人が悲しむことが嫌いで、人が笑うことが好きな神様のおふだ
「トラ」の真面目な顔を見ているウチに、龍の背骨の中に冷たくてピリピリする何かが走り始めた。
龍の口が動いた。
「思い出しちゃった」
頭の中がどんどん真っ白になってゆく。
「なにを?」
小さな声で「トラ」が訊ね返す。龍はカラカラの口の中から唾を絞り出して、無理矢理に飲み込んだ。
「ずっと前。
『トラ』が、僕の集めてた紙切れを『人身御供のそのまた代わり』だって教えてくれた次の日。
朝おきたら、図書袋の中に突っ込んでおいたその紙切れが全部無くなってて。
かわりに君が集めてたのと同じような石が一つ入ってた」
深い洞窟のような、薄暗い部屋の片隅のような、生ぬるくてさびしい空気が龍の体の回りに充満して、重たく覆い被さる。
寝汗をかいた夜の布団の中のように息苦しい。
龍は目を見開いた。目玉がこぼれ落ちるんじゃないかと思うくらい、大きく見開いた。
『もし今目蓋を閉じたら、また変な世界に行ってしまうんじゃないか。
そして今度は、真っ暗闇の中に落ちてしまうんじゃないか』
そう思えてしまって、とても、とても、とても怖い。
怖くて、瞬きみたいな短い時間でも目を閉じたくない。
目玉の上の水分が全部蒸発して、目尻のほうがヒリヒリと痛くなっても、龍は目を閉じなかった。
そうして、皿みたいに開いた目で、じっと「トラ」を見ている。
「トラ」は龍と反対に目を閉じた。
閉じた目蓋の下で、目玉をぐるりと動かした。目玉の動きにあわせて、まつげがぴょこぴょこと波打つ。
龍は「トラ」の口から『自分を納得させてくれる、安心させてくれる答え』が出てくるのを待った。
ものすごく長い時間待ったように思ったのだけども、時計の針はちっとも進んでいなかった。
長く長く思えるけどじっさいはほんのちょっとの間だけ考えていた「トラ」は、大きく息を吐き出して、
「何で消えたのかは解らないけれど……」
と、小さく力無く言った。
龍はがっかりした。カラカラに渇いた喉が、ぎゅっと締め付けられた。
でもその直ぐ後に「トラ」ゆっくりと目を開けて、
「解らないけれど、あの紙切れ……御札は悪いことなんてしない。
持っていても、なくなっても、君の身に悪い事は降りかからないと思う。
だって、寅姫さまと龍神様の御札だよ。人が悲しむことが嫌いで、人が笑うことが好きな神様のお札だもの。
だったら、悪いコトが起きるはずが無い」
「トラ」はニコリと笑った。
龍の頭の中で、寅姫さまもニコリと笑った。……その後ろで龍神がなぜか不機嫌そうな顔で立っているような気もしたけれど。
ともかく「彼女たち」が笑ってくれたお陰で、龍の背骨の中を走って体を覆っていた冷たくて重たいモノは、少し軽くなった。