第一章 エスクリヴォの帰還 二
「何だよ、声で分からなかったのかい?」
エスクリヴォが編み傘を外すと、炬火の焔に照らされて若いヨーロッパ人の顔が現れた。
年頃は二十二、三といたところか、艶のない栗毛と陽に焼けた幅広の顔。鼻梁が太く短めで口は大きめだ。一見素朴な田舎の若者風だが、ギラギラと輝く薄青の目が独特の獰猛さを感じさせる。油断のならない、敏捷そうな、獲物でいっぱいの草原を駆ける活き活きとした若い肉食獣のような顔だ。
エスクリヴォは――平戸のEIC商館に所属する商人のウィリアム・イートンは、その顔を如何にも不本意そうに顰めてみせた。「何だいビル、友だちがいのないやつだな! イギリスから二年の船旅を共にしてきた仲だっていうのに、たった一年半の留守の間に俺のことなんか忘れちまったのか?」
――同国人と話しているときのイートンはいかにも純朴で誠実でのんびりとしてさえ見える。生来ぎらつく野心を、長年培った人好きのする好青年の仮面の下に丁寧にしまい込んでる。
「何を言うんだよウィル、そんなはずないだろ! 俺が君の心配をしないだって? とんでもない言いがかりだよ!」
ネルソンは憤った。こちらは全く内も外ものんびりした怠惰な若者だ。ネルソンは生来怠け者だが、友情には篤かった。イートンの物言いに真剣に憤慨しながら、友達の無事を喜んで涙ぐみながら笑っている。
「大阪が燃えて君の行方も知れないって報せが届いてから、俺もキャプテン・コックスも心配し通しだったんだ! あんまり心配してうちで一番の通訳まで捜しに出しちまったほどだ! 待っていろ、すぐに商館長を呼んでくるから! きっと大喜びするよ!」
ネルソンは何故かマスケット銃をイートンに投げ渡し、拳で目元を拭いながら母屋へと駆け去っていった。炬火を手にした日本人も追いかけていってしまったため、川岸はまた闇に戻った。イートンは苦笑して話しかけた。
「おい、うちで一番の通訳君。いるって名乗ってやれよ」
「私は慎みを知っている」
ミゲルは淡々と答え、ふと気づいたように訊ねた。
「ところでエスクリヴォ、私は不思議なのだが」
「何がだい?」
「あなたはどうしてこんなに秘密めかして平戸へ戻る必要があったのだ? 包囲戦が始まる前からあなたは大阪にいた。そのことは秘密でもなんでもなかったのに」
「それはだねミゲル――」と、イートンは大仰に深刻そうな声で答えた。「俺が大阪の貴公子から――日本の皇帝の大御所様との戦いに敗れたあの気の毒な秀頼様から宝物を預かっちまったためさ」
「宝物?」
「ああ。所謂隠し財産ってやつだ。貴公子が再起をかけた金銀財宝の山だ。それがあのボートに満載されている」
「あの小舟に?」
ミゲルが呆れて問い返した。そのとき、母屋の方角に三つの明かりが現れた。
先頭を来るのはネルソンだった。炬火を手にしている。
次に来るのは日本風の紙張りの提燈を手にした日本人通訳のゴレザノ。
次に商館長のリチャード・コックス自身がぜいぜい息をしながら走ってくる。
五十がらみのコックスは青い絹のナイトキャップを被ったまま、恰幅のいい身体を夜着とおぼしき白い襦袢に包んで、素足に日本風の草履をひっかけるという取り乱した姿だった。すぐ後ろから、これも白い襦袢姿の小柄だが肉感的な体つきの女が黒い巻き毛を乱して追いかけてくる。
――かぴたん、かぴたん、そがん形で! 御身分ば考えてくれんね!
三つ目の燈の持ち主はこの巻き毛の女だった。コックスの若い妾のマティンガだ。左手に黒いガウンを、右手に蝋燭を持っている。イートンは川岸へ上がりながらひょいと右手をあげた。
「やあマティンガ、久しぶりだね! 寝巻のまま飛び出してくれるなんて、そんなに僕のことが心配だったのかい?」
「こらこらミスター・イートン、帰ってそうそう私の大事なマティンガに声をかけるとは感心しないな!」コックスがナイトキャップを外して息を整えながら口を挟む。「私だってこの通り寝巻で駆け出してきたのに」
「おやキャプテン・コックス。貴方もお久しぶりですね」
いついかなるときだって平静そうな軽口を忘れないのがイギリス人の信条ってものである。イートンがわざとそっけなく告げると、コックスは声を立てて笑い、イギリス人的平静をかなぐり捨て、生き別れの息子と再会したみたいにイートンを抱きすくめた。
「ああヤング・ウィル! 忠実な私の同郷人! よく無事で戻ってきてくれたね! 大阪が燃えたって話は本当かい? 御気の毒な秀頼様は――ああ、でもそれより君の身だよ! よく顔を見せなさい。どこにも怪我はないね?」
「旦那、落ち着いてくださいって」
イートンも笑いながらコックスを引きはがした。「この通り、私は無事ですよ! 大阪の炎上は本当です。あの堅牢な大城塞都市が灰になっちまいました。まるで世界の終末みたいでしたよ。大御所様の陣営が実に沢山の大型砲を持っていましてね」
「我々の売った五門の他にもかい?」
「数えられる数じゃありませんでしたよ。日本人は自力で大砲を鋳造できるようです。あああそうだ、在庫と売り上げは包囲戦が始まる前に分散して送り出しておきました。最上級のダマスク織は、最善を尽くして最も信頼できる宿主に、つまり江戸の三雲屋殿と長崎の天野屋殿に――」
イートンが指折って数え上げようとすると、コックスが苦笑して制した。
「後にしなさいミスター・イートン! 安心したよ、間違いなく君だ。それでこそ我らがエスクリヴォだ。だけどね、年長者の良識から言わせてもらえば、今日のところは――おや、何だ、ミゲルもいるんじゃないか! なんだい吃驚するな、案山子みたいに立っていないで、頼むから声をかけてくれよ!」
商人頭が今初めて気づいたように通訳に視線を向けた。
こちらもイートンと同様の色の褪めた藍色の着物姿の若い東洋人である。長身痩躯で面長で、唇の薄い怜悧な顔立ちをしている。コックスはその姿をつくづくと眺めてから日本風に頭を下げた。
「ミゲル・コリア、感謝するよ。よく我々のエスクリヴォを連れ戻してくれたね」
「彼は自力で帰ってきたのだ。地上の何処に取り残されても自力で帰ってくるだろう」
通訳はそっけなく答え、忙しく左右を見回してから訊ねた。
「按針様はいないのか?」
「今も川内で船を直しているよ。君が無事戻ったと伝えたら喜ぶだろう」
「なら、私は明日川内へ行く」
「すまないが明日は無理だ。人出が足りないんだよ」
「私の主君は按針様だ。帰還の挨拶をする」
「ミゲル、君は確かに按針様の――我々みんなの誉れたるキャプテン・アダムスの個人的な通訳だったのだろうが、今は彼とは別の給金で雇われているんだ。契約が有効なあいだが、誉れある会社の一員として共通の利益のために働く義務がある。分かるかな?」
「分からない。私はとても簡単な英語しか分からない。難しいことはポルトガル語で話して欲しい」
通訳が実に流暢な英語で主張する。とても簡単なポルトガル語しか話せないコックスはぐうと黙った。ミゲルがほくそ笑む。日本人通訳のゴレザノが今にもうなりをあげそうな形相でミゲルを睨みつけている。イートンは慌てて口を挟んだ。
「ねえ旦那、その話は明日にしませんか? 私もミゲルも夕べから呑まず食わずで疲れているんですよ」
「夕べから? そりゃ大変だ! 何はともあれ君たちはまず何か食べなけりゃ」コックスはふんだんに持ち合わせているイギリス人的良識を発揮して叫ぶと、若い妾からガウンを受取りがてらスペイン語で頼んだ。
〈松、賄い方に食事の支度を頼んできてくれ〉
〈商館長、もう夜も遅い。食事なら私が支度するよ〉
若い妾が落ち着いた声で答えて母屋へ戻っていった。コックスが目を細めてその背を見送っている。イートンは思わず揶揄った。
「奥方様がいるってのはいいもんですねえ」
「私もそう思うよ」
商館長は微塵も悪びれずに答えた。そこへネルソンがボート乗り場の階段の下から声をかけた。
「おーいウィル、休む前にちょっと来てくれよ。この漕ぎ手の謝礼はどうするんだい?」
「ごめんよビル、任せちまって。謝礼は船荷を揚げるのを手伝わせたあとで俺が払うよ。そういう契約だったんだ」
「船荷があるのかい?」
コックスが訝しそうに訊ねる。イートンは極まり悪そうに頭を掻いてみせた。
「いえね、私の衣装櫃と、ちょっとした拾い物です」
「拾い物?」
「砲弾ですよ。焼け跡にゴロゴロ転がっていましてね。割と上等の鉛ですから逃げがけの駄賃に拾い集めてきたのです。私と漕ぎ手で運べると思うから、とりあえず倉庫に放り込んでおいてもらえますか?」
「君ね、逃げるときはもっと真剣に逃げ給えよ!」
コックスが呆れた声をあげる。「さっさと運び上げなさい。済んだらすぐにベッドへ直行だ。その前に何か食べてね。ゴレザノとミゲルはエスクリヴォの衣装櫃を母屋へ運びなさい」
「はい商館長」
通訳たちが母屋へ引っ込み、コックスが倉庫の錠を開けに向かうと、川辺を照らす明かりはネルソンの炬火だけになった。ゴロゴロした硬い塊を収めた帆布の袋を川岸へと担ぎ上げながら、イートンは漕ぎ手に小声のポルトガル語で念を押した。
『いいか、夜明けに発てよ』
漕ぎ手は返事をしなかった。イートンは苛立ちを堪えて囁いた。
『もう三コンダリン出す』
途端に漕ぎ手は頷いた。倉庫の内に布袋を乱暴に――敢えて無造作に見えるように放り込みながら、イートンは心の中で世界を罵った。
金か。すべてが金か!