嘘は吐けない、本当も言えない。
西の空が真っ赤になって、東の空が深い紺色になったころ、ずぶ濡れの泥だらけで帰ってきた龍を見て、両親が怒らないはずはなかった。
普段、怒鳴ったり拳骨を落としたりするのは父親の担当なのだけれど、今日ばかりは母親の方が、
「大バカもの!」
大声を上げた。それからほっぺたを平手で一回叩いた。
それからあとは、父親と母親が、
「何処に行っていた」
「何をしていた」
「心配をかけるな」
「何があったのか」
「どこか具合でも悪いのか」
「悪い友達にでも呼び出されたのか」
「何か言ったらどうだ」
代わる代わる、時々同時に、わめき立てる。
龍は言い訳をしなかった。説明もしなかった。
両親を納得させられそうな言い訳は思いつけない。
夏休みの前からついさっきまでの間に、自分の身に起きた「本当のこと」をオトナに信じてもらえるように説明する自信はない。
もし本当のことを本当通りに説明するなら、
「夢に自分にそっくりな龍神と『トラ』にそっくりな龍神の奥さんが出てきて、勝手に集めていた御札を川に流さないと大変なことになると言われたから、いそいで川に行って、お札を流してきた」
と、言うことになるのだけれど、これをちゃんと言ったところで、多分誰にだって信じてもらえない。
びしょびしょにぬれた服を着たまま、龍は無言で商品棚の間に立っていた。
どのくらい両親が大声を出していたのか、時計を見ていなかった龍には解らない。だけれど、二人の質問のような叱責のような同じ言葉の繰り返しは四巡りくらいしたあたりからドンドン小声になって、五巡りが終わるすこし前に止んだ。
だって、龍は黙ったきり何も言わないのだから。
暖簾に腕押しというか、糠に釘と言うか、豆腐に鎹というか、馬の耳に念仏というか、馬耳東風というか……とにかく何を言っても何の反応も返ってこない。
とくに母親は途中からとても心配になったようだった。
こんなに叱られているのに一言も喋らないなんて、もしかしたらどこか体の具合が悪いんじゃないか、夏風邪をひいてしまったのではないか、熱が出てそれに浮かされて幻覚を見たんじゃないか。
そう思ったちょうどそのときに龍が大きなくしゃみをした。
土砂降りの中ずぶ濡れになったのだから、くしゃみの一つや二つ出るだろうし、本当に風邪を引いたっておかしくはない。
それは龍からすれば「雨の中出かけたせいでたった今引いた風邪」だ。
けれども母親は「ずっと風邪を引いていて、酷い熱で頭が混乱したセイで、雨の中に飛び出した」と解釈した。
「やっぱりどこか悪いのね。この頃なんだか様子が変だと思っていたのよ」
そう考えると全部が腑に落ちた。というか、息子の変調を風邪に責任転嫁して、母親は自分を納得させた。
「違う」
龍はそう言いかけて止めた。止めざるを得なかった。
なにしろその後の言葉を続けようとしたら、母親は、
「いいから早く服を脱ぎなさい」
と、早口で言いながら彼から濡れた服を引きはがしたから。
その後も、龍が口を開こうとするたびに
「いいから早くパジャマを着なさい」
と言いながら痛いほど腕を引いてパジャマを着せ、
「いいから早くお布団に入りなさい」
と言いながら無理矢理に敷き布団へ寝かせ、
「いいから早く寝てしまいなさい」
と強引に掛け布団を被せてしまう。
『命令しておいて、全部自分でやっちゃった』
龍はちょっとおかしくなった。
遠くの方で、父親の怒鳴り声がする。
「そうやっておまえが甘やかすから」
間髪入れず母親が答える。
「あなたが厳しすぎる分、差し引いて丁度ですよ」
父親の返事は聞こえなかった。
多分、妻の言ったことが間違っていないから、返す言葉がみつからなくて、口ごもっているのだろう。
龍はそれがとてもおもしろく思えた。母親の前でしょぼくれている父親を想像したら、ものすごくおかしくなってきた。
龍は頭まで布団を引っ被って、声を出さないようにして笑った。