19 強者ゆえの余裕4235
でかい。とにかく、でかい。
小龍が、なぜ小さい龍と呼ばれるのかよくわかる。小龍よりも二回り三回り大きい。遠目で見ても、対象に畏怖の念を抱かせるほどの威圧感。勝てる気持ちなど微塵も浮かばない。
かつて、たった一匹の炎龍が大国を滅ぼしたという伝説がある。世界には加護を持つ強者が何人もいるから、そんなはずはない、眉唾物だと思っていた。しかし、実際にそれを見た今は、当然だと考えてしまうほどだ。
ただ、炎龍はニードルベアと同様に、食物連鎖の頂点に位置するため、本来ならば非好戦的な性格であると伝わっている。同時に、寿命が長い反面、数年単位で眠って過ごしたり、冬眠が他の魔物に比べて遥かに長いという。あのような生物が存在していても、他の生態系が絶滅しないのは、そのような炎龍の性質に拠るところが大きかった。
だからこそ――なぜ炎龍がここに、という疑問はどうしても拭えない。
誰しもが呆気に取られている最中、響いたのはやはり甲高い警鐘だった。規則的に鳴らされるその音は、俺たちが正気へ返るのには十分だった。
イザラが顔を真っ青にしながら、聞いてくる。
「……エイジはどうする?」
「もちろん、前線へ出る。勝てることはないだろうが、追い返すぐらいなら俺でもできるだろう」
それに、と俺は宵闇の剣を鞘から少し引き出しながら言った。
「それに、この剣の試し切りには丁度いい」
「……洒落を言えるぐらいなら、大丈夫そうだな。俺はすまないが、工房で待たせてもらう。ほら、恐怖で鳥肌が凄い」
イザラは緊張をほぐすように、小さく笑った。
彼は工房で待つ、と言った。つまり、避難するつもりはないということだ。それは俺が炎龍を追い返すと信じているからだろう。言外の信頼が感じられて、少し嬉しく感じると同時に、覚悟を決めるのに丁度よかった。
「じゃあ、行ってくるよ」
そう踵を返して歩き始めた、その時。
いつかのように、エリアがくいくいと服の裾を引っ張ってきた。
「……妾も連れてゆけ」
その肩をクルーガが掴む。
「なりません、お嬢様!」
「……おじさま、絶対に帰ってくる。だから、行かしてくれぬかや?」
「ですが――」
掴むクルーガの手を、エリアは優しく両手で包んだ。
「……行かしてくれぬかや?」
そこで言外の目線による交渉が行われたに違いない。
エリアが心を込めて願うと、クルーガは「……わかりました」と渋々といった表情で納得した。俺としてはエリアを連れていくつもりなんてなかったのだが、俺の意思が絡むこともないまま、いつの間にかエリアも共に行く流れになっていた。不本意だが、エリアが行きたいと言うのだから仕方がない。
「エイジ殿。くれぐれもエリアお嬢さまを危険に曝すことないように」
クルーガは魔王エリアの騎士を名乗っているのに、彼自身は行かないのだろうか。そんな疑問が浮かんだが、俺を信頼している、という言外の表れなのだろう。
「もちろん、それじゃあ行くよ」
頷きを返すと、俺はエリアを抱え上げる。クルーガが文句を言おうとしてくるが、こちらの方が早いのだから今回ばかりは見逃してほしい。密着する部分から伝わってくるエリアの鼓動を考えないようにしながら、俺は詠唱する。
「風素召喚――」
いつものように風素を召喚し、その開放した推進力で連なる屋根へ跳躍した。迷路のような路地を攻略するよりも、屋根から屋根へ飛び移ったほうが遥かに早い。
あの時と違ってエリアはじたばたせず、素直に俺へ体重を預けてくれる。だから、前回よりも姿勢制御が楽だった。屋根から屋根へ飛び移りながら、俺は状況を確かめる。
眼下の路地は既に東の城門へ避難する人々で溢れかえっていて、目抜き通りともなれば、昼以上に粘度の高い液体となっている。俺はその避難民とは逆の方向、つまり炎龍がいる方向へ一直線に突っ走っていた。
僅か五分で俺は西の城門へ走破した。ニードルベア程度の魔物では絶対に破壊できない堅牢なその城門は、炎龍にとっては紙切れのようなものだ。俺はまたもや城壁を勢いのままに飛び越え、外に降り立った。
――そこは明るかった。
太陽は既に落ちている。つまり、辺り一面が火の海となっていたのだ。その中から聞こえるのは冒険者の阿鼻叫喚の声。たぶんだが、検問に並んでいた冒険者たちを襲ったのだろう。同様に、そこかしこに倒された馬車と佇んでいる商人もいる。全てが火に飲まれて、諦めるしかない商人の気持ちを考えると、なんともやるせない。
そんな地獄絵図の中心に陣取るのは、炎龍。一対の大きな翼を広げ、身を覆うその紅の鱗はアダマントよりも硬そうで、炎の合間から覗かれる眼光は鋭く、思わず怯んでしまいそうな威圧感。
これが、炎龍……。それ以外に言葉はない。
しかし、俺はその光景を見て、ある疑念が浮かび上がった。
多くの冒険者が倒れている。その冒険者たちを助けようと、他の冒険者が炎龍に襲い掛かるが、簡単にハエの如くあしらわれて倒れる。だが、よく見ると炎龍は冒険者を殺していないのだ。炎を吐くとしても、冒険者を焼き殺さない程度に。その爪で掻き吹き飛ばしても、即死したように見えない。それを表現するならば、炎龍は手加減しているような、まるで、じゃれ合っているだけにも見える。
俺がそんな感想を抱いていると、エリアが言葉を漏らした。
「あれは……幼体じゃな」
「幼体?」
「うぬ。あれはまだ生れ落ちて十年も経っていない幼体と見受けられる。本物はあれの何倍も大きく強い……はずじゃ」
「つまり、どういうことだ?」
「見た通り、ただじゃれ合っているつもりなのじゃろうよ。それとも、何か目的があって暴れておる……のか?」
よくわからないが、どちらにせよ戦うならば有利な状況だった。
炎龍はかつて大国を滅ぼしたと伝わるが、あれは成体ではなく、生まれたばかりの幼体という。ならば、大国を滅ぼすほどの能力はまだないだろうし、俺にも勝機はあるはずだ。しかも、あの炎龍は手加減している。その隙に付け込んで短期決戦を仕掛けたら、追い返すこともできそうだ。
「だがなあ……」
問題は、まだ炎龍が俺たちを認識していないこの距離にしても、その存在感は圧倒的で、足は竦み、肌は粟立つことだ。つまりは、恐怖心が首をもたげるのだ。
よくもまあ、あの適当にあしらわれている冒険者たちは、炎龍に挑もうと考えたものだと思う。とはいえ、街には俺を信じて待つイザラもいるのだし、隣には守るべきエリアもいるのだし、逃げることはできない。覚悟を固めると共に、エリアへ頼む。
「エリア、援護を頼む」
「――全開放」
俺が駆け出すと同時に飛んでくる、エリアの加速魔法と増強魔法。俺は静かに剣を抜くと、一矢のように炎龍へ直進する。足でしっかりと踏み込むごとに、速度がみるみると乗っていく。
五十メル……三十メル、十五メル。
炎龍の視界へ入ると共に発動したのは、最も愛用する勇者専用剣技――
「スターダスト・スパイクッッ!」
ズドンッ、という衝撃波を残し、加速した剣尖が赤い腹に直撃する、が。
「――硬っ!」
最高峰の威力は、しかし、分厚い鱗に阻まれた。威力は全て反射し、俺の掌が痺れただけだ。アダマントを加工する時よりも遥かに硬い。とくに、鱗が僅かに湾曲しているせいで、威力が伝わらずに受け流されているのだ。だが、アダマントの加工と同様に、攻撃し続ければ突破口が開けるはずである。
予想されていた衝撃であるからこそ、流れるように剣を肩へ構えることができた。炎を纏い加速する。
「せやっ」
続けざまに放ったのは、古代流派剣術の噴炎。真上から振り下ろした剣が下方へ抜け、地面に直撃するかと思われた瞬間、跳ね返るように赤い燐光を纏った剣は、空へと駆け上がる。マグマのように吹き上がる威力の奔流は、確かに鱗を突き抜けて本体まで伝わった、気がする。
「……行けるぞ!」
そう俺が口走った瞬間だった。
「グオルルルル……」
憤怒の形相を浮かべた炎龍は、俺へぎょろりと眼を向けた。その太陽のように大きい瞳が映すのは俺の姿。
意に反して俺は足を竦ませてしまったのに対して、炎龍がゆっくりと翼を動かす。その何気のない動作で形成された風の塊が、眼前に迫る。剣を掲げて防ごうとするも、ただの風だから剣で防げるわけがない。すぐに風に身を包まれ、俺は足場を失い、後方へ凄まじい勢いで吹き飛ばされる。
「――くっ!」
暴風の中で瞼を開けるなんてできない。でも、開けなければ受け身もできずに地面へ激突するだけだ。俺は薄眼で周囲の状況を確認する。ぐるぐると上下左右に荒ぶる視界。その中で何とか地面を識別し、屈伸する要領で足から着地し、その衝撃を和らげる。
そして着地するなり、俺は剣を構えなおした。
炎龍はその翼だけではなく風素の助力も使って、空を飛ぶという。ならば、その風素で攻撃することもあるのだろう。その暴風は初見だと対応が難しい。だが、一度こうして見た攻撃手段であるから、次は完璧な対応ができるはずだ。
しかし、俺のそのような考えは、すぐに否定された。
俺が見たのは、翼を広げて悠々と滞空する炎龍。
攻撃するためではなかった。ただ、羽ばたいただけだったのだ。
思わず歯噛みする。やつは地上から数メル以上も離れている。風素による跳躍を使えば、剣技がぎりぎり届く距離だとしても、地面がないから威力は乗らない。まず最初に、その巨体を地面へ叩き落すことから始めなければいけない。
「さて、どうするか……」
圧倒的不利な状況に追い込まれたのは、誰に教えてもらうわけでもなくとも自明のことだった。




