その赤ちゃんは男の子。
龍は目蓋をぎゅっと閉じて、鼻水をすすり上げた。それから二の腕の、ヒラヒラした白い着物の袖で、目の周りをごしごしと拭いた。
そうして頭を左右にぶんぶん振って、ぱっと目を開いた。
子供の「トラ」の顔の上で、絨毯から跳ね返った赤い光が踊っていた。
龍は驚いた。
さっきまで見えていた人の顔と、今見えている人の顔は、
『同じだけれど違っていて、違っているけどよく似ている』
だから自分に見えているどっち顔が本当のものなのか判らない。
判らなくなって、混乱して、龍はちょっと慌てた。
どうしたら良いのも判らなかったけれど、とりあえず、もう一度袖で目の周りをこするところからやり直してみようと思った。
龍の眉毛と目の下の頬骨の出っ張った所に当ったのは、白い着物の袖口じゃなくて、日に焼けた灼けた二の腕だった。
龍は、細い自分の「子供の腕」をじっと見た。
子供の腕の先には、子供の手が付いている。
さっき寅姫のお腹の上に置いた大きくてゴツゴツした手に比べて、今見えているのは細くて柔らかくて頼りない手だった。短くて弱そうな指が、 頼りない拳を作っている。
『僕はまた「夢」を見てたのかな?』
龍は、わけの解らない世界から戻ってこれたことにはホッと安心したけれど、あの世界に止まっていられなかったことが、残念に思えた。
それに、大人の「トラ」が側にいてくれないことが淋しく感じた。
龍はほぅっと息を吐き出した。なんだかよく判らない溜息を出きった後ぐらいに、「トラ」が小さく、鋭く言った。
「その赤ちゃんが大きくなって、ボクの家のご先祖様のお婿さんになった」
龍の息を吐き出し終わって空っぽになっていた肺の中に、一度に空気が吸い込まれた。
それは、『ひっ』っというか『えっ』というか『ひゅっ』というか、文字にできない音になった。
「トラ」の言った赤ちゃんというのは、
「龍神と寅姫さまの子供が?」
そういうことだとしたら、さっきまで夢なのか現なのか判らないところで自分が「その子が生まれてくることを楽しみにしていた赤ちゃん」だ。
龍の驚いた顔を見て、「トラ」は怒ったような恥ずかしいようなおかしいよな、よく判らない表情をした。
「……そういう言い伝えなんだよ。
実際のところは、普請奉行の某という人の娘と、この辺の郷士――えっと、城下町に住んでない半分農家で半分侍みたいな人――そのひとの間に男の子ができて、何があったか判らないけれど、大きくなったその子供がボクの家のご先祖様の婿養子になった、みたいなこと……多分そういうことがあったんじゃないかな。
それが姫ヶ池の人柱の話とくっついて、ごちゃ混ぜになって、昔話になっちゃったんだと思う。
本当のことはわからない。
ただ、ボクのご先祖様に寅姫さまの子供がいる事は間違いない。
つまり寅姫さまはボクのご先祖様の一人だから、ボクと似ていてもおかしくはない」
「トラ」言葉の最後の方が龍の疑問の答えだったのだけれども、彼の耳には最初の方しか入ってこなかった。
それで、
「生まれる赤ちゃんは、男の子なのか」
と、独り言を、でもかなり大きな声で言った。