悪い龍。
大人の男の人ぐらいになったのは身体の長さだけではなくて、手や足や胴体や、そして自分では見えないのだけれど、どうやら頭や顔も、人間の男の人のように変わっているみたいだった。
「あれ、凛々しいお顔」
寅姫が楽しそうに言うので、龍はとても恥ずかしい気分になった。ほっぺたが熱くなったから、多分、大人の男の人になっている自分の身体の方も赤い顔をしているに違いないと思う。大人の男の人である自分が顔貌を褒められて顔を赤くしているのだと思うと、龍は余計に恥ずかしくなって、顔はもっと赤くなった。
「うぬは、儂の真の姿よりも、化けた偽の顔の方が良いと申すか?」
龍神は相変わらずの雷声で言った。怒っているみたいな言い振りだったけれど、嬉しいようなくすぐったいような、変な気持ちも混じっている声だと、言った龍自身も思った。
「さて、人の顔も龍の顔も御身の顔に違いなきものでありますれば。
すなわちどちらも同じモノなれば、比べようもなきものにて」
寅姫は大人っぽく笑った。
その顔は、雨の降った翌々日の川原で、龍の疑問に答えてくれたときの「トラ」の笑顔と同じだった。
そう思ったら、龍はなんだかちょっとだけバカにされたような気分になった。そんな気分は久しぶりな気がして、ちょっと嬉しくなった。
嬉しくて笑いたくなったのだけれども、今の龍の顔や声は龍神のものになっているので、龍の思うようには動かない。
大人の男の人の顔をした龍神の龍は、子供のように唇を尖らせた。それから乱暴につま先を動かして、地面に二重丸を書いた。
大人の「トラ」と、大人の龍が、ぴったり並んで立つのがやっとの、狭くて小さな二重丸だった。
そうして、心配そうな声で言う。
「ここが儂等らの住処となる。おおよその大きさはこの円環の内側ほどであろう。
汝が人であった頃に住み暮らした屋敷とは比べようもなく狭いぞ」
「我はもはや人ではありませぬゆえ、広いも狭いも知らぬことにございます」
「だが、汝の胎には人が居ろう」
寅姫の「トラ」は、嬉しそうに笑った。
「人であった我と、人に化けたあなた様の子にございますれば、確かにこの子も人でありましょう」
白い着物の白い帯の上から、彼女は自分のお腹をなでた。
その白い手の上に、龍は自分の手を重ねた。
「人でないモノは、人の子を育てられぬぞ」
寅姫の肩が、びくりとはねた。
「そればかりが心残り」
頬の赤みがすぅっと引くと同時に、寅姫の目から涙がどっとあふれ出た。
龍はお腹の底の方がむずむずするのを感じた。むずむずは背骨に沿って駆け上り、あっという間に頭のてっぺんに届いた。
頭のてっぺんの髑髏の丸いところにぶつかったむずむずは、目玉の方に跳ね返って、鼻の奥の方で止まった。
止まったむずむずはどんどん大きくふくらんだ。ふくらんで、ふくらんで、耐えきれなくなったとき、目玉と鼻の穴から一息に吹き出した。
「儂は、お前を泣かせる悪い龍だな」
たくさんの涙と洟水と一緒に、喉の奥から声が出た。
龍は大人の男の人になった自分がこんな風に鼻水を垂らして泣いてしまったことに驚いた。驚いたけれど、それくらいに泣いてもおかしくないと思った。
だって、これから生まれてくる大切な家族が、自分と一緒にはいられないと言うことに気が付いたのだもの。泣かないでいられるはずがない
「悪い龍は、人の為に尽くそうなどと思わぬモノでありましょう?」
寅姫の声にも、涙と洟が混じっていた。