規則正しい夏休みの過ごし方。
その日から後の夏休みの間、龍はちょっとでも時間をみつけては、店先の特殊簡易公衆電話の前へ行った。
もちろん小学校の夏休みには、小学生がやらなければならないことがたくさんある。
朝のラジオ体操、宿題のドリル、自由研究、絵日記、それからお店のお手伝い。
龍は一応やっている。やるだけはやっている。
実際は、どれも全部「上の空」で、何一つ集中出来なくて、全然真面目にはやっていない。
ラジオ体操のカードには全部ハンコを突いてもらってある。
宿題のドリルもちゃんと――先に答えを見るズルをせずに――答えの欄を埋めた。
自由研究は前にやって褒められた「夏休みの間の天気を全部記録して模造紙に大きく書く」ヤツを今年もやることにした。
模造紙で表にするのは夏休みの終わりの二日ぐらいにやることにして、毎日の天気は絵日記に書いた。これなら絵日記もちゃんと毎日付けられるから一石二鳥だった。
両親に言いつけられる前にお店の床をパパッと掃除したり、前の道路にチャチャっと打ち水をしたりした。率先して手伝いをしていることになるから、両親は龍を褒めてくれるし、それ以上のお手伝いをあんまり言い付けなかった。
こうやって、龍は「やらなきゃいけないこと」を全部やった。やり終わってから、電話の前に立つ。
電話をしようか悩んでいる。
……だれに?
電話が来るのを待っている。
……だれから?
答えはどっちも「トラ」だ。
借りた服を洗って返さないといけないからとか、助けてくれたお礼をちゃんと言ってないからとか、そういう「ちゃんとした理由」もある。
でも、それ以上に、
「タダなんとなく、声が聞きたい」
ような気がしていた。
直接「トラ」に遭いに行くには――つまりY先生の家は――小学生の足ではちょっと遠い。
あの日、シィお兄さんは車で簡単に送り返してくれた。
でも、子どもの龍は車の運転ができるわけじゃないから、歩くか自転車で行かなきゃいけない。
だけれど、あの日の龍は、
「川を伝って上流へ行ったら、なんやかんやで先生の家に到着しちゃった」
のであって、ちゃんと「正しく」通って行って道順なんかは、ちっともわからない。
シィお兄さんの車に乗って帰ってきたけど、どこをどう曲がったか、なんてまるで覚えていない。
あの時は、お兄さんの話に聞き入っていたから、それ以外のことなんかは頭の中に入ってこなかった。
だから、龍は「トラ」に
「会いに行けないんだ」
と、思った。そういう言い訳を、自分の心に言い聞かせた。
でも本当は、全然違った。
龍は怖かった。
「トラ」に合うのが怖い。
死んだ人を見ているようで怖い。
暗い穴の中にいるようで怖い。
暗い穴の中に閉じこめられた「トラ」を想像してしまいそうで怖い。
苦しんでいる「トラ」のことを想像してしまいそうで怖い。
「トラ」がこの世の者でなくなってしまう瞬間を見てしまいそうで怖い。
龍は電話機の前で立ちすくむ。
背筋に氷がはったような気分になって、震えながら自分の身体を抱きしめて、電話機の前に立っている。
時々、あんまり怖くなった龍は大きな声を出すことがあった。
「電話、かかってこい」
声は店の中に響いて、家の奥まで聞こえる。
ある日、そう叫んだ直後、龍の背中で金物が落ちる大きな音がした。
慌てて振り向くと、龍の父親が床の上に散らばった新製品の缶ケース入り色鉛筆を拾い集めていた。
「やかましい、商売の邪魔だ。用がないなら中にいろ!」
父親が顔を真っ赤にして拳を握って怒鳴ったので、拳骨を喰らいたくない龍は、大あわてで家の中に逃げ込んだ。