第二章 松東院の陰謀 一
イートンは平戸へ帰り着くとすぐ、従僕の若い日本人のトメだけを連れて長崎へ発つことにした。落城寸前の大阪から送っておいた在庫と売り上げの一部を回収するためである。
便乗させて貰うのは、平戸の「中国人頭領」として名高い福建人たちの頭目、李旦ことアンドレア・ディティス所有の優美な小型ジャンクである。船が瀬戸を経て二日後に長崎に着いた午後、湾には大きなキャラック船が、まるで港の王者みたいに堂々と投錨していた。
キャラック型とは三本マストで、船尾側にだけ甲板に垂直に三角帆を張った大型の帆船である。ポルトガル人たちはこの型をナウと呼ぶ。長さに対して幅が広くずんぐりとした形をしているため、スマートなガレオン型に比べると機動性には劣るものの、安定感は抜群で、積める荷も多ければ搭載できる砲の数も多い。長崎湾のキャラックは三本のマストの頂すべてに、赤地に金でアストロラーベと楯を配した旗を翻していた。ポルトガル海上帝国の〈インド領〉、エスタード・ダ・インディアの旗である。
これこそが澳門の船団司令官の定航船だった。公的には今も海禁政策を続けている明朝の生糸を独占的に仕入れ、こちらも買取りを独占している長崎港へと運んでくる船だ。
古なじみの大型船を迎えたばかりの港は喧騒と活気に満ちていた。海面からそそり立つようなキャラックの黒い舷側に沿ってひっきりなしに吊り下げ機が上下して、下に群がる艀へと櫃を釣り降ろしている。艀が僚船の狭間をぬって大波止へと向かうと、人足たちが一斉に群がり、櫃を担いで、右手から始まる石段を登っていく。上にそびえる堂宇の頂に十字架はなく、代わりのように、門の左右に駿河の「皇帝」の紋章である三つ葉葵を染抜いた濃い藍色の幔幕が絞られていた。
それを見れば誰にでも一目で分かっただろう。
イエズス会に育てられた去年までの司教座都市は、今や名実ともに駿河の幕の府の内に入ったのだ。
支配者が何に代わろうと、長崎港の繁栄に今のところ衰えの兆しは見えなかった。生糸こそが国際港湾都市長崎を育んだ乳と血であり、この乳白色の血液が国際商品としての価値を保つ限り、長崎と澳門は人為的に生みだされた異形の双子のように互いを栄えさせるのだ。
大波止へ降りたイートンは、まずは馴染みの小売商の営む酒場へ向かい、コックスから託されたザボンの砂糖漬けの碧い絹のストッキングの注文書に加えて、ダミアン・マリンとフアン・デ・リエヴァノという長崎在住の二人の船乗り宛ての手紙を託した。二人とも操船技術のある高級船員で、十一月に発つ予定のシー・アドヴェンチャー号に乗り組まないかと契約を打診されているのだ。
酒場は澳門人塗れだった。感心できない身形からして大半が無断上陸の水夫だろう。純朴な若い混血の平戸人のトメと、一見大層純朴なケント地方人みたいに見えるイートンの組み合わせは、隅っこで蕪と牛肉のシチューを食べているだけで絡まれた。イートンは早々に食事を切り上げ、大阪時代からの取引相手である島原町の天野屋へ向かった。
交趾〔*南ベトナム〕との取引を専らにしている天野屋の屋敷は、滔々と碧い水を湛えた運河に面している。水面を重たげな麻袋を満載した艀が行き来していた。澳門からの砂糖のようだ。
『エスクリヴォ! 無事に戻って何よりだ』
船乗り上がりらしくよく陽に焼けて屈強な体躯の天野屋の主人は、荷揚げの監督を切り上げて歓迎してくれた。
『大阪からの荷は皆無事届いている。待っていろ。いま倉庫から運ばせよう』
『有難う天野屋殿』
天野屋は屋敷内に小さな茶室を設けている。
薄暗く狭い室内で濃い緑の茶を啜るうちに櫃が運ばれてきた。
角に金属を被せた白木の櫃を開けると、中身が大分かき回されているようだった。
まさか漁ったのか?
不審さが顔に出たのか、天野屋が慌てて云った。
『この頃大御所様が煙草を禁じたのを知っているか?』
『ああ』
『ここしばらく、煙草の持ち込みについての取り締まりがとても厳しくてな。あらゆる船荷が奉行所で一度開けられて煙草を捜されたのだ』
『なるほど』
イートンが頷くと天野屋は安堵の表情を浮かべ、そのあとで、ふと声を潜めて付け加えた。
『実は、奇妙な噂がある』
『何です?』
『取り調べは大阪からの荷についてだけが極めて厳しかったのだと』
『大阪から、ですか? 煙草はむしろ長崎から大阪へ流れるものでしょうに」
『ああ。だから噂があるのだ』
天野屋が膝を乗りだし、好奇と怯えの入り混じった声音で云った。
『大御所様は何かを捜している。大阪から失われた何かを。そういう噂だ』
一瞬の沈黙のあとで天野屋がごくりと息を飲み、さらに膝を詰めながら訊ねてきた。
『エスクリヴォ、貴方は落城の寸前まで大阪にいたのだろう? 何か知らないのか? 何かを聞いていないか? 大御所様は間違いなく躍起になって何かを捜している。それほど捜すからには、価値ある何かに違いあるまい』
『天野屋殿、魅力的なお話ですが――』イートンはいかにも困惑したような表情を取り繕って答えた。『残念ながら、私は何も知りませんよ。大阪にはイエズス会やドミニコ会の神父様方がかなりいらっしゃいましたからね。もしかしたら彼らが託されているのかもしれません』
『ああ! すると宝物は澳門へ――?』
天野屋が顎に手を当てて考え込む。
イートンは胸を撫でおろした。
さすがに日本の「皇帝」の物捜しは大規模である。
こちらの荷に例の品を入れておかなかったのは大正解だった。
天野屋以外の商家でも、大阪からの荷は、禁制の煙草を捜すという名目で、極めて厳しく調べられていたようだった。しかし、有難いことに、中身が横領されていることはついぞなかった。イートンは意気揚々とまた平戸へ帰った。
直後に改元があった。
慶長二十年七月十三日から、元号が元和元年に改められたのだ。
大阪の落城を経てついに訪れた元和偃武――
その後二世紀半に渡って続く、永く物憂く賢明な徳川の平和の始まりである。
とはいえ、始まりの時点で、この偃武がそれほど永く続くと考えていた者は殆ど無かっただろう。大阪落城の直後、ユリウス暦七月七日付の日記に、商館長リチャード・コックスは次のように記している。
皇帝が薩摩の王及びこの地域〔*訳注:おそらく九州を指す〕のすべての殿たち(トノス)を留まらせて、その所領〔もしくは王国〕から北部の別の領土に移し、北部の殿たちを彼らの場所へ移そうとしているという報せが届いた。しかし、私はむしろ(ある程度は)、それは秀頼様の逃亡の為だと考えている。秀頼様はこれらの土地の何処かに潜んで、好機と殿たちの帰還を待受けているかもしれない。そのために皇帝は、秀頼様が生きているのか死んでいるのか確実な事実を理解できるまで、殿たちを近くに留めているのだ。