案外何も変わらない。
始業式の日は、とても面倒くさい。
まず早起きをしないといけない。
確かに龍は、夏休みの間はラジオ体操の判子を突いてもらうためにずっと六時を少し過ぎた頃には起きていたけれど、ラジオ体操会場から家へ帰って来たら、朝ご飯までの間に「二度寝」をするのが日課になっていて、ちゃんと起きるのは八時か九時ぐらいになっていた。
でも学校が始ったら、そういうことはできない。
ラジオ体操のご褒美目的で六時に起きる必要はなくなるけれど、寝坊して遅刻するわけには行かなくなる。
龍は眠い目をこすりながら、ランドセルの中に「夏休みの友」と「計算ドリル」と「1ページ目から最後のページまでマス目全部を漢字で埋めた白文帳」と「絵日記」を投げ込んだ。
お店のほうから、小さなお客さんと話しているらしい父親の声が聞こえる。
長期休み明けの雑貨屋に来るのは、消しゴムやら鉛筆やらノートといった消耗品を補充したい優秀な児童と、休みの間に体操着や靴のサイズが合わなくなった成長期の児童、それと、安全帽に付ける校章のバッチや学校指定の文房具なんかを無くしたり壊したりした腕白な児童だ。
龍は、そういう年下だったり年上だったりする、真っ黒に日焼けした児童達の間を縫って外に出た。
店の前に見知った顔の児童がいた。龍のクラスメイトで、本当は刑部っていう名字なんだけど、話すのが大好きだから、名字と「オシャベリ」をゴッチャにした「オシャベ」というあだ名で呼ばれている。
オシャベは龍が出てくるのをずっと待っていたみたいだった。
それで、家から出てきた龍の顔を見るなり、
「スネ夫、転校したんだって。夏休みの間に!」
と、妙に昂揚した声で言った。
龍の頭に、別のクラスメイトの顔が浮かんだ。
想像の中のそいつは、いつだって拗ねたような顔をしている。
スネ夫はちょっと頭が良くて、ちょっとお金持ちの家の子だった。スネ夫というあだ名を本人はとても嫌がっているみたいだったけど、クラスのみんなはそう呼んでいた。中にはスネ夫の本名の方なんか忘れてしまっているののもいる。
そのスネ夫が、
「転校って……なんで?」
龍は歩きながら訊ね返した。
「これ、おれから聞いたって、だれにも言わないでよ。……」
オシャベは龍の耳に顔を寄せると、小さな声で、
「スネ夫のヤツ、なんだかひどい悪ふざけをして、誰かに大怪我をさせたらしいんだ。
ほら、あいつのウチ、病院やってるだろ?
それで、医者の息子が人に怪我をさせたって話が広がると、セケンテイっていうのが悪いからとかなんとか……。
それでずいぶん遠くのなんとかって言う全寮制の学校に行かされることになったんだって。
おれも、くわしいことはわかんないんだけどさ……。」
十分詳しくて、それでいて要領を得ない答えを返してきた。
龍は頭の中で、
『そういえば、オシャベの母親はPTAの役員だっけ』
と思い出した。多分、親の噂話を聞きかじって、なんとなく憶えたらしいことを言ったんだろう。
「ふぅん」
と、龍は生返事で答えた。
二人はいっしょになってすぐ近くの裏門から入って、昇降口にむかって歩いてゆく。
「でもスネ夫が転校しちゃったら、映画のビデオを見せてもらえなくなるなぁ。
あ、でも、
『うちはβだから絵がキレイなんだ』
って変な自慢も聞かされなくて済むけど」
オシャベはちょっと惜しいような口ぶりで言うと、踵をぺたんこに踏みつぶした下履きを下駄箱に放り込んだ。
旧校舎の狭い木の廊下は、ほとんど同じ方向に進む児童達で混み合っている。
全員が同じ学年の児童達だから、龍はほとんどの顔を知っている。|(顔は知っていても名前は知らないヤツも居るには居る)
児童達全員が当たり前の顔をして旧校舎の廊下を歩いたり走ったりして、当たり前の顔をして自分の教室に入り、当たり前の顔をして自分の席に座っている。
どの教室でもだいたい女子の「仲良しグループ」がいくつかできていて、ケラケラと何かを話し笑っている。
短いほうきと丸めたぞうきんで、昨日のプロ野球の試合の物まねをしているヤツらもいる。
夏休み中に遠くの有名な遊園地に行ったことを描いた絵日記のページと記念写真を自慢げに広げるヤツがいて、そいつの周りには人だかりができている。
楽しそうで、浮ついていて、校舎中が騒がしい。
騒がしいみんなは、教室に誰も座らない机があって、夏休み前にはそこに座っていた「スネ夫」がもういないんだっていうことを、気に止めていない。
『友達が一人足りなくなったのに、案外なにも変らないんだな』
龍は自分の席に着き、机に突っ伏した。
『今までもそうだったのかな。これからもそうなのかな』
なんとなく寂しい気分になって、龍は大きなため息を吐いた。




