忘れるという大切なこと。
シィお兄さんはちょっと首を傾げたり、頭をかいたりした。
小学生の子供に難しいことを説明して判ってもらうための言葉を考え、選びながら、シィお兄さんは話を続けた。
「ウチは古い家だからね。独立した家の方も長く続いて欲しいと思ったのかもしれないな。それで祖母はおじさんと叔母さんにもどうしても男の子が生まれて欲しかったらしい。
叔父さんと叔母さんは当然ウチの親父よりは年下だけど、結婚したのはウチの両親より早かった。
それなのに、先にウチの両親の間に俺が――男の子が生まれた、と。
だから叔母さんは、余計に男の子を産みたいと思ったらしい。
毎晩、辰寅神社の……あの池の社のことだけど……あそこにお参りに行っていた」
龍は想像した。
真っ暗な池の縁に立つ、着物姿の人影。
水面を駆ける風になぶられて揺れる髪の毛。
顔は見えないけれど、悲しそうな背中。
想像するだけで恐ろしくて、声も出せない。
「だから、俺が生まれてから十年以上経ってからようやっと子供ができて、それが男の子だったのがとても嬉しかったんだろう。
『寅』って名前を付けたその子……俺の従弟を、叔母さんはとてもかわいがった。
それで、十二年前になるかな……あの日、叔母さんは寅を連れて、自分で車を運転して、ちょっと遠くのデパートに買い物に行った。
夏で、とても暑かったけど、日陰の駐車場に停めた車の中は涼しかった。それに寅は助手席でぐっすりと眠っていた。
叔母さんは寅を車に残して、そのまま買い物に出た。
よく寝ている寅を起こしたらかわいそうだと思ったし、起きてぐずったりしたら買い物をするのが大変になるだろうとも思ったんだろう。
叔母さんは素早く買い物を済ませて、すぐに戻ってくるつもりだった。
実際、叔母さんはすぐに帰ってきたけれど、車の中の温度の上がり方は、叔母さんの想像よりずっと急激だった。
自動車の中で、寅はぐったりして動かなくなっていた。
寅はすぐに救急車で運ばれたけれども、病院に着く前から心臓は止まっていたし、病院についても息を吹き返さなかった」
龍は想像した。
暑いところに閉じこめられて、全身が真っ赤になって、汗が出なくて肌がカサカサに乾いて、呼吸をしていない「トラ」という名前の子供。
狂乱して名前を呼んで、子供の身体を揺り動かす母親。
そんな景色を、龍は見たことがある。十二年前じゃなくて、つい最近だ。
冷房の効いた自動車の中なのに、龍の喉の奥がチリチリと灼けた。唾も飲み込めない。
「……知ってるかい? 人間の脳には便利で大切な機能があるんだ。それは忘れるって事」
龍は渇いた口を半開きにして、シィお兄さんの横顔を見つめた。
忘れ物をしたり、約束を忘れたり、憶えたはずの漢字を書取テストの直前に忘れちゃったりすると、大人も子供も忘れちゃった人のことをとても怒る。だのに、その「忘れる」ことが大切なことだというお兄さんの言葉が、龍には理解出来なかった。
「ものすごく悲しかったこと、痛かったこと、怖かったこと。そういう辛かったことをずっと憶えていると、何かの拍子にそれを思い出したときに、悲しくないのに悲しくなったり、痛くないところが痛く思えたり、怖くないのに怖くなったりする。
たとえ、そのときには楽しかったり嬉しかったりしていても、急に悲しい気分や怖い気分になる。
そうなったら大変だよ。
たとえば、車を運転しているときに急に怖くなったら、心がドキドキしてブレーキやアクセルを間違えて踏んでしまうかも知れない。
料理や工作をしているときに急に辛くなったら、身体がこわばって刃物や道具を落としたり間違ったスイッチを押しちゃったりするかも知れない。
道路を歩いているときに急に悲しくなったら、涙で前が見えなくなって道の真ん中でうずくまってしまうかも知れない」
龍は目をぱちくりさせた。
シィお兄さんの言っていることがさっぱりわからない。
龍のぽかんと開いた口を横目で見たお兄さんは、「これじゃまだ言葉が難しいか」とつぶやいた。そしてちょっと考えて、別の例え方で話した。
「普通に歩いているときに、急に誰かの怒った声が聞こえたらどうなる?
たとえ自分じゃない誰かが叱られていのでも、突然どこかから大きな声が聞こえたりしたら、身体がびくっとしたり、持っていた物を落っことしたりしちゃわないかな?」
目玉ぱちくり、口ぽかんのまま、龍は何度もうなずいた。