33 平和の終わり6431
眼前のソファーに座り、ティーカップから熱々の紅茶をちびちび飲んでいるのは、いかなる感情をも顔に表さない、一見すると作り物の人形にしか見えない少女。
はっきりとしているのは、珍しい空色の短髪と幼い顔立ちぐらいで、他のあらゆる要素は彼女を表す指標には成りえない。彼女が纏っているローブはぶかぶかで、普通の冒険者は魔術師に憧れた少女なのかと笑い飛ばしそうだが、彼女の顔を見た途端に黙ってしまう。
まるで、寝ているようにも、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えるその無表情は、誰しもの本能に潜在的な恐怖を生み出すことだろう。
最凶の魔導士、それは彼女が持つ異名だ。
「……それで、アガサちゃん。君はどうして帰らないで、ここで優雅にティータイムを楽しんでいるのかなあ?」
アガサ、と呼ばれた少女はカップをソーサーに戻すと、声の主に向かい合う。
「帰る? わたしに帰る場所なんてない。あるとすれば、ここから遠く離れた教会本部かわたしの故郷になる孤児院だけ」
「僕は君に自室を与えたつもりなんだけど。紅茶を飲むなら、ここじゃなくて自室でしてほしいね。全く仕事が捗らない」
迷惑な話である。コズネス支部まで来たとはいっても、総長にしかできない持ち込んだ書類仕事や炎龍絡みの案件も大量にあるのだ。その大半が部外者極秘のもので、彼女がいると仕事が進まない。
アルベルト騎士団総長オリバー・アルベルトがそう愚痴を零すと、アガサの無表情が僅かだけ歪んだ。不愉快に思ったのだろうか、本当にわからない。
アガサ。人界で最恐と恐れられているのは彼女の背景がかなり特殊だからである。
整世教会に所属して、女神以外の信仰を持つ者や、教会に歯向かうような不届き者を教会の命令に従って排除する魔術師。その手口は残忍で、拠点に躊躇なく高威力魔法を叩きこみ、ほとんどの場合は一瞬にして肉塊へ早変わりする。だからこそ、彼女を恐れて教会の敵は表立って行動しないのである。
であるからこそ、オリバーは彼女の考えが不可解だった。
話によると、アガサはあの二人に手助けしたらしい。片方は見方によっては女神を裏切ったことになる勇者、片方は教会が滅ぼすべきと煽る魔族の長である魔王。整世教会の命令を順守する彼女が彼らと関りあるのは、本来ならばありえないはずだ。
そんな風に思われているとは露程とも知らず、アガサは澄まし顔で紅茶を飲んでいる。匂いからしてアールグレイ、完全に長居する気だ。
仕方ない。オリバーはペンを置いて作業中断すると、執務机から彼女に対面するソファーへ移動すると腰を下ろす。ちょうどいい機会だ、アガサに聞きたい話はあった。
そんなオリバーにアガサはちらりと一瞥すると、虚空から新たにソーサーとティーカップを取り出し、手際よく紅茶も注いだ。流石にこんなところで暗殺はないだろう。毒の心配はなしにオリバーは喉へ全て流し込むと、舌先に残るすっきりとした余韻を楽しむような間もなく、話題を切り出す。
「――それでアガサちゃん。君は味方なのか敵なのか、いったいどっちなんだい?」
口元からティーカップを放して、アガサはちらりと前に座る騎士団総長の姿を見た。
「味方? 敵? 世界は簡単に二分なんてできない。わたしは味方でもない、同時に敵でもない」
「迂遠な言い回しはあまり好きじゃないな。僕は君のお気持ち表明が聞きたいんだ」
オリバーは室内を重々しい殺気で満たす。質問をはぐらかさせないように。
オリバーはアガサよりも明らかに弱い。受けの剣術があっても、加護を持つ者と持たぬ者では圧倒的に差がある。だが、アルベルト騎士団総長という立場上で格上と接する機会が多かった彼は、殺気の扱いに誰よりも長けている。たぶん、睨むだけで雨蛙を殺せるのではないか。
しかし、そんな圧を前にして、アガサは無表情を僅かたりとも崩さなかった。
整世教会は唯一神を信仰している。神はたった一人しかいないから唯一神であり、他の神を祀る魔族は分かち合えない敵なのだ。だから、整世教会の考えに則ると、勇者も魔王も、そして彼らと口約束だけでも盟約を結ぼうとしているオリバーも、纏めて敵になるはずだ。
しかし、アガサは敵ではないのだろう。エイジたちを攻撃しなかったから。同時に、味方でもないのだろう。エイジは心変わりが何かあったようだが、アガサからはそれを感じ取れない。ただの気紛れなのかもしれない。
状況から考えると何も信じられなかった。だから、オリバーは彼女に直接問い掛けることしかできなかった。
オリバーの必死な視線に耐えかねたのか、アガサは言葉を発す。
「……わたしのお気持ちとしては味方よりかも。ただ、それは今だけのこと」
「今だけ?」
不思議な言い回しが気になり、聞き返した。
「わたしの行動は全て女神に制約を受けている。けれど、女神の影響力が最近は低下している。だから、わたしは自分の意思で自由に行動できている。だから、今だけ。状況が変わったら敵になるかも」
「ふうん。……確か、アガサちゃんは整世教会が行っている天使計画の被実験者だったよね?」
天使計画。
それは、人為的に加護持ちを造り出す計画だ。
元々、加護持ちはあまり珍しいものではなく、四大国いずれの国も数人は所有している。しかし、それは視力を強化したり、動物と話せるようになったりと特別な能力が与えられるが、内容はてんでばらばらで、必ずしも戦闘に関する加護ではない。加護は女神が与えるものであるが、本人の気質によって左右されるらしく、女神でさえ与える加護を選べないそうだ。
だが、人族よりも身体能力も魔法的能力も高い魔族に対抗するには、加護がなければ話にならなかった。
そのため、才能ある子供を劣悪な環境で教え鍛え、無理やり戦闘に関する加護を顕現させようとしたのだ。ひたすら様々な魔法を教え込まれ、ゲテモノ当然の薬液を飲まされ、魔物の群れに放り込まれ。それで犠牲となった子供は数十人を超えると聞く。
世界の理に背くようなこの計画は、予想に反して、ある意味では成功した。
最恐の魔術師、アガサ。高い最大魔力量に、五重魔法を使いこなし、魔力無限回復という能力もある。
「でも、わたしは失敗作」
アガサは言葉を続ける。
「わたしという加護持ちを一人造るためだけに、どれだけの犠牲が、どれだけの手間が、どれだけの費用が必要になったか。そしてわたしの加護は掛けた労力に比べて能力が低い。これまで通りに加護持ちを募集した方がずっといい。それで、わたしという失敗作を最後に天使計画は打ち切り」
「……なるほどね」
「ただ、その実験の過程で、わたしにはある呪いが掛けられた。女神には絶対に抗えない呪い。魂の深くまで刻まれていて、どうしようもない。だから、女神の影響力が低下している今だけ、わたしは自分の意思で行動できる」
そう言い切るアガサは、心なしか少し明るく見えた。こうしていれば、どこにでもいる町娘なのに。そんな少女を戦地へ送り込むから、オリバーは教会が嫌いだった。目的のためなら手段を厭わない教会が。
そんな教会に便利な手駒として使われているアガサへ、なんと声を掛ければいいのか。慰めの言葉か、慮る言葉か。水面に浮かぶ泡のように、現れては消えてゆく。
その言葉を探していると、廊下からどたどたと足音が聞こえてくた。突然だが、オリバーにとっては内心ありがたい気持ちだった。
「――誰か、来たようだね。隊員には来るなと伝達しているはずなのだけれど、緊急の用かな?」
「違う。この足音、エイジとたぶんエリア」
そうアガサが断定した途端、執務室の扉が思い切りに開かれる。
「オリバー!」
大声で自分の名前を呼ばれた彼は、顔をしかめたのはいうまでもない。
大股で歩き寄るのはエイジで、その後ろから顔を出したのはエリア。アガサの推測は見事に的中だ。もっとも、索敵魔法を展開しただけかもしれないが。
「……帰ったと思っていたんだけどね」
やれやれと肩を竦ませると、二人に遅れて入ってきた守衛が頭を下げた。
「申し訳ありません。急用でどうしても手紙を届けたいとのことで……私の独断です」
「いいよ。持ち場に戻って」
はっ、と最後に定められた騎士団の一礼をした守衛が走り去ると、待っていたとばかりにエイジが一通の封筒をオリバーへ渡してくる。
「とりあえず、これを読んでくれ!」
「そんなに慌てて、この手紙に何が書いてあるんだい? ……知らない封蝋。毒はなし、魔法陣も仕掛けられていない、僅かに魔力の残滓を感じるけれど関係なさそうだ。安全みたいだね」
何度も暗殺されそうになった立場上しっかりと安全確認したオリバーは、封筒から一枚の手紙を取り出した。差出人は不明。受取人はクルーガ・ナデイル、二人の話で何度か登場した名前だ。確か、魔王エリアの側付きで魔物使いだったはずだ。先日の炎龍騒ぎは彼が原因だったらしい。死者はなかったといえども、騎士団隊員にもそれなりの被害が出た。その責任をアルベルト騎士団としてはクルーガ・ナデイルに取ってもらいたかったが、既に亡くなってしまったそうだ。
オリバーはその名前から視線をずらすと、手短に手紙を読む。送れる情報に限界がある伝書鳩を使ったからか、書かれている文字は緻密で膨大だが、必要な情報だけ読み取る。
文字の海から得た情報を咀嚼して吟味して、そしてようやく語る。
「……なるほどね。それで魔王殿、この情報の裏付けは?」
「取れておらぬ」
「それなら、アガサちゃん。使い魔これが本当かどうか、急いで確認してくれ」
「既に、送った。夜までには、戻ってくると思う」
「仕事が早いね」
うん、と頷いてオリバーは本題に入る。いつもの飄々とした態度ではない。アルベルト騎士団総長らしい、鋭い雰囲気をオリバーは纏った。
「この手紙に書かれている情報が全て事実だとして、僕らは対策を講じなければならない。まず、情報を整理しよう。僕が間違ったことを口走ったら指摘してほしい。この手紙は差出人不明でクルーガ・ナデイル宛に先ほど届いたものだ。内容は至極簡単。何者かが地霊族を扇動して、組ませた大軍がコズネスへ進攻してきている。その大軍と炎龍を使って、ここコズネスを陥落させよってことだね」
「ああ、問題ない」
エイジの首肯にオリバーは溜息を付きたくなった。まだ炎龍騒ぎの事後処理が残っているというのに、またもや新たな問題を持ち込んできて。本当に迷惑だ。
地霊族は魔界に住まう種族のことである。赤褐色の肌と屈強な肉体が特徴で、人族に比べ何倍もの身体能力を備えている。弱点としては魔法が一切使えない点だが、有り余る身体能力があるため、彼らと人族が戦闘すれば、分があるのはもちろん彼らだ。
だが、今回の場合は別である。
オリバーは収納魔法から地図を取り出して、机上に広げる。コズネスを中心として、周囲の地形を簡単に表した地図だ。そこに同じく収納魔法から取り出した白い駒と黒い駒をそれぞれ城内と城外に配置する。白が人族だとすると、黒が地霊族である。
自身はアガサの隣に座り、直立したままの二人に対面へ座るように促したオリバーは、おもむろに手で示す。
「最初に、地霊族の集落はこの地図上だとここから南西方向にあり、距離は約百二十キロルといったところだね。普通に歩いて移動したとして二週間程度かな。手紙の情報が正しいとすれば、地霊族の数は約二千。この街を包囲するには遠く及ばないため、戦場は局地化するだろう。対して僕たちは、コズネス常備軍が二千と、騎士団が非戦闘員含めて千。いざとなれば、冒険者たちも二千ほど招集できる。また、防衛側は僕たちであることと、魔法による遠距離攻撃の有無を含めれば、先日の炎龍みないなイレギュラーが発生しない限り、僕たちの圧勝だろう。それもエイジ君が追い払ってくれたし、件の個体が使役者の束縛から逃れて、既に人界から去ったのは確認済み。だから、僕らが勝つのは簡単だ」
オリバーの言葉にアガサが眠そうな声で続く。
「ただ、勝つのは簡単でも、勝つのが目的じゃない」
「その通り。君たちは平和がご所望のようだ。争いごとはしたくないんだろう?」
その問いかけに勇者と魔王が揃って頷く。
はっきり言えば、とてつもなく面倒臭い。
アルベルト騎士団が掲げる方針は『戦火から民を守る』であり、いわば降りかかる火の粉を払い落すという意味だ。そのため、自ら争いを起こすのは好まないが、攻めてきた魔族を根絶やしにするのは平然と行える。だからこそ、今回の案件が二人によって持ち込まれたものでなければ、オリバーは徹底抗戦の指示を出していた。
そうしないのは、テーブル越しに座る勇者と魔王の存在があるからだ。まず勇者の能力は絶大だ。オリバーと剣を交えた時は完敗だったし、彼がアガサに負けたのも相性の問題だ。本来なら騎士団隊員が束になって掛かったとしても、万一にも勝ち目がないほど強い。続いて、魔王はどうか。その実力は未知数で、話に聞くとアガサはなすすべもなく動きを封じられたらしい。もし地霊族と争うとオリバーが決定してしまえば、そんな二人が敵に回る可能性がある。本当に面倒臭い案件だった。
とはいえ、総長の立場からすると今回の件は好都合だ。万事滞りなく進めば、彼らに恩を売ることができるのだから。恩は金にはならないが、長期に渡れば金よりも価値がある。
「ただ、対策を話し合う前に、僕の質問に答えて欲しい。クルーガって男は使役していた炎龍にコズネスを襲わせ、挙句の果てに、手紙の差出人とコズネスを侵略しようと画策をしていたわけだ。死者にとやかくは言いたくないけれど、つまりクルーガは――」
「違う!」
オリバーの言葉を遮ったのは、それまで大人しく話を聞いていた魔王エリアだった。
「違う、クルーガは優しい奴じゃった。しかし、クルーガは何者かに呪いを掛けられておった。なんでも、その何者かの命令には絶対逆らえない呪いらしく、弱みを握られていたのじゃ。ゆえにクルーガは悪くない」
「呪い、呪いか……」
「そうじゃ、呪いである」
霹靂の魔王という肩書きを持つ少女が、じっとオリバーを睨む。彼女にとってクルーガという人物は大切な存在だったらしい。それに呪い、という言葉とその内容にオリバーも心当たりはあった。だから、ここで争っても意味がない。オリバーは肩を竦めることで、降参の意を表した。
「じゃあ話を戻すけれど、先述した要因から勝つだけなら苦労することは決してない。しかし、君たちが望むのは誰も死なない平和な解決だ」
「うぬ。しかし、それが難しいのは妾にも理解しておる。が、魔王として民を負け戦に赴かせるわけにもいかぬし、地霊族も妾にとって思い入れのある種族じゃ。よろしく頼む」
「もちろん。……と言いたいところだけれど」
オリバーは言葉を濁した。
「実は僕ってコズネス支部のトップじゃないんだよね。公には身分隠しての視察に本部から来ていることになっているから、僕の一存では何もできないんだよね。それに、支部長には最前線の街を任せているから、僕よりもずっと地霊族について詳しいことを知っている。だから、本来の支部長が来てくれないと――」
「来たようだな」
「そうみたいだね。そろそろ戻ってくるはずだったから」
エイジが足音に反応して、扉の方へ視線を向ける。
全員の注目が集まった扉がゆっくりと開いて、ぬうっと巨体が現れたのだった。




