降ってきたもの。
地面をもやのようなものが覆っているのが、戸の隙間から見える。
地面に叩きつけられた雨が飛び跳ねているのかもしれないし、溶けるほど熱くなっていたアスファルトが雨に冷やされて湯気を噴き上げているのかもしれない。
そのもやが、猛烈な湿気になって店の中に侵入してきている。
「今度は相当近いぞ」
幾度目かの雷鳴を聞きながら、龍の父親は大あわてで店の戸締まりを始めた。
古い住居兼店舗の出入り口の、木でできた敷居が水気を吸ってふくらんでしまった。タダでさえ立て付けの悪い引き戸は、ガタガタ言うばかりでなかなか閉まらない。
目に見えない湿気の波は、あっという間もなく売り物のうちで、紙や布でできた物を飲み込む。
大学ノートの表紙が湿気を吸い込み、ほんわりとふくらんだ。
「龍、裏の雨戸、締めて」
母親が白い顔で言う。龍には蚊の鳴くような小さな声に聞こえたのだけれど、母親は実際には普段より大分大声でしゃべっていた。
プールをひっくり返したみたいな勢いの大雨だから、雨音だって並じゃなかった。どんなに大声を出したところで、荒れ狂う「天空の吠え声」にはかないっこない。
龍が返した、
「わかった!」
という大声だって、母親にはちゃんと聞こえてなかったのじゃないだろうか。
母親は父親と一緒になって店の戸を閉めたり、棚にビニルのシートをかぶせたりしていた。
龍は居間から飛び出した。小さな家だから、戸という戸、窓という窓を閉めて歩くのに、それほど時間はかからない。
自分の部屋、両親の部屋、廊下の突き当たり、風呂にトイレ、と、龍は家中をくるりと走り回り、最後に狭い中庭に面した掃き出し窓にたどり着いた。
木枠に似合わない銀色のアルミサッシを閉めながら、龍は猫の額みたいな中庭の様子をちらりと見た。
雨樋から、いつか見た「消防車のホースから噴き出す水」みたいな勢いで水があふれ出ている。それは庭の隅に掘られた細い排水溝なんかでは、全然流しきれない量だった。
水が出て行かないのに、雨はドンドン降ってくる。
庭は水がたまって、四角い池みたいになった。
龍は大きな窓ガラスに張り付いた。ガラスに映り込んだ透明な自分の姿の向こう側で、たくさんの雨粒が跳ねている。
茶色に濁った水の上に大きな雨粒が突き刺さる。はじき飛ばされて粉々に砕けた水滴が重たい雲のみたいに水面を漂う。
閉めた窓の、髪の毛ほどの隙間から、土の匂いがする湿気がじっとりと染みこんできた。
家中ぐんぐんと湿っぽくなってゆく。龍がおでこをくっつけている板ガラスも曇り始めた。
雨脚はちっとも弱くならない。
大量の水が地面を殴る音と、大量の電気が空気を裂く音以外、なにも聞こえない。
龍は目を閉じた。
ゴウゴウ、ザアザア、ゴロゴロ、ザブザブ。
怖い音だ。でも龍の耳には、なんだか懐かしいような、嬉しいような響きとして入ってきた。
流れる水、揺れる空気、漂う白い影。
『どこで聞いた音だろう』
思い出そうとして龍が目を開こうとしたその瞬間、空が光った。
痛いほど明るい光が目蓋の隙間をこじ開け、網膜に突き刺さる。
鼓膜の奥でキーンと高い音が反響する。
びりびりと音を立てて震えるガラスから、龍ははじき飛ばされた。
龍の身体は廊下を転がり、障子を二枚ばかり突き倒し、古い和箪笥にぶつかって、止まった。
光と音と、そして体中の痛みに、龍は全身を振るわせた。
顔を上げると、和箪笥わずかに揺れているのが見えた。
「倒れる!」
とっさに飛び退いたあと、ちょっと前まで龍のいた場所へ、和箪笥の上に積まれていたボール紙の箱が二つ三つ、ドサッと崩れ落ちた。
箱は、龍の足先の床の上で、ぱっくりと蓋を開けた。
引き出物のタオルや良い匂いのする石鹸が畳敷きの床に散らばった上に、白い紙切れが降り注ぐ。
それは人の形に切り抜かれた紙で、表面には幾つも難しい字が書かれていた。