第一章 エスクリヴォの帰還 一
「……――消えてくれたかようやく」
七郎宮の灯明の手前の船着き場でごく低い男の声が囁いた。
暗がりで姿は見えない。
微かに笑いを含んだ囁きをもし聞ける者があったとしても、おそらく意味は分からなかっただろう。
ポルトガル語でもなければ、中国語でもスペイン語でもマレー語でもない。この頃幅を利かせ始めたオランダ語でさえない。
話しているだけで隠蔽効果のあるマイナー言語だ。
その言語を流暢に操る声が面白そうに呟いている。
「キャプテン・スペックスは全く厄介だよ! 帰還のための最後の最難関だ」
「エスクリヴォ、此処からどうする」
同じ言語でもう一つの声が訊ねる。
一語だけポルトガル語が混じっている。
エスクリヴォ。
ポルトガル語で書記官を意味する。
初めの声の主が不機嫌に応じる。
「ミゲル、その異称で呼ぶな。もし訊かれたら正体がばれちまうだろう」
「大丈夫だ。書記官は地上の何処にでもいる」
「エスクリヴォは俺の異称さ。少なくともこの平戸でね」
「そうか。では気を付ける。それより此処からどうする?」
「漕ぎ手に伝えろ。止めるまで真直ぐに漕げと」
「見えないままか?」
「見えないままだ。大丈夫だ。言う通りにしろ。平戸の河口の地形なら目を瞑っていても分かる」
エスクリヴォの声は傲岸な自信に溢れていた。ミゲルが低くため息をつき、舳先に立つ漕ぎ手に指示を通訳する。
漕ぎ手は怯えた声を出した。すかさずエスクリヴォが声を重ねる。
「ミゲル、倍額出すと伝えろ」
「分かった。――しかし、この通訳に意味はあるのか? 貴方はポルトガル語を話せるし、この漕ぎ手も簡単なポルトガル語なら分かる。どうしてじかに命じないのだ?」
「ポルトガル語を使わないためさ。もしも万が一誰かが聞いていたとしても、俺の故国の言葉や君の故国の言葉なら、この港では誰にも分からないだろう?」
「どうだろう。私の故国の言葉なら、この島だと分かる奴隷もいるかもしれない」
「奴隷になら分かられても問題はない。無駄話は後だ。訳してくれ。倍額出す、だ」
ミゲルが彼の母語で漕ぎ手に伝える。
一拍の沈黙のあとで、艪を押す軋んだ音が響き始めた。
斜め左の高い位置に亀岡の社の灯明が見える。
その燈が真横へ移るあたりで、エスクリヴォが低く命じた。
「止めろ」
ギイ、と最後の音を立てて舟が停まる。
エスクリヴォは暗がりの中で何やらゴソゴソやっていたが、じきに巾着からコインを一枚摘まみだすと、舳先の斜め右に向かって投げた。
ポチャン、と小さな音が立つ。
次の瞬間、前方から激しい水音が立ったかと思うと、闇の底から何かの群れが飛び出して空へと噴き上がっていった。斜め前から波が来て小舟が僅かに揺らぐ。漕ぎ手がヒッと声を漏らした。
通訳が潜めた声で訊ねる。
「エスクリヴォ、今のは」
「水鳥さ。商館の前の中洲の」
「暗くても見えるのか?」
「いや」
「なら、何故あの角度に中洲があると?」
「言っただろう? この河口の地形なら目を瞑っていても分かると」
「何故水鳥がいると?」
「一昨年いたからさ」
エスクリヴォが面倒そうに応じる。「分かり切ったことをいちいち聞くなよ。それより見ていろ、もうじきに燈が出てくるはずだ」
まるで予言に従うように、右手に新しい燈火が現れた。
赤々と燃える炬火の燈だ。川面に何かを捜すように弧を描いて動いている。エスクリヴォが満足そうに笑う。
「見ろ。あの位置だ。あれが我らの旅路の果て、わが目的地、遥かな船旅の終わりを示す港の標識って訳だ。漕ぎ手に伝えてくれ。あの燈に向けて漕げと」
「分かった」
ミゲルが感嘆とも呆れともつかない声で応じて指示を通訳する。舟は幾度も漕がないうちに燈火の根元についた。水中へ水中へ水中へ下る石段状のボート乗り場である。満ち潮の刻限で、上から二段目の半ばまで水に浸っている。すぐ上で、白いシャツを着た大柄な赤毛の若者がブルブル震えながらマスケット銃を手にしていた。後ろに炬火を手にした日本人もいる。
『く、く、来るな! 此処、イギリス。イギリスの商館。イギリス、オランダ、友だち。オランダ。敵。助けない。来るな! 来るな! 撃つ!』
赤毛の若者がたどたどしいポルトガル語で威嚇してくる。エスクリヴォは立ち上がりながら声を立てて笑った。
「やあビル・ネルソン、ポルトガル語が上達したね! 夜遅くに着いちまって御免よ。悪いんだけどひとっ走り商館長を起こしてきてもらえるかな?」
その言葉は紛れもない英語だった。
平戸におけるマイナー言語だ。
イギリス人以外滅多に話さない。
赤毛のビル・ネルソンは呆気にとられた。
彼の目に移っていたのは、日本風の小舟の真中に立つ、日本風の編み傘を被って日本風の藍色の短いガウンを纏ったひょろっとした立ち姿だった。
そのひょろっとしたのが英語を話している。まるで本物のイギリス人みたいに流暢きわまる英語を。
其処に至ってネルソンはようやくに思い至った。
「もしかしてウィル? ウィル・イートンなのか?」