蝉が鳴く。
言ったすぐ後、龍は変な言い方だと感じた。そして、なんで変なんだろうだろうと考えた。
ちょっと考えた後、
『赤ちゃんが生まれたのはずっと昔のことなのに、まるでこれから生まれるみたいな言い方をしてしまったから』
だと気付いた。
文集用の作文を提出したあとで間違いに気付いたみたいな、変な気分だった。
『「トラ」にも変な風に思われたかな』
龍は子供の「トラ」の顔をちらりと見た。
「男の子が生まれるんだよ」
自分と同じように『昔のことをこれからのことみたいに』言ってくれた「トラ」は笑っていた。笑っていたけれども、それは嬉しそうで悲しそうな笑顔だった。
「それが三百年くらい前。
それ以来、ボクの家に生まれた男の子は、ずっと寅姫と龍神のお社を守っている。
つまり、その仕事は女の子はやっちゃいけないって意味だ。
ボクのお母さんはボクにそのお仕事をやって欲しいと思っているらしい。
ウチにはもうシィ兄さんという立派な男の子がいるけれど、もしもボクがその仕事をやることになったとしたら、ボクは男の子じゃなきゃいけないんだ。
だからボクの母さんは……」
声は尻つぼみに小さくなって、やがて唇から続きが出てこなくなった。
龍は何をどう言ってあげたらよいのか判らなくて、黙り込んだ。
二人とも口をつぐんで、ただお互いの顔を見合っていた。
蝉がシュワシュワと鳴いている。
ちょっと遠くて少し近い場所で、誰かが何かを歌っているみたいな声が聞こえる。
黙っている間に「トラ」の顔の悲しそうな笑顔が、フツウの笑顔に変わっていった。
冷えたガラスが流れるみたいに、硬く、ゆっくりと、少しずつ。
時間がかかったけど、完全にフツウに戻った笑顔なのに、すぐに「トラ」の眉毛は八の時にゆがんだ。
「最初のは、解らないよ」
困り笑顔の「トラ」は、申し訳なさそうに頭を左右に振った。
「最初の? 何の最初?」
龍が裏返った声で訊ね返した。それはとても変ちくりんな声だったから「トラ」は小さく吹き出してしまった。しばらく肩が小刻みに揺れていた。
しばらく笑ったあと、まだ可笑しい気持ちが収まってなかったけれど、「トラ」は笑うのを我慢して
「自分でいくつも質問したじゃないか? その一番最初やつ」
龍は顔を天井に向けて考え込んだ。
「トラ」に訊きたかった解らないことの答えは、全部返ってきたような気がしていた。……答えてもらったセイで余計にこんがらかったこともあったような気もするけれど。
でも、「トラ」が言うからには、まだ答えてもらっていない何かの質問をしていたのにちがいなかった。そして自分は、ほんの少しの間に、質問をしたと言うことを忘れてしまったとしか思えない。
龍には「トラ」の方が勘違いをしているとはちっとも考えられなかった。
『だって、僕より「トラ」の方が頭が良いんだから。今までだって間違ったことなんか一回もなかったから』
だから、自分の忘れん坊ぶりがとても恥ずかしくなった。
それに不安になった。
自分の言ったことをころっと忘れてしまったなんて、また「トラ」に笑われるかもしれない。バカにされるかもしれない。
でも龍は、
『思い出せないことは本当で、嘘をついてわかっている振りをするのは「トラ」に対して失礼なこと』
だと思った。
だから、恐る恐る、
「僕、なんて言った?」
訊いてみた。
「トラ」の肩の揺れがぴたりとやんだ。少しだけ龍をバカにしているみたいに見えていた笑顔も、すっと消えた。
代わりに広がったのは、とても誠実で、とても真面目な、真剣の色だった。
「御札が消えたと言った。でも君は、それがなんの御札で、何処から消えたのかは言わなかった。
だから、ボクには解らない、と答えるより他にないんだ」