸当を、たかだか齢十五の少女が行っているのだから、しかも顔色一つ変えずに行っているのだから、心底末恐ろしい。魔力がなかったら、ただの少女かもしれないが、魔力があったら、正真正銘本物の魔王だ。
凄まじく高密度に収束する魔力。無風の戦場だったはずなのに、吹き荒れる暴風の渦さえ感じる。金色の魔力がリボンのように広がり、その現象を引き起こしているエリアの姿は、戦場の誰しもが意識せざるを得ない。
だが、まだ終わっていない。
この魔法の神髄を。
アガサの耳朶を、強くしっかりとした声が震わした。
『……皆の者、よく聞くがよい。妾は十二代目魔王、霹靂の魔王エリア』
その声は上空の魔法陣を媒介として、戦場に余すところなく響き渡る。
普段とは違って、魔王らしく威厳ある重々しい声音だ。
『双方、争いを止めよ。妾は戦争を好まぬ。今すぐ武器を捨てよ』
その発言に、無駄な抵抗をするものはいなかった。というより、抵抗できなかった。
神の御業のような光景を前にして、ぽろりと剣を取り落とすのは必然で、あんぐりと開いた口を閉じられないのは当然で、面白いことに膝立ちし祈りを捧げるものさえ現れる。
だが、彼らを馬鹿にはできなかった。アガサも同じ心境だったからだ。
これが声を届ける魔法だったからよかった。
もし、これが攻撃を目的とした魔法だったら?
戦場に逃げ場はどこにもない。抵抗を許すことなく、全てを粉塵に変えることだろう。
感情の薄いアガサでも覚える、戦慄と恐怖。ぺたりと座り込んだまま、足はがたがたと震えて、背筋の異常な冷たさが一向に離れない。
もちろん可能とする魔力を与えたのはアガサだ。しかし、こんなにも想定していたものと掛け離れてるのは。これこそが本当の最恐、これこそが本物の化物。敵でなくてよかった。今は肩を並べる相手だった奇跡に感謝するしかない。
『地霊族よ。そなたらが戦いを嗾けた理由は把握しておる。安心せい、妾はこのように五体満足ゆえに、そなたらが戦う理由は全くない。人族どもよ。こちらの手違いで無駄な血を流させてしまったな。悪かった。ここらで剣を引いてくれぬか? ……妾は両者間の交渉会議を望む。草原の中心に天幕を張り、双方の代表者を遣わせよ』
それを最後に、エリアは魔法を放棄したらしい。
泡沫だったかのように、ふっと幾重にも連なっていた魔法陣がことごとく消失し、闇に包まれていた世界が、青を取り戻す。魔力の残滓がきらきらと雪のように空気中を漂う。
アガサは一連の現象が終わっても、何も言い出せなかった。
静寂を破ったのは、打って変わって年相応な幼いエリアの声。
「だはー、疲れたー。これで妾の仕事は終わったかの。……しかし、少し不安じゃの。妾は魔王として信じら――」
言葉が終わりまで綴られるよりも早く、アガサは返答した。
「したした。誰もがエリアを魔王だと信じた。疑う者は誰もいない。歴代最恐の魔王として歴史に残る。うん、間違いない」
「どっ、どうしたのじゃ急に。うむ、まあ信じられたのならそれでよい。というわけで、妾の仕事も終わったことであるし、妾は帰って風呂でも入ろうかの」
言葉通りそのまま帰ろうとしたエリアの細い足首を、アガサはがしりと掴んだ。
「仕事は、まだ終わってない。エリアの役目はこれから行われる交渉会議の進行役」
「嫌じゃ! 風呂に入りたい! この二週間は自分で簡易風呂を造ってみたが、やはり本物とはどこか違うのである! 工房の風呂は炉の熱を利用しておるからか、ぽかぽかするのである! 妾は風呂に入りたい、風呂に!」
進行役なんてアガサがすればいいじゃろう、そう叫ぶ。
無理だと返す。アガサはコズネス代表として出席するオリバーの補佐だし、この戦の原因になったのも、そして戦を終結させたのも霹靂の魔王エリアだ。本人が進行役しなくては交渉が難航するかもしれない。
先ほどまでの威厳はどこへ消えたのか。年相応、という以上に、より幼い言動だった。それも仕方ない。エリアには二週間も見知らぬ大人たちの間へ赴く任務が与えられていたのだから。やんごとなき身分だった彼女には想像以上に精神的疲労があっただろうし、甘える相手がいなかったのだろう。とはいえ、甘える相手がアガサとは、完全に間違えている。その甘えるべき相手はエイジではないのか、とアガサは冷静に思った。
エリアは駄々を捏ねながら、無理にでも前へ進もうとする。
アガサは彼女よりも年上だ。しかし、かつての実験の影響で成長が止まっているため、その背丈は子供と間違われるほど。だから、エリアと力比べすれば負けてしまうのは想像に難くない。引き摺られる。ずるずる、ずるずると。四年間一度も交換しなかった汚れたローブだからこそ問題ないが、このまま逃げられると不都合だ。
ちらっ、とアガサはエリアを仰ぎ見る。
先ほどまでの夥しい量の魔力は感じない。既にあの大魔法で全て消費してしまったようだ。対してアガサは魔力無限回復のおかげで、疲労を度外視すれば万全の状態だ。これならいける。真正面から勝負したら、アガサに勝ち目などない。だが、エリアに魔力が残っていない今ならば。
――熱素召喚
エリアに悟られぬよう、無詠唱で熱素を生み出し、増強魔法へと昇華させる。元々は身体能力の低いアガサだが、五重魔法での増強魔法があれば目的を遂行できる。
――全開放
直後、身体が燃えるように熱くなった。
そして、そのままアガサはエリアを持ち上げた。五重の増強魔法は、素は非力なアガサでもエリアの体重を支えるまでに強化してくれた。
「ふぁ!?」
驚いて身を小さくしたエリアに何も言わず、アガサは終わった戦場に向けて走り出したのだった。




