3 最強の勇者、魔王と出会う6900
まるで長い夢を見ていたような気がする。
辛くて悲しくて、でもどこか優しい気持ちになれるような夢。
でも、それは幻想だ。敵がまだいるかもしれない戦場で眠れるはずがないし、俺はそもそも眠る必要のない身体をしている。風邪も病も罹らないし、喰わず飲まず寝ずで一週間は活動できる。だが、今は身体がどこか重く感じた。気付かないうちに、精神的に疲れていたのかもしれない。
ぼんやりとしていた意識を浮上させて、周囲の様子を把握した。
並んだ長椅子と、最奥には聖母像のような彫刻が建っている。教会だ。
俺がここに来てから時間は半刻も経っていないらしい。ステンドグラス越しに差し込む色とりどりの炎が外の様子を告げる。
外では破壊の炎が荒れ狂っているはずなのに、その熱気は厚い石の壁に阻まれ、教会の内部には沈黙のヴェールが下りていた。教会の空気は静謐で、吐き出した息が白い蜃気楼を灯す。
「……戻らないと」
そもそもこの教会に来た目的は、ここに逃げ込んだ魔族がいないかどうか確かめるためだった。既にその確認は終わったのだから、長居する理由はない。それよりも、一刻も早く仲間と合流しなければならない。俺がぼんやりとしていたため、もう合流時間は過ぎてしまっているはずだ。
そんなことを考えながら、立ち上がった直後のことだった。
どこか懐かしいような幼い声が、不意に鼓膜を揺らした。
「初めまして、勇者」
「……へ?」
頓狂な声を漏らしたのは、仕方なかった。
顔を上げると、聖母像の台座に少女が座っていた。少女は俺のぽかんとした顔にころころと笑い、言った。
「迷子の勇者と見受けられる」
「は、へ? なな、何者だお前!」
聞くまでもないことだった。正体はその身体的特徴に現れている。
暗闇でも怪しく光る紅玉の瞳に、小柄な体を包み込む深黒のローブ、そして小柄な体からは滲み出る魔力――魔族だ。
俺は動揺心をすぐさま押し殺し、立ち上がりながら抜刀した。
「――ッッ!」
ぴたりと剣尖を少女に向けた。
この教会には誰もいなかったはずだ。勇者として五感が優れている俺が見落としたなんてありえない。俺が微睡んでいた時に忍び込んだ? いいや、俺は眠っていようと敵の接近に反応できるよう訓練されている。ここまで接近されて気付かないなんて信じられないことだ。ならば、どうやって?
ぐるぐると思考が高速で巡っているが、剣尖は少女に向けられたままだ。
そこに迷いもないのは、彼女が魔族、だからではない。少女が異様だからだろう。
ただの魔族ではなかった。その身体の周囲に、魔力のオーラというべきものが高密度で漂っている。
まさか――俺は恐れているのだろうか。
そんな俺の内心に気付いたのか、少女は問うた。
「何故に剣を向ける、勇者よ」
「……その前に名乗ったらどうだ?」
俺は警戒心のままに尋ねる。
どうして俺が勇者なのだと知っているのか。その疑問よりも先に、少女が何者なのかが気になった。この教会の出入り口は、俺が入った場所だけのはずだ。なのに、勇者である俺に気取られぬまま中へ入るばかりか、俺の眼前へ座っている。
何者なのだ、この少女は。
そんな俺の考えが読めたのか、少女は怪しく笑うと、澄んだ声で言った。
「妾は魔王だ」
まおう、マオウ、魔王。
と言葉を反芻してから、やっとその意味を悟る。
「……あ? 何が魔王だって? お前のような、ちんちくりんの子供が?」
「ああ、妾が魔王だ。父親に『氷結の魔王』 を持つ、十二代目『霹靂の魔王』である」
俺は疑いながらも、その言葉にしっくりきた。
魔王。
魔族を統べる王のことだ。ただの魔族でさえ人族よりも身体能力が高く魔法にも適正があるというのに、魔王は他の魔族と隔絶した能力を持つと言われている。歴代の勇者も魔王に倒されたらしい。
少女が纏う魔力の渦は、今まで出会った全ての魔族と隔絶したものだった。視認できるほど高密度で、肌がひりつくような感覚がする。見た目は子供だが、少女が本当に魔王だとしても割と信じることができた。
もちろん、ただの嘘かも知れない。だが、もしその少女が魔王なら、これはチャンスだ。魔王を倒したら、この戦争は終わるのだから。
「…………その言葉が本当なのか俺は判断しようがない。でも、俺は……お前を殺す」
殺すしかない。出会ってしまったからには、殺すしかないのだ。魔族だから、敵だから、他に理由はいらない。
台座に座った少女に向けて、剣を肩で抱えるように構える。
これでいいのか、と首をもたげた良心は捻じ伏せ、憎悪の感情を滾らせる。魔族は多くの人族を殺し、俺の故郷も滅ぼした。こいつさえ、魔王さえいなければ。
憎しみの心意に応えた刀身は、ぶるりと震え、赤い燐光を漂わせ始めた。古代流派剣術、紅弦と呼ばれる剣技だ。
「ぜああ、ああっ!!」
喊声を上げ、右足を踏み込んだ。
直後、剣が引っ張られるように加速して、少女に猛然と迫る。もう剣は止められない。俺はその剣が少女の首を斬り飛ばす、その瞬間を予想した。
しかし、――――
「なっ!?」
しかし、少女の体には当たらなかった。
いや、避けられたのだ。
「言っておるであろう? 妾は魔王なのだ。このような攻撃は効かぬ」
少女の声が背後から聞こえる。俺の目はぎりぎり少女が高速で背後に回る一瞬を捉えていた。全てが片時の間で行われ、思い出したかのように押しのけられた風が、俺の髪を揺らした。
「――旋緋ッッ」
「だから、妾には効かぬと」
振り返りざまに二度目の剣技を放つが、やはり、剣が届く寸前で少女の体は攻撃範囲から掻き消える。
内心で冷や汗が湧き出る。まるで理不尽を相手にしているかのような。
ああ、――勝てない!
そう叫ぶ本能をねじ伏せて、理性でその速さの原理を理解する。俺は恐怖心を押し殺し、尋ねた。
「今のは……魔法か?」
「うむ、加速魔法だ」
その魔法は身体の動作を加速する完成された魔法だ。とはいっても、その効果は微々たるもので、戦闘には気休めにしかならない。
しかし、魔法は理論上、無限に重ね掛けできる。まずは口内詠唱、そして脳内詠唱の二重詠唱。この二重魔法が使える者は達人を名乗れ、宮廷魔術師にもなると口頭に加えて脳内での二重詠唱、つまり合わせて三重魔法が可能だ。
しかし、たかだか三重魔法ごときでは、勇者である俺の背後に立てない。しかも、加速馬法は身体能力の補助をするものだ。はじめの筋力が貧弱なはずの少女では、なおさら三重魔法ごときでは無理だ。
なら、どれほどの数の魔法を脳内で詠唱したのか。
ありえないと思いながらも、事実として、少女は勇者である俺の剣技を避けてみせた。
やはり、魔王なのか。
魔王だとしたら、勇者である俺の前に現れた理由は決まっていた。
「……俺を、殺しに来たんだな」
たくさんの魔族を殺したのだから、仕方ない。報いを受けるべきだ。
「ん? 違うぞ?」
少女は言った。
「そなたを殺しても意味がない。憎しみの連鎖が広がるだけであろう。――では、挨拶はこれくらいにして、交渉しよう」
「交渉だと?」
「単刀直入に言おう。妾の同盟仲間になれ」
「…………は?」
思わず、頓狂な声が漏れ出る
「……聞き取れなかった。もう一度言ってくれ」
「妾の同盟相手になれ」
「す、少しでいいから待ってくれ。気持ちの整理をしたい」
少女が小さく頷く。
油断なく剣は構えたまま、言葉の真意を考える。
意味がよくわからないが、どうやら少女は俺を同盟相手にしたいようだ。
だが、一体どんな考えなんだ。何かの策略か? 俺を惑わせて、不意打ちを狙っているのか?
いや、少女には不意打ちをする必要がない。あの速度があれば、俺の認識外から攻撃できるのだから。
じゃあ、俺から人界に関する情報を手に入れようとしているのか。だが、わざわざ勇者である俺に接触する必要はないだろう。仲間の魔術師の方が俺よりも情報に精通しているのだから。
俺が会話の切り口を決めかねていると、少女は呟くようにいった。
「……妾は戦争を終わらせたい」
「は?」
「例えばそうじゃの……、主はこの戦争が始まる契機を知っておるか?」
質問されたからには答えないわけにもいかない。少女に攻撃の意思は感じられなかった。少なくともこの話は最後まで聞いてもいいかな、そう思った。
「――七十年前の大地融合だな」
人族も魔族も、何も最初から戦争をしていたわけではない。人族は人界大陸に、魔族は魔界大陸に存在しており、両者の間は莫大な海が広がっていたため、互いの存在は認知されていなかった。
しかし、七十年前、神の御業かと思われるような地殻変動が起こり、二つの大陸が繋がった。
ある一夜の出来事だったという。地震のような地鳴りが一晩中続き、朝に見れば、海だったそこが大地となっていたと聞く。
後に大地融合と呼ばれるこの出来事を発端にして、戦争は始まった。
少女は俺の説明に肯定した。
「その通りである。だがしかし、なぜ戦争をする必要があった?」
「なぜって、それは……」
「人族が問答無用で戦争を吹っ掛けて来たからじゃろ」
このような話の大抵は、水掛け論のようにどちらが悪いとは言えないものだが、俺は反論できなかった。心当たりがあるからだ。
『争え、奪え、魔族の血で世界を染めろ』
整世教会は魔族との交渉なんて考えずに、神からのお告げを持って、戦争を積極的に推奨してきた。その事実は変えようがない。
「送った使者が幾度となく殺されて、先々代魔王が激怒したのは当然じゃろ。とはいっても、戦争はもう無意味じゃ」
「……どういうことだ?」
「戦争が七十年続いたということは、文明の発展進歩がそれだけ停滞したということ。このまま戦争を続けて国力が低下するより、国交を樹立させる方が懸命という話である」
勉強なんて教えられたことがない俺にとっては、とても難しい話だが、つまり今の戦争はデメリットしかないということだろうか。
魔王は魔族を統べる王。なら、王としてデメリットしかない戦争は終わらせなければならない。
「理解した。で、どうして俺に接触したんだ? 何か目的があるんだろ?」
「最初に二度も言ったじゃろ……そなたと平和的に同盟を結びたい。そなたは戦争が嫌いじゃろ?」
「――」
見透かされたような言葉と視線に、俺は言葉を詰まらせてしまった。
多くの魔族を殺してきた。これからも殺さなければならない。そう整世教会が指示したから。俺は勇者だからその義務がある。俺は両親を魔族に殺された。故郷を滅ぼされた。俺には魔族に復讐する権利がある。無念残して死んでいった同胞たちのためにも、俺は魔族を殺す。
ただ、それは虚勢に塗り固められた建前だった。
本音を言えば。
俺は戦争が嫌いだ。同じ知性を宿し、同じ言葉を話し、少し身体的特徴が異なるだけ。そんな彼らを殺すのは、心が痛んだ。でも、俺は殺してきた。殺さざるをえなかった。ただそれだけだった。
「そなたのことは聞いておる。勇者であるというのに、魔界に来てしばらくは誰も殺せなかった。しかし、エルリアという村での戦闘を経て、人が変わったように魔族を虐殺するようになった。そこから滅んだ村は三つ、街は二つ。殺した人数は推定で千人ほど――」
「――やめてくれ!」
俺は叫んでいた。
俺が犯してきた罪の深さは誰よりも俺が知っている。心が痛まないはずがなかった。
わかっている。俺は人殺しをしているだけだと。失われた命は返らないものだと。復讐の連鎖が続くだけだと。
だが、それを自覚すれば心が壊れていくだけだ。
だから――何も考えるな感じるな、と心に蓋をした。
何も考えずに剣を振るのは、とても簡単なのだから。
しかし、少女が俺の心に揺さぶりを掛けているからだろうか。
心の奥底に隠していたはずの疑問がするすると漏れる。
「――俺のしていることは……本当に正しいのか?」
零れ落ちた声は、弱々しい。
俺は魔族を殺した。これからも殺すだろうし、それが勇者の役目。勇者として女神に選ばれたのなら、その役目を捨てるわけにはいかない。
それでも、罪のない子供を殺すのは間違っている。間違っていると思っているのに殺すのは、人間の心を捨てたからか。
どうすればいい。俺はどうすればいい。教育を受けたことがない俺でも、この戦争は間違っていると理解している。でも、俺に与えられた選択肢は少ない。このまま虐殺を続けるか、勇者を止めるか。
もう、血に濡れたこの剣で平和を謳うなんて無理だ。俺にはその資格もないし、俺は一人だから。もしできるならば、誰か俺に道しるべを与えて欲しい……
「何が正しいかなんて誰もわからぬ。じゃが、正しくあろうとする志が大切であろう? それに、戦争が好きなやつはそんな顔をせぬ。罪悪感があるならば、そなたは自身の行為が間違っていると思っているゆえ」
認めざるを得なかった。
「……ああ、そうかもしれないさ。俺は戦争が嫌いだ。魔族を殺したくない。だが、どうして俺を選ぶ。俺は多くの魔族を殺してきた」
「いままで黒色だったとしても、これからも黒色だとは限らないじゃろ? とりもあえず、そなたを選んだのは人族であるからだの」
「……人族?」
「魔界には戦争を好む部族が多いゆえ、妾の考えは異端なのだ。そんな中で味方を探すよりかは、一番の敵である勇者を説得した方が効率的であろう? しかも、勇者を仲間にすれば、魔界の被害も抑えることができる。一石二鳥というやつじゃの」
打算的だ、と俺は思った。
ただ、魔王のような誰かを統べる人物は、打算的でなければいけないのだろう。
しかし、まだわからない。肝心なことを聞いていなかった。
「それでどうやって戦争を終わらせるつもりだ? 俺が戦わなくなったとしたら、新たな勇者が誕生するだけだ」
「そうじゃの、勇者とは誰が任命するのか? そして、誰がこの戦争を始めたのか? 両方とも整世教会であろう。ならば、整世教会で最も権力ある者に会い、終戦協定を結べばいいだけじゃ」
「教皇か」
「その通り。妾は戦争を終わらせたい。そなたは戦争を続けたくない。利害は一致するじゃろう? どれ、妾と同盟を結ばぬか?」
筋は通っている。そして、古めかしい喋りをする少女の提案は酷く魅力的だ。
俺は実際のところ魔族を殺したくはない。先程だって魔族の親子を殺めたが、俺の願いも世界平和なのだ。けれども、俺は戦う以外に能がなく、少女のような考えに至ったことはなかった。
これは一つの選択肢だ。ここで話に乗るか乗らないかで運命が極端に別れる。返り血で汚れた剣、かつてのような希望を写さないこの瞳でも、何か成し遂げられるのだろうか。
これが、今まで殺してきた彼らへの贖罪になるというのか……。
少女が手を俺へ差し出した。俺は――
「交渉成立じゃ」
剣を鞘へ直すと、しっかりとその手を握った。
もうこれまでのように俺が魔族を殺すことはない。心を束縛していた枷がなくなったかのような解放感に包まれた。
そんな俺の姿を見て少女が笑う。簡単に流されるような奴だとは思われたくない。こほんと咳ばらいをして、しっかり釘を差す。
「勘違いするな、お前を完全に信用したわけじゃない。怪しい真似をしたら躊躇なく斬るからな」
「そなたに妾が斬れるならばな」
ころころと笑う。
「それに俺はお前の手を取ってやるが、他の仲間がどう考えるかは保証できない。あいつらは俺よりも頑固で、魔族を殺すのに躊躇しないぞ」
「あの魔術師とカタナ使いのことであろう? では、その心配はないというもの。奴らはそなたほど戦争が嫌いではないようだから、先ほど出会い頭に拘束魔法で吊るしておいた。穏便な解決方法じゃの」
「…………」
押し黙る。俺ですら対応できなかったのだから、俺の仲間もこの魔王に負けたのだろう。
いまさらながらに、俺は怖くなってきた。もし少女の目的が本当に俺たちの討伐だったら、どうしようもなかった。少女の言葉が事実なら、少なくとも仲間は無事なのだろう。
ほっと心の中で息を吐いていると、少女は呟くように言った。
「では、世界平和への最初の一手をと」
少女はもう片方の手で小さな魔石のようなものを摘むと、握り合っていた俺たちの手に重ねた。
「妾には小さな一歩だが、世界にとっては偉大な飛躍となろう。転移、フロゥグディ」
「へ?」
その瞬間、重なり合った掌から緑色の光が溢れ出して俺達を包み込む。少女の言葉に俺の理解が追いつく前に、視界が光で埋め尽くされた。