第二章 松東院の陰謀 二
大阪夏の陣の後にも豊臣秀頼は生き延び、薩摩の島津氏を頼って九州へ逃れているという風説は、かなり早い段階から、平戸のイギリス人商館長の耳にも届くほどにも流布していたらしい。
さて、その永い偃武の始まりである改元から六日ばかり過ぎた頃である。
パリッとした藍色の帷子姿の背の高い若い男が、濃紫の縮緬の風呂敷包みを抱えて、平戸港の北の大久保の馬場へと続く石畳の坂を上っていた。
艶やかな黒髪を小さな髷に結った怜悧な顔立ちの男だ。
こちらも大きな風呂敷包みを抱えた小娘の二人連れが足を止めてふり返り、通り過ぎ様、背を見送りながらヒソヒソと囁きかわす。
「なあなあ於亀、今んエゲレス屋敷ん若通詞どんか?」
「そうや小千代。三浦ん按針様んご郎党や」
「よか男ぶりやなあ。役者んごたーな。御名はパウロやったか?」
ミゲルである。
今日も按針様はいないので私用がてら会社の仕事でもしようかと思い立って、お得意先の松東院へと勘定書を届けに行くところだ。
坂路の左の木立の向こうに遠く見えるのは御館の東の壁だ。元和の偃武が始まったのに、徳川陣営に参陣したきり未だに帰還を許されない「「この地域すべての殿たち(トノス)」の一人である平戸藩主、松浦肥前守隆信の居館である。右手には石垣が続いているが、じきに上半分を白く塗った屋根付きの壁が現れる。
松東院の西壁だ。
藩主肥前守の母であり、メンシアという洗礼名で広く知られる貴女の居館である。
平戸では御館に次いで格式の高い館だが、按針様の通詞様は此処でも顔が利く。
じきに現れた門を潜るとすぐに離れへと取次がれた。
中庭の池から微風の吹きこむ板の間に通されるなり、唇にたっぷり紅を塗った若い腰元が西瓜を運んでくる。ミゲルは果物と引き換えに勘定書を託した。
西瓜の一切れを食べ終え、皮をどうしたものかと頭を悩ませていたとき、しずしずと足を擦るようにして白髪の老女が現れた。灰色がかった薄紫の帷子姿の痩身で品の良い老女だ。薄紙に包んだ丁銀を乗せた折敷を両手で掲げ持っている。ミゲルは慌てて皮を庭へと放り投げた。
「これはアガサ様、お久しゅう」
「うむ」
松東院の女たちは身分が高いほど洗礼名を名のる傾向がある。老女は重々しく頷くと、ミゲルの前に両手で折敷を差し出した。
「通詞殿、此方を収めよ。そしてよく聞くのだ。主殿様の借財は当方では払わぬ。御館に掛け合うように」
「アガサ様、御館にはすでに参った。肥前様のご参陣がことのほか長引く上、このたび豊後様までご上洛なさって掛かりがかさんでいる故、主殿様の借財については御富裕な松東院様に掛け合えと」
「何処の戯けが然様なことを」
「勘定方の宗右衛門様の仰せで」
「宗右衛門やと? あン若造の世迷言ば真に受くるで無か!」老女が御国訛りでクワッとばかりに吼えた。
「松東院様は御館の思うほど御富裕ではなか。御料も春日と根獅子と飯良だけや」
「三つもありなさる」
「みんな貧しい漁村や。年貢もようとれぬ。何と言われようが無い袖は振れぬ。他を当たりなされ」
「他の何処を?」
「そうさの――」老女が顎に手を当てて考え込んでから、不意にポン、と掌を打ち合わせた。「豊後様の御屋敷などどうか? 御料の壱岐はこのごろ長崎に麦焼酎ば卸して潤っていると聞く」
「憚りながらアガサ様、主殿様には大叔父にすぎぬ豊後守様が、御母君さえお払いにならぬ借財を払うどのような道理が?」
「なに、先立つものさえあるならば道理はいかようにも立つ。何か考えなされ」
「相判り申した」
ミゲルは諦めて風呂敷包みを解いた。中から更に二つの包が出てくる。
片方は大きな白い木綿の包み。
もう片方は小さな更紗の包だ。目の覚めるように鮮やかな黄の地に青や朱で花鳥の紋様を散らしている。
老女の目が更紗を射抜くように見ている。ミゲルは気にせず大きいほうの包を差し出した。
「アガサ様、こちらは商館長から、琉球渡りの芋でござります」
「芋やと?」
「琉球渡りの珍奇の品で、我が主君按針様が身命を賭して舶来させたもの、何卒お納めくだされ」
「――然様か! 按針様がのう」
ミゲルの主君の神通力は此処でも健在だった。老女が甘藷の包を恭しくいただく。ミゲルはそのタイミングで訊ねた。
「アガサ様、熊川様に御目通り叶うか?」
途端、老女が眉の剃り跡の間に皺をよせた。「マグダレナならいつでもおる。たまさか南の御寺を詣でる他は寄る辺ない身の上やけん。あれに何か用か?」
「なに、ちと預かり物を」
老女はミゲルが背後に置いた小さいほうの風呂敷包に剣呑な視線を向けた。
「通詞どの、あれの遊びの掛かりも此方では一切払わぬぞ。法印様に残された銀子をどれだけ抱えているか知れぬが、あまり言うままに物を渡さぬほうがよいぞ」