第一章 エスクリヴォの帰還 四
果樹園を抜けて川岸へ出ると砲台の左に木材が積み上がっていた。量はそれほど多くない。イートンの視線に気づいたのか、コックスが言い訳するように呟いた。
「五月にキャプテン・アダムス率いるシー・アドヴェンチャー号が大破して帰ってきちまってね。川内に大量の船材を送っちまったんだよ」
「では、早めに補充をしたほうがいいですね。南東モンスーンのシーズンはまだしばらく続くんですから、来航船があったとき修理用の船材がありませんじゃすみませんよ?」
「そうだね。勿論そうだ。早いところどうにかしておくよ」
コックスが叱られた子供のような声音で応える。こういうところがどうにも心許ないのだとイートンは内心で苛立った。
ボート乗り場を左手にして母屋の南側へ出ると、ピンク色の花を咲かせる躑躅の植え込みの傍で、ボーイ・ジョアンが矮鶏の群れに餌を撒いているのが見えた。傍にもう一人、ほっそりとした娘がいる。
商館のお仕着せよりも淡い藍色の帷子姿で、艶やかな黒髪をひとつに束ねた、まだごく若そうな娘だ。短めの裾からすんなりとした裸の脹脛が覗いている。手に黒く平たい小箱を持っているようだ。ジョアンとは親しい間柄なのか、話しながら時折声を立てて笑う。その明るく澄んだ笑いにイートンは心惹かれた。
「見慣れない娘がいますね。マティンガ付きの新しい小間使いですか?」
「いや、あれは違うよ」
コックスが好色と興味の入り混じった視線を向けると、気づいたのかジョアンが顔を向けた。途端に狼狽えた声をあげる。
――姉しゃま、商館長ばい! エスクリヴォもおる!
娘も視線を向けるなり目を見開き、跳ね上がるように背筋を正して跪いた。コックスが笑いながら歩みよる。
『立ちなさい。気にするな。ジョアン、お前の姉妹かい?』
『はい商館長。姉妹、松東院。仕える。松東院様、手紙ある』
ボーイのたどたどしいポルトガル語に、イギリス人には聞き取れない単語が幾つか混じっていた。おそらくは固有名詞だろう。
娘が立ち上がり、頭を低くしたまま小箱を差し出してくる。娘の髪と同じほど艶やかに輝く漆塗りの箱である。金と赤とを織り交ぜた平たい紐がかかり、下半分に虹色の螺鈿で丸のなかに五弁花を収めた紋章が嵌められている。
「おや、ドナ・メンシアのお使いか」コックスが紋を見とめて眉をあげ、紐をほどいて蓋を開けると、中を見て眉をあげた。
「日本語の手紙か! これは私にはお手上げだ。ゴレザノに読めるといいんだが」
「ミゲルはいないのですか?」
「彼は朝一番の潮とともに川内へ発ってしまったよ。奴がおめおめと帰ってきたらこの手で絞め殺してやるとゴレザノが息巻いている。商館長様への御無礼への当然の報いだそうだ」
「一方の通訳は忠誠心が皆無で、一方は過剰過ぎる! 日本には中道をいく普通の通訳はいないのですかね?」
「ミゲルの忠誠心は最後の一滴まで全知全能たる彼の主人に捧げられちまっているのさ。我らのキャプテン・アダムスにね」
コックスは肩を竦めてから、手紙を箱に戻してボーイに渡した。
『ジョアン、手紙。ゴレザノ、渡す。分かるか?』
『はい商館長! 手紙ゴレザノ渡す!』
上手く聞き取れたのがよほど嬉しかったのか、少年が歯切れよく返事をし、娘に向けて得意そうな笑顔を向けた。
――姉しゃま、こン通り増吉も御文使いや。手紙ば通詞どんに届けてくる。
――増吉は南蛮語が達者になったのう! はや商館長に御目通りとは姉しゃまも鼻が高か。達者でようお仕えするっさ。
――姉しゃまもな!
娘はジョアンが母屋へ引っ込むのを見届けてから、ひょこんと頭を下げるなり門の外へと駆けだしていった。
「可愛い娘でしたね。アネシャムというのか」
「おいおいミスター・イートン、君は大阪で色々と愉快に暮らしていたらしいが、あれは船乗り相手の娼婦みたいに扱っていい相手じゃないぞ? ドナ・メンシアのところの召使となったら、一番下の女中でもそれなりの素性の娘だ」
「御心配なさらずとも、子供には興味はありませんよ。ドナ・メンシアというのは、平戸の王の肥前様の御母君でしたっけ?」
「ああ。王の館の東にお住いの貴婦人さ」
「我らがゴディヴァ夫人のごとく熱心なカトリック信仰で有名な貴婦人でしたよね。皇帝の禁制から二年経った今でも相変わらず信仰を?」
「ああ。ときどき注文してくるワインとパンは、ありゃたぶん聖餐のためだよ。聖母子像が欲しいとしつっこく訊かれているんだが、万が一ばれると厄介だしなあ」
「いっそあれ売っちまったらどうです? 倉庫にずっと眠っている全裸のヴィーナスとクピト像」
「冗談じゃない。貴婦人にあんな猥雑な画を売りつけたなんて知れたら、イギリス人全般の品性を疑われちまうよ」
話しながら歩くうちに倉庫の前に着いていた。黒い鉄の鋲を三つずつ打った両開きの扉の真中に重たげな錠が掛かっている。コックスが巾着から鍵を取りだして開けると、ギイと軋んだ音と共に、豊かな白い陽光が屋内へと流れ込んでいった。
「ミスター・イートン、閂を降ろしてくれ」
扉を閉めて閂を降ろすと屋内が薄暗くなった。右手の小さな格子窓から射す細い陽の斑が胡椒の袋の上に落ちる。イートンは不安になった。
「私に見せたい品とは?」
「君の拾い物さ。あれ、鉛だろ? 重さを図って買い取っちまいたい。例の袋は何処だろう?」
コックスが軽い口調で云いながら屋内を見回す。
その顔は一見笑っているようだが、目には鋭い光があった。
抜け目のない老獪な商人の目だ。
イートンは観念した。
「キャプテン・コックス、率直に仰ってください。何にお気づきなのですか?」
「何って、見たままのことにさ」
商館長はひょうひょうと答えた。
「君は夕べ随分人目を忍んで帰ってきた。私有財産が入っているはずの大事な衣装櫃を運び上げるよりも先に、自分の手でおかしな拾い物の袋を倉庫に入れた。その後であからさまに安心してぐっすり眠っちまった。手掛かりはこれで充分だろ? 白状しなさいウィリアム・イートン。君は大阪から何を持ち帰ってきたんだい?」
「――さすがに商館長ですねえ!」
「そうとも商館長だよ。今まで何だと思っていたのさ」
「お察しの通り、私は大阪からある物を預かってきました。包囲戦が始まる寸前に、秀頼様に仕える老貴族から預けられました」
「何を?」
「皇帝の宝物を」
「皇帝とは――」
「大御所様のことじゃありません。秀頼様の亡き父親、日本の先代の皇帝の太閤様が残した宝物です。大御所様はこの品を喉から手が出るほど欲しがっている。しかしね、大阪人は大御所様にだけは渡したくなかったのです。それくらいなら海に放り込んじまいたかったらしい」
「それはそうだろうね! 大御所様は太閤様の死後に幼い秀頼様の面倒を見るよう託されていたのに、結局自分が帝位に就いちまったんだから、大阪人からすれば簒奪者だ。しかし、そんな代物をよくイギリス人に預けてくれたね。我々のキャプテン・アダムスはまさにその大御所様の寵臣なのに」
「だからこそでしょう。我々イギリス人が大御所様からの特別な愛顧によって日本で特権を得ていることが周知されている以上、その大御所様と敵対していた秀頼様の宝物がEIC商館の倉庫に放り込まれていようとは誰も思わないでしょうから。地上で最もありそうにない場所です」
「つまり、その宝物にとっては地上で最も安全な場所って訳だ」
「その通り」
「よくぞ思いつき、そしてよくぞまあ実行したね、その老貴族は」
「真田様は大阪のユリシーズでした。秀頼様が薩摩に逃れているという噂を広めていたのも彼です」
「そっちは噂なんだね?」
「そっちは噂です。宝物の目晦ましですよ」
「錆びちまわないかい? こんなジメジメした低地だと」
「大丈夫です。錆びない素材です」
「かびるかい?」
「かびません」
「割れるかい?」
「割れません」
「熔けるかい?」
「熔かそうと思えば」
「重さは?」
「十六ポンドくらい」
「何なんだい一体?」
「そこは秘密です」
イートンはあっさり応え、ロフトへ登る階段の下に押し込んでおいた布袋に目をやった。大小様々な球状の物体が一杯に詰まった薄汚い帆布の袋である。括りつけた木札に乱雑な字で「鉛・最下等」と走り書きされている。コックスが眉をあげて訊ねた。
「あの中に皇帝の宝物が?」
「ええ」
イートンは頷いた。
「あの中に一つだけね」
「君はその品を何のために預かってきたんだ? 君自身の動機じゃなく、君に預けた老貴族の目的だ。落城間際の城砦都市から先代皇帝の宝物を外国商人に持ち出させて、その後一体どうしたいというんだ?」
「それも秘密です。しかし、ひとつだけお約束しますよ。あの宝物を然るべきときまで保管しておけば、必ずや誉れある会社とイギリス国王の利益に繋がります。最大であれ最小であれね」
「聖書にかけて誓えるかい?」
「誓います。ですからキャプテン・コックス、大阪を預かっていた商人としてお願いします。太閤様の宝物を、然るべきときまで保管していただきたい」
イートンは日本風に深々と頭を下げた。コックスは黙ってじっとその姿を眺めていたが、ややあって頷いた。
「引き受けようミスター・イートン。君が軽々しく誓いの言葉を口にする人間ではないことは、私もよく知っている。しかし、保管代として一つだけ訊かせてくれ」
「何でしょう?」
「その宝物は大なり小なり我々を利すると言ったね?」
「ええ」
「なら、その品が最も我々を利するときはいつだ? 実はやはり秀頼様が生きていて、彼が駿河の皇帝との雪辱戦に勝利するときか?」
「旦那、質問が二つですよ」
イートンが肩を竦めた。
「どうもなんだか殆どすべて分かられちまっている気がするなあ。なら一つだけお教えします。南じゃありません。北です」
「北?」
「兆しは北から起こるはずです。もしもそのときが来るのならね」
「――念のためだがミスター・イートン、薩摩が平戸の南であることは、勿論弁えているよね?」
「勿論ですともキャプテン・コックス。平戸どころか全日本の最南端ですよ。それより南は琉球です。――そういえば、キャプテン・アダムスが琉球から珍しい芋を持ち帰ってきたそうですね? あれは果樹園で栽培しているんですか?」
「君ね、芋は果樹じゃないよ」
コックスが呆れた声で応じた。「芋は畑で育てるんだよ。――さて、君はどうあっても口を滑らせてくれないようだし、薄暗がりでの陰謀はそろそろ切り上げなけりゃ。気を付けていないと何処かの暗がりでミゲルがゴレザノに絞め殺されちまうよ」
コックスが手ずから閂を外して扉を引くと、眩く白い光の帯が屋内に流れ込んできた。コックスが右腕を目の上にかざして空を仰ぐ。
「ああ、いい天気だ。そういえばウィル、改めてもう一度言っておくよ」
「何でしょう?」
「君が無事でよかった」
「有難うございます」
イートンは光から目を逸らしながら応えた。
やたらと目の奥がジクジクするのはきっと眩しいせいだ。
そう思うことにした。
そのとき、視界の右端を緑色の何かが過ぎった。
鳥だ。
目に鮮やかなエメラルド色の鳥が川のほうから羽ばたいてくる。
「おや、あれは――」
コックスも気づいて見あげる。
「主殿様の鸚鵡じゃないか?」