叱らないで。
二人はうなずきあって、笑いあった。それで二人とも笑い終わった頃に、
「さて、お話は済んだかしら?」
すぐ近くで、静かな声がした。
二人が振り向くと、戸の所にY先生とシィお兄さんが立っていた。
「兄様、お帰りなさいませ」
「トラ」は慌てて正座をし直して、手をついて頭を下げた。
龍には「トラ」がものすごく丁寧に喋っているように聞こえた。仕草が他人行儀に見えた。
それが龍には「時代劇のお姫様みたい」に思えた。まるで「トラ」だけが今の人じゃ無いみたいに感じた。
でも、それは「トラ」とシィお兄さんの間では、それが普段通りのことらしかった。
なんで龍がそう考えたかというと、もし「トラ」の様子が普段と違っていたら、きっとシィお兄さんだって笑ったり叱ったりするんじゃないかと思ったからだ。
だけど、シィお兄さんは笑ったり怒ったりしないで、「トラ」の方を見て、
「うん、ただいま」
と普通の優しい顔で答えた。だからこの二人には、あの挨拶の仕方がいつも通りのことなんだと、龍には判った。
それからシィお兄さんは、その優しい顔を今度は龍の方へ向けた。
「君は、そろそろ家に帰った方が良いだろう。ご両親も心配していると思うよ」
シィお兄さんは龍にビニルの袋を渡した。
ほんわりと暖かいその袋をのぞき込むと、池に落ちるまで自分が着ていた服が、きちんと畳まれて入っている。
「急いで乾かしはしたけれども、念のため帰ったら一度お日様に当てた方が良いわね」
Y先生は口では龍に話しかけていたけれども、視線は「トラ」の方に向いていた。
その目の色は、ちょっと叱っているような、厳しいモノだった。
さっきまでにこにこと笑っていた「トラ」の顔から、笑顔がすっとかき消えた。
背筋をピンと伸ばして、まだ少し濡れている目の周りをごしごしと拭き、ちょっと乱れていた髪の毛を手櫛で整える。
その動作はからくり時計の仕掛け人形のようにぎこちなくて、正確で、本当に機械みたいだった。
「トラ」の硬い仕草に龍はぎくりとした。「トラ」が怒られてしまうと感じたからだ。
龍には、「トラ」怒られるようなことをしていないと思えたけれども、Y先生の目の色は間違いなく怒っている。
だから龍は「トラ」と同じように背筋を伸ばし、「トラ」と同じように顔と髪の毛を整え、先生の顔をじっと見て、大声で言った。
「ごめんなさい」
Y先生とシィお兄さんと、そして「トラ」が、一斉にすこしびっくりした顔を龍に向けた。
それから、
「どうしたの?」
三人で一斉に言った。
龍はピンと背筋を伸ばしたまま、答えた。
「良くわからないけれど、ごめんなさい。『トラ』は……えっと……ヒメコさんは、悪くないので、謝る必要はないから、僕が謝りますので、叱らないでください」
この時に龍が言っていたことを文字にして書くと、なんだか良くわからない文章になってしまう。でも、その時の龍は、自分の頭の中を自分なりに整頓して、精一杯言葉にしているつもりだった。
だから言い終わった後、龍は不思議にとてもさっぱりした気分になっていた。
自分が言ったことで状況が好転したとか、逆に悪化したとか、そんな他の人の様子のことなんかは、この時の龍にはちっとも関係の無いことだった。




