死んでいる子供、生きている子供。
龍の身体はドアの方にぐいと引っ張られた。車は三叉路を鋭角にギュギュッと曲がっている。
シィお兄さんは前をしっかり見て、ハンドルをちゃんと握って、話を続けた。
「叔母さんは寅が死んでしまったという悲しいことと一緒に、寅が生まれたという嬉しいことも忘れてしまった。
だって、生まれたことを憶えていたら、死んでしまったことも思い出してしまうからね。
ずっと待っていた男の子が生まれたこと、産着を作ったこと、ベビーベッドの上にベッドメリーを吊したこと、赤ちゃんを抱いて子守歌を歌ったこと、赤ちゃんが泣いたりむずがったり笑ったりしたこと……。
叔母さんの脳味噌は、寅がいなくなった事を忘れるためにそのほかのいろんな事も忘れようとした。そのせいで、叔母さんの心の中は壊れてしまった。
タイミングがいいというか、悪いというか……ちょうどその頃に、叔母さんのお腹いることが判ったいることが判った。
寅が産まれたことも、寅と過ごしたことも全部忘れてしまった叔母さんは、お腹の中の赤ちゃんを寅だと思ってしまった。
叔母さんの脳の中では、寅と過ごした一年ぐらいの時間が巻戻った。叔母さんは初めての子供が自分のお腹の中にいると思い込んだ。
それで、叔母さんはお腹の中のヒメコを、寅という名前で呼んだ。長いあいだ、ずっとずっと生まれてくるのを待っていた、元気な男の子の寅、と。
そうすると、叔母さんの心のバランスがすこし良くなったんだ。
それはまるで、折れた椅子の脚に、長さも形も全然違う棒きれを継ぎ足したみたいな、へんてこなバランスだった。そんな椅子に座ったらガタガタする。座り心地が悪い。でも椅子の形にはなる。座ることはできる。
ともかく叔母さんは、見た目は普通に暮らしていけるようにはなった。
ヒメコが生まれたとき、叔母さんは寅を産んだときの『うれしさ』を思い出した。でも『寅のことそのもの』を思い出すと、本当は寅が死んでしまった事も思い出してしまうから、それは思い出せなかった。
つまり生まれた赤ちゃんは、叔母さんにとっては寅だということになった。初めて生まれた男の子だということになった。
叔母さんは寅じゃない赤ちゃんを寅と呼んだ。寅じゃない赤ちゃんを寅として育てた。
赤ちゃんは寅になった。そうならなきゃいけなかった」
「だから『トラ』は僕に自分の名前を『トラ』って言ったのか」
龍は下を向いて、ぽつりとつぶやいた。シィお兄さんはちょっとびっくりした声音で、
「あの子、君に寅って名乗ってたのかい?」
龍に訊ね返した。
「うん……じゃなくて……えっと、はい」
「それは、珍しいな」
今度はシィお兄さんがぽつりとつぶやいた。『ものすごく不思議だな』というような調子の声だった。
「めずらしいんですか?」
龍が質問し返すと、お兄さんは小さくうなずいた。
「……ヒメコは本を読むのが好きな子でね」
質問の答えとは違うことをシィお兄さんがしゃべり始めたので、龍はちょっとおどろいた。
けれども、お兄さんの顔はすごく真剣だったから、何も言わずに一回小さくうなずいた。
「叔母さんがあの子を外に出したがらがらないから、家にいて本を読むより仕方がないからなんだけれどね」
「外に出してもらえないんですか?」
今度の質問には、龍が待っていたのとぴったり合う答えが返ってきた。
「叔母さんは目の届く範囲にあの子を置いておきたがっているからね。
あの子の姿が見えなくなると、叔母さんは……本当の寅が死んでしまったときのことを思い出すらしくてね……パニックになって、大騒ぎになる」
龍の頭の奥に「トラ」のお母さんが泣き叫ぶ姿が浮かんだ。
場所は学校の用具室の前にも思えたし、池の畔のようにも見えたし、ぜんぜん知らない駐車場みたいな場所にも思えた。
シィお兄さんは左の手の甲で鼻の下をごしごしとこすった。龍には、シィお兄さんの目が少しだけ赤いように見えた。