散らかった子供部屋。
でも、龍がホッとできたのはほんのちょっとの間だけだった。
「トラ」が、
「ただ、ちょっと心配なことはある」
と言い足したからだ。
「心配?」
龍がうわずったへんちくりんな声で訊くと、「トラ」は笑ったまま、
「あの御札はお守りみたいなものだから普通に持っている分には何も悪い事は起きないとおもう。
でも、そもそもあのお札は、池に流す物なんだ。悪いコトが起きませんように、良いことが起きますように、って願いを込めて。
つまり、何かとても悲しいことやとても辛いことがあった人が、それを忘れる為に水に流すことだってある。
お札を池に沈めて川に流せば、悲しいことや辛いことを、寅姫さまや龍神さまが解決してくれるって、強く信じている人たちの中には、お札を流す前にお札に『自分の心』を込めてしまう。
だから、そうやって流された御札には、それ自体に悲しい気持ちや辛い気持ちが残っている可能性はある。
もし、龍が持っていて、突然消えたお札の中に、そういう気持ちのこもっている物があったとしたら……」
「トラ」は笑っていたけれど、話していることは龍にはとても怖いことに聞こえた。
龍はまた唾を絞り出さないとならなくなった。喉の奥がキューっと痛くなる。
顔中に不安が広がって、ほっぺたの肉がひくひくとけいれんけいれんした。見開いた目玉は乾ききっているのに、怖さのせいで涙と鼻水がこぼれそうになってきた。
でも「トラ」は笑っていた。
笑って、
「だから、むしろ無くなったことを喜ぶべきだと思うよ」
そう言って、全身で龍に近づいた、そして「トラ」は龍の両手を握った。
ひんやりした指が、龍の汗ばんだ手を包んでいる。
小さな風が吹いて、「トラ」の短く切りそろえた前髪がふわっと揺れた。
「もしかしたら、キミに不幸が及ばないように、寅姫さまか龍神さまが隠してくれたのかもしれない」
「トラ」の声は、さっき食べた甘い桃の薫りがした。
「寅姫さまが、僕の所に来て、図書袋から御札を持っていってくれたの?」
龍は想像した。
散らかった自分の部屋の中心に、真っ白な着物の寅姫さまがすっと立っている。
彼女は何の迷いもなく部屋の隅に投げ置かれた図書袋を見つけ、その中からあの御札の束を取り出した。
散らかった自分の部屋の中心に、不機嫌そうな龍神が立っている。彼はちょっと躊躇した後、床の上に放り投げてあるくたびれたグローブを蹴飛ばした。グローブは部屋の隅の玩具箱にドライブシュートみたいに落ちて入った。
二人は当たり前のように龍の頭の中で行動している。
龍はおかしくなった。背筋を走っていた冷たいピリピリが、どんどんと暖かくなった。
こわばっていた顔も氷がぐんぐん溶けるみたいに柔らかくなって行く。
龍はプッとと吹き出した。
「トラ」も龍と同じタイミングでクスっと吹き出した。
龍の頭の中に浮かんだ風景と同じモノを「トラ」も一緒に見ているみたいに、まるきり同じ拍子だった。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だから、何の心配もない。大丈夫」
笑いながら、「トラ」ははっきりと言い切った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だから何の心配もしない。大丈夫」
笑いながら、龍もはっきりと言い返した。