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太閤の黄金  作者: 真魚
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第一章 エスクリヴォの帰還 三

 倉庫の扉に錠が掛けられたのを見届けてから母屋へ上がると、戸口の右手の畳の間にすでに衣装櫃が運びこまれていた。


 ややあって召使頭(バトラー)与助(ヨスキー)が食物を運んでくる。真鍮のジョッキの中身は麦焼酎だ。薄切りのパンの上にマーマレードの塊が乗っている。コックスがわざわざ長崎から取り寄せている品だ。商館を訪問する貴人にしか出さないとっときの砂糖製品は、たぶん帰還の祝いなのだろう。

 有難く押し頂き、舌の蕩けるような甘みを堪能していると、与助が何だかよく分からない料理の鉢を運んできた。

 角切りにされた黄色っぽい何かが牛肉の塩漬けと一緒に煮付けられているようだ。質感は見たところねっとりとしている。イートンはうさん臭く摘まみ上げた。

『何だいこれは? 新種のバナナかい?』

(ポテト)だ。按針様が琉球(リキア)から運んできた。とても珍しい芋だ』

『へえ琉球の芋か――芋なのに甘いのか。やっぱりバナナみたいだな』

『旨いか?』

『不味くはないね。もう少し塩味が濃い方がいいかな』


 要するにそれは甘藷(さつまいも)だった。一六一四年に暹羅(シャム)へ向かおうとしたEIC平戸商館所有の大型ジャンクが難破して琉球に流れ着いた挙句に持ち帰ってきた数少ない成果である。疲れ果てたウィル・イートンはその希少な芋の煮つけをさほどの感慨もなく平らげ、壱岐の麦焼酎の水割りを半パイントばかりも飲み干してから、日本風にじかに畳の上に敷いた寝床へと倒れ込んで眠った。白い清潔な敷布から薄荷の香りがした。



 そのまま翌日の真昼近くまで眠り続けたイートンが目を醒まして初めに見たのは、光を透かす障子の向こうに浮き上がる小さな影だった。両手に水盤のようなものを持ってじっと立ち続けている。イートンはわずかに痛む額を押さえて起き上がりながらポルトガル語で告げた。


『起きているよ。入りなさい』


 途端、影が水盤を足許に降ろして障子を開けた。

溢れんばかりの光と共に入ってきたのは見覚えのない少年だった。

 お仕着せの濃い藍色の帷子を着けて揃いの帯を締めているところを見ると、知らない間に雇われていた新しい使用人だろう。年頃はせいぜい十一、二に見えるが、腰帯には一角の大人のように脇差を吊るしている。古びているが上等の黒漆塗りの品だ。柄に色褪せた赤い紐が巻いてある。どうやらそう悪くない生まれの子供らしい。

 少年が運んできたのは縁まで水を充たした真鍮の洗面器だった。白い麻布が底に浸してある。イートンは受け取って慎重に床へと降ろすと、魚臭い帷子を脱いで濡れた布で上半身を拭った。その間も少年は直立不動で控えていた。陽に焼けた顏のなかで黒い目ばかりがキラキラと光っている。

『君は新しいボーイかい?』

 ポルトガル語に一つだけ英語を混ぜて訊ねると少年がびくりと肩を強張らせ、小刻みにコクコクと頷いてみせた。イートンは苦笑した。

『怖がらなくていい。私はエスクリヴォだ。君の名前は何だ?』

『ジョアン』

『ジョアンか。ジョアンは他にもいたな。生まれは?』


 ――春日(かすが)


『ハシュグ?』

 問い返すと少年が首を横に振った。イートンは諦めて訊ね直した。

『ジョアンは洗礼名だろう。他の名前はないのか?』


 ――増吉(ますきち)


『ムシュクチュ?』

 また問い返すと少年が諦めたように頷いた。イートンは思わず笑った。

『そんな顔をしないでくれ! 君たちだってウィリアムは発音できないだろ? いいや、とりあえず君はボーイ・ジョアンだ。ボーイ・ジョアン。君のことだ。分かるか』

 少年が頷いて復唱した。

『ボーイ・ジョアン』

『そうだ。ではボーイ・ジョアン。仕事を頼む。私に飲み水を持ってきてくれ』

『はいエスクリヴォ!』

 少年は元気よく返事をし、入口でぴょこりと頭を下げるなり駆け出していった。


 ややあって水を運んできたのは召使頭の与助(ヨスキー)だった。米を煮た粥に昨日の煮つけの残りを添えた鉢も運んでくる。煮つけは昨日より塩味が濃かった。

『旨いか?』

『旨い』

 答えると初老の召使頭が目尻に皺をよせて笑った。

 イートンが食事を終えるのを待って召使頭が言った。

『エスクリヴォ、商館長(カピタン)が果樹園で呼んでいる』

『果樹園? そんなものがあるのか?』

『北の庭だ。木が沢山ある』

 母屋の北へ出てみると、確かに木が沢山あった。

 二年前までは単なる土の庭だったところに様々な果樹が植えられている。イートンには無花果とマルメロしか分からなかった。

 コックスは尻の上で掌を組んでその果樹園を眺めていた。

 今日は袖にたっぷりと襞をとった白バフタのシャツに金糸で刺繍を施した黒い袖なしを重ね、リボン飾りのついたバーガンディ色の半ズボン(ブリーチズ)に青い絹のストッキングを合わせている。右手の薬指に嵌まるのは、銀の台に赤瑪瑙を嵌めた重厚な印章指輪だ。まるで自らの地所を眺める大地主みたいな姿だ。

 イートンはしばらくその背を睨みつけていたが、じきに笑顔を拵えて呼んだ。


「旦那、お待たせしました」

「何、かまわないよ。よく休めたかい?」

「ええ幸いに。マーマレードを有難うございます」

 礼を述べるとコックスは満足そうに頷いたが、継のあたった白いシャツに古びた黒羅紗のブリーチズを履いただけのイートンの姿に気づくと眉を顰めた。

「君、ストッキングはどうした?」

「大阪で燃えちまったんですよ」

「すぐに新しいのを手に入れなさい。ミスター・ウィッカムみたいに年俸のわりに華美すぎるのもどうかと思うが、あまり粗末な形をされると我々イギリス商人みんなの名誉に関わる。君はもう一介の名も無き船乗りじゃなく、誉れある会社に属する正式の交易商人(マーチャント)なんだからね」

「ええ商館長、今後は気を付けます」

 イートンは心中に燻ぶる苛立ちを押し隠して答えた。


 一介の名も無き船乗り!


 二年前、人手不足の商館で特別に商人に抜擢される前のイートンが手にしていた外洋船の事務長(パーサー)の助手という役職(オフィス)が、本当に名も無き生まれの貧民にとってどれだけの努力の結果だったか、この大地主気取りの肥えた商人には、きっと世界の終末まで理解できないのだろう。

「ところで、君はもう充分に休めたんだね?」

「充分すぎるほどに」

「ならちょっと倉庫まで付き合ってくれよ。見て貰いたい品があるんだ」

 コックスが言い置いて歩き出した。イートンも慌てて続いた。


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