雨よ、降れ。
『当代の守人の所に行っては来ましたが、まだあの娘にはその自覚がないものですから。
……どうやら守人の継承の事が少々間違うて伝わっていたらしゅうございまして……その所為でありましょうか、あの娘は己にその資格がないものと思い込んでおります。
ですから、あの娘に我の声が聞こえたかどうか、判然といたしませぬ』
寅姫もため息を吐いた。それは小さな泡になってくるくる回転しながら天に昇っていった。
「守人って誰?」
龍には判らないことだらけだ。でも「別の考え」には全部解っているらしくて、
『じゃがあの女の童には間違いなく素地がある。案ずることは無かろう』
安心しきって言った。
『そうでしょうか』
寅姫はもう一つ泡を吐き出した。
龍には寅姫の不安の理由がわからない。「別の考え」もそこが解らないらしい。
「どうしたの?」
『如何した?』
一つの体の中のにある二つの考えが、同時に一つのことをそれぞれの言葉で思考する。
『年若い、幼い守人は、確かに我の気配は感じた様子でした。
泣きはらしたよな赤い目でを我の方に注いでおりましたから。
ですが、我が語りかけてもそれに耳を傾けようとはしませなんだ。
むしろ、あの娘の方が我に語りかけるのです』
「なんて?」
『何と?』
寅姫は龍ともう一人の「誰か」をじっと見て、細い眉毛を八の字にして、美しい眉間に皺を寄せて、困り切ったという調子で答えた。
『雨を賜りたい、と』
龍の……いや、龍の心がその中に迷い込んでいる、たくましい身体の\凛々《りり》しい顔の大きな口から、大きな泡がゴポゴポと吹き出した。
『龍脈が乱れて水が正しく流れない故、如何様にしても雨を降らせられぬと言うに』
そう言ったのは「別の考え」の方……つまりこの身体の本当の持ち主の方だ。怒ったような悲しいような声が、浅い水面に向かって立ち上る。
彼は心底困り果てている。そしてちょっとだけ怒っている。
『あの娘は、母御が身罷ったのが辛いのでしょう』
寅姫は顔を伏せた。龍の身体は天を仰いだ。
視線は水面を超えて、池のほとりの一隅に注がれる。
石でできた鳥居。
小さな古ぼけた祠。
小さな石塔の一群。
新しい墓標。
その前に手向けられた、大きな菊の花束。
立ち上る、良い匂いのする煙――。
龍は心の半分ぐらいがぎゅっと握られたんじゃないかと感じた。
それは、怖いとか、不安とか、それから訳の判らない感情が、七回の七倍ぐらい体の回りに巻き付いたような感じだ。
龍の頭の中をコトバにしてあらわすとしたら、
「『トラ』の家のお墓だけど、『トラ』のお墓じゃない」
になる。それは龍の「そうであって欲しい」という願いでもあった。
でも、すぐに恐怖も不安も嫌な予感も、何もかもがしゅるしゅると解けて消えた。
寅姫さまが見せてくれた、小さな新しい墓標に書かれていた文字は、
「『トラ』の名前じゃない。『トラ』のお墓じゃない」
龍は安心の息を吐き出した。龍の回りを覆っている、龍だけれど龍じゃない、逞しい体つきの人、つまり寅姫さまの夫である龍神の口から、ゴポゴポと泡があふれ出る。
泡ははじけながら、こんなコトバになった。
『我は親を知らぬ。我は一人生まれ、一人で生きてきた。
故に判らぬ。――親が死ぬるとは、それほど辛いことか』
その声には、龍神の「まるで実感が湧かないし、まるきり理解ができない、とても不思議なことだ」という考えが染みこんでいる。
それを聞いた寅姫は、まるで何も知らない子供のつぶやきを耳にした学校の先生みたいな苦笑いをした。
『兄の君は、我らの間に生まれた子供が、大きゅう育って、大人になって、年を取りて、老いて死に果てたあの時、辛くありませなんだか?』