怖くない幽霊。
また雷光がビカっと輝いた。
家がビリビリと揺れる。
天井の方でブツンと音がして、電灯が消えた。
昼間なのに部屋が真っ暗になった。
龍は辺りを見回した。
部屋の隅に、白い着物を着た女の人が立っていた。
ちがう。立っているんじゃない。その場所にふわふわ浮かんでいると表現した方が正しい。
『幽霊だ!』
龍は雷が自分の頭に落ちたみたいに驚いた。奥歯がガタガタと鳴った。
光なのか影なのか区別が付かないくらいにぼんやり見えるその女の人は、龍をじっと見た。
暗闇の中で瞳が輝いている。龍と目が合うと、女の人はふわっと笑った。
真っ白な顔、黒い瞳、薄紅の唇。
どこかで見たことのある顔だった。
それがどこだったかを考える前に、龍は気付いた。
「『トラ』?」
特大の雷が龍の家に近いところに落ちた。暗い部屋が一瞬だけ光に包まれた。
雷鳴でかき消されてしまった固有名詞に、龍自身が驚いた。驚いてから、怖くなった。
部屋の隅の女の人は、龍を見つめて微笑んだまま黙っている。龍が呼んだ名前が違っているとも合っているとも答えてくれない。
なにも答えないことが余計に恐ろしい。
龍は汗ばんだ腕を目の回にゴシゴシとこすりつけた。いっぺん目を閉じて、一つ深呼吸をしてから、かっと目蓋を開いた。
女の人は、確かに「トラ」によく似ている。似ているのに、全然似ていない。
まず「トラ」より少し背が高い。「トラ」よりずっと髪の毛が長い。そして「トラ」よりずっと年上のようだ。
龍は心臓がドキドキ飛び跳ねるのが収まってくるまでチョットだけ待ってから、
「寅姫さま?」
そう訊いたけれども、女の人はやっぱり返事をしてくれない。
でも、言葉で答える代わりに、笑顔を大きくした。
龍はホッとした。
おかしな事だけれど、目の前に幽霊が――だって、寅姫さまはずっと大昔に亡くなった人だから、もし今ここにいるとしたらそれは絶対幽霊だ――いるのに、ちっとも怖く感じない。
『幽霊が「トラ」でなくて良かった。「トラ」が幽霊になっていなくて良かった』
そればかり考えて、安心し、喜んでいる。
でもすぐ困ったことに気付いた。
寅姫さまの幽霊らしき女の人は、ただ微笑むばかりだ。どうしてここにいるのか、何をして欲しいのか、何の説明もしてくれない。
しかたがないから龍は質問することにした。
「どうして僕のうちにいるんですか?」
寅姫さまはやっぱり答えてくれなかった。
それは龍が予想したとおりだったけれど、そんな予想が当ったって、ちっとも嬉しくなんかない。
「困ったなぁ」
龍は頭を掻いた。
そうするうちに、寅姫さまはふんわり、滑るようにすぅっと、龍の膝元までやってきた。そうして、ひんやり細い手指の先を彼のおでこの真ん中にあてがった。
ほんの軽く触られただけなのに、龍の身体はぐいっと押しつけられたみたいに重くなった。
床が重さに耐えられなくなって歪み始めた。
身体はぐんぐん床に押し込まれる。
まるで、できあがって一時間くらい経った頃合のカレーの表面に張った薄い膜の上に乗っけたしゃもじみたいに、龍の身体はゆっくりと床にめり込んだ。
でも龍は、痛いとか苦しいとかは、ちっとも感じなかった。
だって、溶けるように自分の身体を飲み込んでゆく床は暖かいし、寅姫の手はひんやりと心地よい。それに目の前の寅姫はずっとにこやかに笑っている。
何か恐ろしいことが起きるようには全然思えない。
龍の身体は沈んでゆき、頭の天辺が床よりも低くなった。
雨音は消えた。雷鳴も止んだ。
そこは音のない真っ暗闇だった。
真っ暗なのに、龍はまるきり怖くなかった。とても居心地が良かった。