ないしょ、ないしょ
「だからあの子は……ヒメコは母親から『寅』と呼ばれたら、笑って返事をする。
自分が『寅』じゃなくなったら、母親は自分のことを子供じゃないと思うんじゃないかって、不安がっているんんじゃないかなぁ。
同時にあの子は、自分が死んでいる『寅』兄と同じにされるのは「嫌だ」とも思っている。
自分が生きているってことを自分でしっかり感じていたいから、母親以外の人から『寅』と呼ばれるのは嫌がる……。
だから俺達は、あの子のことをヒメコって呼ぶ」
シィお兄さんは鼻水なのか涙を我慢して垂れてきた水なのか解らないものをすすり上げた。それから、不可解そうな、でもなんだかおかしいみたいな、たのしいみたいな、妙ちくりんな顔をして、龍の方をちらっと見た。
「さて、今君に話したことは、全部ないしょだ。俺が喋ったって事もないしょだ。誰にもないしょないしょにしておいてくれよ。
君はヒメコに取っては特別な友達みたいだから、ちゃんとヒメコのことを知ってもらいたくて話した。特別だよ。
でも他の人には言わないで欲しい。
男と男の約束だ。頼んだよ」
龍は、どんな顔で応じたらよいのか解らなくて、困った。
ここで笑ったら「トラ」に悪いような気がする。
だって「トラ」は、生きている自分と死んでしまった「寅」の間をふわふわと漂って、不安な毎日を過ごしているに違いないのだ。
だから笑っちゃいけない。でも怒ることは変だし、泣くのはもっとオカシイ。
どうしたらいいのかまるきり思いつかなくて、仕方なく龍は下唇を噛んだまま、コクリとうなづいた。
返事の言葉も笑い声も出さなかったものだから、口から出られなくなった呼気がほっぺたにたまって、プクっとふくらんだ。
フロントガラスの内側に移り込んだ自分のその顔を、龍は図工の授業で描いてみんなに「変な顔」だと笑われた「リコーダーを吹くクラスメイトの顔」とそっくりだと思った。
そのせいで、ますますオカシイのやら悔シイのやら、わけの解らない気分になり、ますます奇妙な顔つきになる。
龍はシィお兄さんに、そして自分にも変な顔が見えてしまわないように、下を向いた。
だから龍には、
「しかし、何でヒメコは君にだけ『寅』って呼ばせているんだろう……」
とつぶやいた時のシィお兄さんの表情は見えなかった。
龍はそれからずっと下を向き続けた。
シリョウお兄さんはそれからずっと黙り続けた。
黙り込んだ大人と子供が乗った車はドンドン進んで、車通りの激しい太い道から、スクールゾーンの標識が並ぶ細い道へと入った。
小学校の裏門に通じる道に曲がるとすぐ、龍の家のお店の看板が見えた。
その側に、人が立っていた。
「あ、母さん」
龍の母親は、ソワソワと足踏みをしている。時々道の続く端のそのまた向こうまで見ようと首を伸ばした。
不安そうな母親の姿を見た途端、龍のほっぺたがしぼんだ。
怒られるのが怖い。無事に帰ってこれて嬉しい。心配かけて申し訳ない。
いろんな気持ちが胸の中にあふれてきて、グルグルと渦巻いた。
龍は泣きそうになった。泣いたらイケないと思うと、泣いた顔が、前に油粘土で作った自分の顔みたいな変な形になった。
泣きたくないのに、目玉と鼻の穴からなま暖かい水分がドバドバとあふれる。目を閉じても、鼻をすすり上げても、洪水は止まらなかった。
泣き声を出したくないから我慢したら、しゃっくりみたいな嗚咽になった。肩が上下に動くのを止めることもできない。
それからすぐに、家の前で車が停まった。
龍は車を飛び降りて母親のお腹の当たりに抱きついた。
店の奥から父親の怒鳴り声が聞こえ、それがだんだん近づいてくる。怒鳴り声は龍のものすごく近くまできて、ぴたっと消えた。
途端、龍のつむじの真ん中に、大きな拳骨の尖ったところが落っこちた。
すぐ後に、柔らかくてひんやりした掌が、たんこぶ発芽寸前の頭をなでた。
『母さんの手だ』
いつだって、父さんの拳骨の後は母さんがなでてくれる。母さんがなでてくれている間、父さんは怒鳴っている。
だから龍はぎゅっと目をつぶった。きっと今日だって自分の頭の上の母親の手の上から父親の怒声が降って来るに違いない。
でも、父親が大声を出す前にシィお兄さんが優しい声を出した。龍の代わりに事情を説明してくれているらしいのだけれど、龍の耳には入ってこなかった。
シィお兄さんと会話している父親の声も、はっきり聞き取れない。
二人とも龍のすぐ側にいるはずなのに、声はものすごく遠くから聞こえた。