怖くてちびる。
シィお兄さんの言葉に、龍には思い当たることがあった。
龍の父親がすごく大きな声で息子の名を呼ぶときは怒っているときだ。龍が原因の時もあるけど、そうじゃなくて、何か別のことで機嫌を悪くしているときもある。そんなときの父親に叱られようものなら、パンツがびしょぬれになることがあるくらいに怖い。
でも父親は、怒っていなくても、機嫌が悪くなくても、大きな声で息子を呼ぶことがある。
それはたとえば、
『龍は自分から遠くに離れた所にいるのだろう』
と思い込んでいるようなときだ。
そういうときの呼び声は、ものすごく怒っているときの声によく似ている。
だから本当はすぐ近くにいた龍は、曲げた金定規が戻るみたいな勢いで、背筋と手足を伸ばす。伸ばしたきり、身体は硬直してしまって、ちっとも動けなくなる。
運が悪いとそのときに手にしていた物を落として壊してしまったり、ホントに叱られたときと同じに小水をちびったりしてしまい、そのセイで本当に叱られてしまうことだってある。
「それは君が、それより前に実際に大きな声で叱られて怖かったときのことを憶えているからだよね」
シィお兄さんの問いかけに、龍はうなづいた。
龍はいつだったか父親が、商工会議所の人たちと旅行のお土産に買ってきた、張り子の赤い牛みたいに何度も繰り返してうなずいた。
「つまり君は、本当に叱られたときとよく似たことが起きたから、怖いことを『思い出した』んだ。
思い出すまでは怖かったことを『忘れて』いる。
忘れている間は、怖くない」
シィお兄さんは正面の赤信号をじっと見たまま、優しい声で言った。龍はまたうなづいた。こんどは米搗飛蝗みたいにヒョコヒョコうなずいた。
「だから忘れることは大切なことなんだ。
何時でも何処でも怖かったことを思い出してしまったんじゃぁ、何をするのも怖くなって、最後には何もできなくなってしまう」
信号が青に変わり、お兄さんはアクセルを軽く踏んだ。車がゆっくりと動き出す。そのゆっくりに合わせて、お兄さんもゆっくり話を続ける。
「そういうわけだから、人間の脳には、ものすごく辛いことやものすごく悲しいことを忘れたり、思い出さずにいられるようにする素晴らしい機能がそなわっているんだ。
そんな素晴らしい機能だけれど、それが強く作用してしまうと、ものすごく辛い思いをした時に、その辛かったことや、つらかったことの前と後ろの出来事を全部忘れさせてまうことがある。……たまーに、だけどね。
例えば、大きな事故で大きな怪我をして、ものすごく痛がっているけれど意識はあって、救急車の人とかお医者さんとかとしっかり会話をしていた人がいたとする。そんな人でも、手術が終わって目が覚めたら、何で自分が入院している理由が分からなくなったりする。
そんなことがたまにあるんだ」
「不思議」
龍の口の中にはちょっとだけ唾が出て、前よりは潤っていたから、一言だけ言葉が出せた。
それを聞いて、シィお兄さんは小さくうなずいた。
「叔母さんも……ヒメコのお母さんもそうだった。
寅が死んでしまったとき、叔母さんはとても悲しそうだったし、自分のせいだと思ってものすごく悔んでいた。
それでも、お坊さんだとかお葬式に来てくれた人だとか、家族と普通に話しができていた。
お墓にお骨が入るまでの間も、普通に起きて、普通にご飯を炊いて、普通にお掃除をして、普通に暮らしていた。
でも、小さな寅の小さな骨壺がお墓の中に入ったその次の日――。
眠って起きた叔母さんは、全部忘れていた。
寅の納骨のこと、お線香をあげに来てくれた人たちのこと、お葬式のこと、お通夜のこと、病院のこと、寅が死んでしまったこと、事故のこと。
そして、寅という子供が生まれて来た事も、全部」