39 コズネス攻防戦6547
まだ完全には冬を迎えていなくとも、夜明けの風は身を切るように冷たい。
ついに顔を出した朝日が、宵闇を赤色に染め上げる。
第七の刻。
一夜を保っていた両軍の均衡は、今まさに崩れようとしていた。
夜中にはほとんどが休息に入っていた地霊族の軍が、朝日と共に活気付いていくのが城壁の上からだとわかりやすい。向き合うコズネス常備軍と騎士団の連合体も防衛線の準備が終わっているようで、今は敵が動き出すのを待っている段階だ。
本当に戦いが始まろうとしている。
俺とエリアは長年続く戦争を終わらせようとしていた。しかし、巡り巡ってこうして争いに関わることになってしまった。死者は出したくない。だが、ここまでの規模の戦いだ。死者は出てしまうかもしれない。
少し前の俺だったらその事実だけで躊躇してしまうところだったが、もう大丈夫だ。
固めた決意を再確認するかのように、隣に付き添っていたアングリフが静かに問う。
「そろそろだな、少年。心の準備は終わっているか?」
「……ああ」
ぶっきらぼうな返事だが、それでアングリフは俺の決意を読み取ったのか、その指で戦場となる草原の一点を指し示した。
「対峙している地霊族の軍に、一人だけ異質な闘気を持った奴がいるのが感じ取れるか?」
「……ああ」
もちろん気付いている。
アングリフが指を向けるその先に、まるで数百年掛けて成長した大樹のようにどっしりとしたオーラのようなものが漂っているのが感じられる。魔術師ならばそれは身体から漏れ出た魔力なのだが、地霊族は魔力を持たない。代わりとして感じるそれは単純な実力が距離を隔てて伝わっているだけであり、俺を総毛立たせるには充分だった。
「あれがたぶん地霊族族長ファイドルだ。身体能力に優れた地霊族のくせに加護まで得ているあいつを足止めするのが、少年の役目だ」
「わかってる」
「俺はあいつに一度として勝てたことがないどころか、赤子と戯れるように手加減されてばかりだったからな。何も助言なんてできやしねえよ。ただ、あの主の鉄壁防御を超えた少年なら、一矢を報いるのも不可能じゃないかもしれんが。ま、せいぜい頑張れよ」
突き放したかのような言い方に、どこか違和感がある。
「なあ、おっさんは戦わないのか?」
「ん? ああ、そうだな。俺は主から人探しの続きを頼まれていてな。気になるだろうが、後にわかることだ。今は目先の戦いに集中しろよ」
もっともなことだ。アングリフからも俺が戦う理由について一定の回答が得られたわけだが、それであの悪夢を見なくなったわけではない。寝ようとすれば枕元に亡霊が立つような感覚を覚え、昨夜も含めて結局ここ数日は一睡もできていなかった。もしくは心の迷いが晴れた昨夜だけは熟睡できたのかもしれないが、いつものように悪夢に苛まれて、戦闘に支障がきたしてしまえば最悪だ。そんなわけで、一睡もできていない夜が続いていた。
が、それはこの戦いに集中できない理由にはならない。勇者の加護は万能で、アガサの睡魔を退ける創造魔法がなかろうと、睡眠不足で身体の動きが鈍ることはない。ありがたいことだ。
「健闘を祈ってる。んじゃ、魔術師の少女が来たみたいだし、俺はここらでお暇させてもらうよ」
その言葉を最後に、アングリフは城壁から無造作に飛び降りる。十数メルはある高さだが、増強魔法で身体強化していたのか、風魔法で速度を軽減するわけでもなく二本の足で降り立った。各々の武器を手入れしている連合体の雑踏に紛れ、すぐに姿は見えなくなる。
それと入れ替わるように現れたのは、晴天色の短髪を風に揺らす少女。
「おはよう、エイジ。よくねむれた?」
「一睡もしてない。それこそアガサ、お前はどうなんだ?」
「わたし? とうぜん、いっすいもしてない」
まるで不健康を認め合うかのように話す相手は、最恐の魔術師と名高い仲間のアガサだ。
五重魔法を扱い、魔力無限回復という加護を女神から与えられた魔術師である。アガサは眠そうな顔で、とはいっても普段から眠そうな顔なのだが、先ほどまでアングリフが立っていた場所と同じ俺の横で黙るものだから、気まずい中で俺から会話を始めなければならなかった。
「それで、確か他人から他人へ魔力を移す創造魔法だったか。完成したのか?」
「もちのろん。エリアから術式の雛形を貰っていたし簡単だった。苦戦したのは空中投影式魔法陣の原型となる魔法陣の作成だった。寝ずに作業をしてもぎりぎり」
「……お疲れだな。だが、ここからが本番だ、頼んだぞ」
小さな首肯。短い会話が途切れる。
よかった。本当はアガサと普段通りに話せるか心配だったのだ。彼女と魔族に対しての価値観が相違しているのを確認してから一週間、アガサとは一度も会う機会がなかった。
魔族は人族と同じ存在で、だから殺したくないと考える俺。
魔族と人族はいてもいなくても同じで、だから殺しても心が痛まないと考えるアガサ。それも仕方ないことだろう。幼い頃から人族至上主義な教会から洗脳と等しい教育を受けてきたのだから。
俺とアガサが全く理解し合えることはない。
ゆえに、次に会う時は気まずい思いになるのではないか。そう考えていたが、杞憂だったようだ。
できればアガサも俺たちの夢に賛同して、一緒に世界平和を目指してくれればいいのだが。
そんな妄想はアガサの呟きによって阻害される。
「――来た」
見上げると、視界いっぱいに広がる朝焼けの空。僅かに残る星屑に紛れて、きらっ、と一瞬だけ何かが光り輝いた。
俺たちが立てた作戦の要はエリアとアガサである。アガサがエリアに大量の魔力を譲渡して、それでエリアが大規模術式を起動して、戦場全体に声を届かせる。だが、現在エリアは地霊族の軍側にいる。ここから数キロルは離れており、彼女が俺たちに合流するのには時間がかかってしまう。普通に移動すれば、後ろから地霊族に追い抜かされてしまいそうだ。
そこで考案した合流方法は至極簡単で、つまり、魔法での単純な力業だった。
きらりと瞬く一点を注視していると、光り輝くその物体、紫色の帯が俺へと目掛けてずんずん近づいて来る。そして、その何かとの距離が五百メルほどになった時、やっと周囲にいた騎士団の連中が気付いた。驚いている周囲の人間に見向きもせず、紫色の流星は俺へと一直線に降り注ぎ、そして――
ずどんっ。
擬音語で表せるとそれまでだが、その衝撃はいかがなものか。神の鉄槌が落ちたような爆音と共に、それは城壁に立つ俺の僅か先の石材に突き刺さった。
記憶にあるものと全く同じ、エリアが開発したという創造魔法である。本来は炎龍の動きを制限した時のように、相手を束縛する為のそれは、今回ばかりアンカーとしての役割を果たす。つまり、この地面に突き刺さる鎖を辿れば、エリアの元に辿り着くはずなのだ。これは事前に決めていた合図のようなものである。
しかし、敵の攻撃ではないのにも関わらず、俺がそれでも冷や汗を流している理由は、ここから地霊族の軍まで数キロルもの距離があるのに、俺へとピンポイントで狙撃した精度だった。たった一本の鎖だが、率直な計算では二キロルの長さがある。確かに魔力量的な問題で記憶にあるそれよりも細いようだが、二週間前にアガサが繰り出した鎖とは、強度も精度も比ぶべくもない。
俺は僅かに湧いた本能的な恐怖心を押し殺し、むんず、と鎖を両手で握った。紫に輝く魔力の鎖は、軽すぎず重すぎずな質量を持っている。
最初から決めていた手筈だが、いざ決行するとなると不安に駆られてしまう。本当に成功するのだろうか。失敗すれば、エリアは無事では済まない。
しかし、一抹の迷いを断ち切るかのように、二重の増強魔法を身体に掛け、腰を落とし、足元に力を込めると、準備完了。
「せいっ…………よっこらしょッッッ!」
竿で魚を釣る要領で、俺は鎖を後ろへと引っ張った。鎖自体はそこまで重くないはずなのだが、長さが長さである。まるでアダマントの塊を持ち上げるような、強い抵抗がぐっと両手に掛かる。だが、事前の増強魔法が功を奏したのか、直後、両手から重さが消えた。
鞭のように鎖が撓り、じゃらじゃらと鎖は自重に引っ張られて後方へ抜けた。そして同時に、凄まじい勢いで先端にくっついていた黒い物体、エリアが慣性に従って頂点に達すると、そのまま鎖を縮めているのか重力に引っ張られているのか加速しながら落ちてくる。俺は咄嗟に鎖を放り投げて、両手にクッション代わりの風素を召喚して、空から高速で落ちてきたエリアをしっかりと受け止めた。
すっぽりとお姫様抱っこで両手に収まったエリアは、ぱちくりと両目を瞬かせてから呟く。
「この体勢、エイジが相手じゃと恥ずかしいの」
「……二週間ぶりなのに開口一番がそれかよ。それに事前に決めていた合流方法だが、流石にいくらなんでも無茶が過ぎるだろ」
「成功したからいいじゃろ」
呆れた俺に対し、腕に収まるエリアは上目遣いで気軽に挨拶をした。
「それで久方ぶりじゃの、エイジ。愛しの妾がいなくて寂しくなかったかや? きちんと寝れておったかの?」
「寝れなかった」
「なっ!?」
自分から話を振っておいて答えると絶句するなんてどうかと思う。
まあ、二週間ぶりの再会だが、エリアに変わりはないようでよかった。綺麗な黒髪と紅玉の両瞳。つややかな肌も健在で、ちゃんと良質な食事と良質な睡眠をとっていたようだ。彼女の騎士だったクルーガからエリアを預かっている手前で少しでも健康を損ねさせると、あの世に行った時に文句でも言われそうだ。
にしても、久しぶりの再会でわかったことだが、エリアが傍にいる時の安心感が凄い。本当はエリアに対しても俺の過去や戦う理由についてあれやこれやと話したかったのだが、安心感のある彼女なら全て許してくれそうな気がした。結局、思い悩んでいるのは俺だけだったのかもしれない。
そう思って話をおもむろに切り出そうとした時だった。
隣から飛び込んできた声に出鼻をくじかれる。
「お久しぶりだね、魔王殿?」
「久しぶりじゃの、総長殿」
見ると、先ほどまで部下たちに指示を出していたアルベルト騎士団総長、オリバー・アルベルトだった。
タイミング的にもう少し待ってもらいたかったが、内容的に仕方あるまい。俺がエリアを降ろすと、オリバーが真面目な顔で尋ねてきた。
「それで結局、彼らの目的は手紙の内容と変わりはなかったのかい?」
「うぬ。妾も妾が魔王だと名乗っておったのじゃが、最後まで信じてくれぬかった。衝突は避けられぬ」
手紙の内容。
地霊族の軍に接触したエリアが送ってきた手紙で知り得た、彼らがコズネスを攻めるに至ったその目的だ。簡単に言えば、彼らは魔王エリアがコズネスに囚われていると信じており、魔王を解放するのが目標らしい。
「ふうん。それなら作戦は練っていたもので変える必要はなさそうだね。全体的に防戦を続け、魔王殿とアガサちゃんの準備が整うまで、エイジくんが族長ファイドル相手に時間稼ぎをする」
ああ、と俺たちが頷いた直後だった。
加護によって強化された俺の聴覚が、敵陣の大将だかの声を捉えた。そして地鳴りのような轟音が響き渡る。予想通りに地霊族の大軍が、猛然と突撃を開始したのである。炎龍の咆哮にも似た幾重にも響く足音は、誰しもに明瞭と恐怖を思い起こさせるが、しかし、まだ動こうとしない。オリバーの合図を待っているのだ。
「傾聴!」
全ての視線を集めたオリバーが、装飾の施された剣を片手に、腹から声を出す。
「コズネス常備軍第一から第三部隊、ともに騎士団全部隊、抜剣、防衛準備ッ! 魔術師部隊は前衛へ支援魔法と城壁に強化魔法をッ! この戦、耐えれば絶対に勝つ。コズネスへ生きる者として、意地を見せてやれッッッ!」
作戦の内容を詳しく知らない一般兵にとっても、心が熱くなる鬨だ。
うおおおぉぉぉ、と三千を越える雄叫びが地霊族の足音に負けじと戦場を包み込む。
もちろんだが、ここにいて怯えを持たない兵士たちはいない。コズネス常備軍も騎士団隊員も魔族や魔物の侵攻に備えて訓練しているが、実際に炎龍が出現したり、ここまで大きな戦闘は予想していなかったはずである。それでも、全員がコズネスに生きる者として誇りがあるのだ。
彼らは、彼らの誇りの為に戦う。
それならば、俺は何の為に戦うのだろうか。
見付けた答えは、エリアを守るため。
「エイジ、妾は予定通りにアガサと準備へ向かう」
「わかった。俺もファイドルと一戦やってくるよ」
俺はそう言い残して、城壁からアングリフのように飛び降りた。大きく息を吸う。全身まで清々しい空気が送られたのを感じると共に、俺は走り始める。
加護で得た他の追随を許さない圧倒的な脚力と、二重で掛けた加速魔法が爆発的な一歩を生み出す。エリアの八重魔法による移動には及ばずとも、人外を超えて神速の域に達した一歩は、常人の十歩と等しい。正面から襲い来る逆風を裂きながら、一直線に地霊族の軍へ向かう。風を纏い、音さえ置き去りにして、俺は駆けた。
技術も何もない純粋な速度だけで、まだ四キロルはあったはずの距離を一分も掛からずに踏破した。
先頭で走る地霊族が、凄まじい速度で飛び込んできた俺に、ぎょっとした顔を見せた。だが、俺の目的は彼らの奥にいる一人。
前方に立ち塞がったのは護衛だろうか。軌道上にいて、急制動をしてもぶつかりそうだ。速度を維持したまま俺は跳躍し、加えて剣技スターダスト・スパイクを空中で発動する。戦場に突如現れた一筋の流星が、目標までにあった残り距離を無に帰す。
地霊族の頭上を駆け抜けて、俺はこの戦場で最も目立っていた大柄な男の前で降り立った。
「よう、待っていたぜ。小僧が俺の相手か?」
「そうだ」
短く返す。
逞しい筋肉を持ち、剛毅な風貌の男だ。武器として鞘に収まっている剣は、想定以上に太く重そうで、つまり男はこれを片手か両手で振れる筋肉の持ち主だ。
その両目は燃え上がる炎よりも赤く、それなのに、軍の中心に突っ込んできた俺へ値踏みするかのような冷たい眼光を向けていた。
俺は既に今朝からこの男の存在を察知していた。数キロルもの距離でもはっきりと感じられる闘気、それはこの戦場において異質な存在で、俺の加護と似たような雰囲気を漂わせていた。
この男の前では、コズネス常備軍も騎士団も対打ちできない。そう思えたからこそ、この男を喰い止めるために俺が出てきたのだ。これまで幾度となく強敵と戦ってきた俺ならば、どれほど相手が強かろうと時間ぐらいは稼ぐことができる。
そう考えていた。
甘すぎた。眼前の男は俺よりも遥かに強い。身体能力に優れた地霊族だとか、彼らの神から与えられた加護だとか理屈うんぬんではない。前に立って初めてわかる、このオーラの重さ。自ら意識的に鼓舞しなければ、敵を前にして心が委縮してしまいそうだ。
俺は静かに剣を構えた。男は剣の柄にも手を掛けずに、俺へ言った。
「凄いな、小僧。まさか単身で敵地の奥深くまで突っ込んでくるとは、俺としても思わなんだ。その心意気を認めて、俺一人で相手してやるよ」
「そりゃありがたい」
見渡すと、他の地霊族は距離を取って、俺と眼前の男が戦う場所を開けてくれたようだ。
そこで男が鞘から武器を引き出す。片手で構えるのは俺の首ほどの太さがある大剣。男は軽々しく片手で扱っているが、宵闇の剣よりも重そうで、俺にはまず振れもしないだろう。
「じゃ、始めるとするか。地霊族族長ファイドル……行くぞ、小僧!」
「魔王エリアの騎士、エイジだ!」
俺とファイドルは、同時に地を蹴って飛び出した。




