人の思いを乗せた紙。
ここはとてもふわふわした場所だ。
体の回りには暖かい液体が満ちていた。
だのに、息はちっとも苦しくない。
周囲は薄暗くて、仄明るい。
龍は、
『宙に浮いてふわふわ漂っているんじゃないかな?』
と、感じた。
実際、彼は漂っていた。でも宙空じゃない。
緑がかった黄土色の水の中、だ。
「姫ヶ池だ」
龍はぼんやりと理解した。
「でもこの間より、水がにごっている」
水の中なのに息苦しくないと言うことよりも、その水がひどく汚れていることの方が、龍には不思議だった。そのことがとても心配になった。
「それに天井が低いみたいだ」
濁った水のずっと上の方に、ほんのりとした光が見える。
龍は光に手をかざした。
長い|爪、節くれ立った指、大きな甲の、ものすごく強そうな手が、幽かな光の中にある。
「僕の手じゃない」
と思う頭の中に、同時に別の考えが降って湧いた。
『全く、どいつもこいつも、どうしてこう龍脈を乱しおるものかや』
龍は降ってくる「別の考え」が、何を言いたいのかさっぱり分からなかった。それでもこの「別の考え」がずいぶんと怒っていて、ずいぶんと悲しんでいる様子なのは感じ取れる。
この人|(?)が一所懸命にやっていることを、誰かが邪魔している。
ただ、この人|(?)は邪魔されていることを怒っているけど、邪魔している人のことは怒っていなくて、どちらかというと可哀想だと思っている。
龍は長い指の間から差し込むまぶしい光を長めながら、耳を澄ました。
水が跳ねる音がする。それは元気が無くて、どんよりと淀んだ音だ。
天井の水面に丸い水紋が浮かび、ゆっくりと広がっていった。水紋の中心は小さな影だ。
影はやがて人の形に広がった。広がりきった人の形の影は、影ではなく人の姿に変った。
「寅か」
龍の頭と、頭の上の「別の考え」は、同時に思い、同時に言った。
確かにそこに現れた人は「トラ」だった。でも子供の「トラ」じゃなくて、大人の寅姫だった。
元々色白の顔だけれども、今日は一層青白い。
「どうしたんだろう?」
龍は思った。
『何か判ったようじゃな』
「別の考え」の主が思った。
『判ってみれば至極簡単なことなのですけれど』
寅姫は微笑んだ。でもちっとも嬉しそうじゃない。
『誰ぞが札をせき止めておるようで』
「札って何?」
龍は思った。
でも別の考えは、
『アレはタダの紙切れぞ』
と言う。
寅姫はまた笑った。でも今度の笑顔は苦笑いだった。
『人の思いが乗れば、ただの紙も力を得ます。
それに、そもそもあれには我と、何よりあなた様の名が呪として書き込まれておりますれば』
「呪って何?」
龍が思う。
でも別の考えは、
『タダの墨跡に過ぎんがの』
とため息をつく。
ため息は大きな泡になって、ぐるぐる渦巻きながら天に昇っていった。