晴れた日の翌々日に川原へ行く。
その後のことを、龍は覚えていない。ずっと後になってから思い返したことは何遍もあるけれど、ちっとも思い出せない。
気を失っていたから、自分の頭の後側がぱっくりと割れて血が噴き出したことも、それを見た女子児童達が悲鳴を上げたことも、彼は知らない。
学校に救急車が呼ばれて、脳外科の専門病院へ搬送されたことも記憶にない。
なんだか大きな機械で頭の検査をした事も、手術室で頭の傷を縫い合わせてもらったことも自覚がない。
それから一日半眠り続けて、意識が戻ったかと思ったら病院食をお代わりしたことだって思い出せない。
もう二日も入院していくつか検査をした結果が「異常なし」だったからすぐに退院したこともはっきりしない。
無事に帰宅したとたんに、父親からかさぶたが乾き始めた頭をぶん殴られたこともあやふやだ。
つまり、怪我をしたことに関係する記憶は、龍の脳からすぽんと抜けている。思い出せるのは、家に帰って、さらに数日過ぎた頃のことからだ。
それは良く晴れた日曜日だった――晴れていたのはその日だけではなく、その三日前からずっと晴れっぱなしだったらしいのだけれども。
ともかく、その日は目玉が痛くなるくらい良く晴れた日曜だった。
龍は、あの川瀬に出かけた。
川には、澄んだ水がさらさらと流れていた。
何時も来る雨の降った翌々日だと、川の水は少し濁っていたし、流れもゴウゴウと激しい。そんな様子のこの川しか知らない龍には、穏やかな流れはかえってめずらしくて不思議だった。
ただ、龍のこの日の目的は「川」でも「流れてくるもの」でもなかった。だから静かな川が不思議に思える理由を考えたりしないで、すぐに川原に降りた。
龍のポケットの中には、楕円の形をした小さな石があった。図書袋の中にあった茶色の小石だ。
龍は一度小石を取り出して、それを右手の中にぎゅっと握り、そのままズボンのポケットに手を突っ込んだ。
ポケットの中で石を掴んだまま、龍はあたりを歩き回った。
川下にほんの少し進むと、そこはもう整備されたコンクリートで護岸されていて、その先へは歩いて行きようがなかった。
川上の方は、かなり遡ることができた。それでも三十分ほど歩くと、川は地面の下に潜り込んでしまった。鉄の格子が蓋のように水路をふさいでいる。
暗渠という言葉を、この頃の龍はまだ知らない。
結局、龍は上流へも下流へも進めかった。
石ころだらけの川原の、ほんの少しの歩ける範囲を、龍は日が暮れるまでうろうろと、行ったり来たりした。
龍には、この川岸のどこかに「トラ」が居る気がしてならなかった。
白い顔をした、白いシャツを着た、黒っぽい長ズボンを穿いた、自分の名前の付いた石ころを集めている、変な友達が、近くにいる。そんな気がする。
ひょろりと長くて柔らかい白い影が、どこからかひょこりと現れて、大人びた笑顔を向けてくれる。そんな気がして堪らない。
逢いたかった。訊きたかった。
だって「トラ」なら、このところ龍の回りで起きた、むちゃくちゃ怖くて不思議で、それでいてワクワクするあの体験の謎を簡単に紐解いて、すっきりとわかりやすく教えてくれる気待ているから――。
図書袋の中に詰め込んであった『人身御供の代わりの御札』が一枚残らず消えた「理由」。
その図書袋に入れた覚えのない虎目石(らしき石)が入っていた「理由」。
それを「トラ」なら、
「ああ、それは簡単なことだよ」
と笑って解説してくれるハズだ。
『そういうふうに「トラ」に説明して欲しいんだ。「トラ」に教えて欲しいんだ』
龍は日が暮れるまで、川岸を行ったり来たりし続けた。
何度往復したかわからない。
そして何度往復しても、「トラ」は現れなかった。
西の空が赤くなってきて、東の空が暗くなってきた。
「雨が降らないのがいけない」
龍は真っ赤に燃える西の空をにらみ付けてつぶやいた。
龍も「トラ」も、雨の降った翌々日にこの川原に来ていた。
雨の降った翌々日でないと、龍や「トラ」の宝物が見つからないから。
雨の降った翌々日になると、龍や「トラ」の宝物が見つかるから。
だからいつものように、雨の降った翌々日にまたここへ来ればいい。
そうすれば「トラ」は必ずここに来る。
今までもそうだった。そうやって僕たちは友達になったんだから。
遠くから、どこかの自治会が時報として鳴らしているらしい「夕焼け小焼け」の歌が聞こえた。
この分だと、明日も良い天気になりそうだ。
太陽がゆっくり沈んでゆく。龍は肩を落としてとぼとぼと歩いて、家に帰った。
翌月曜日の朝。
テレビの天気予報で、お天気のお姉さんが、
「今日の降水確率はゼロです」
と言っていた。
何とか言う高気圧が普段の年よりもずっと強いのが原因で、今日も明日も、それからもうしばらくの間も、
「晴れの日が続きます」
と、お姉さんが心配そうな顔で言う。
お天気のお姉さんだけじゃない。ニュースのアナウンサーも不安そうな顔をして、
「このまま好天が続くと、深刻な水不足が心配される」
と言った。
テレビの画面には水の量が普段の七割ぐらいまで減っているというダムが映っていた。
「断水にでもなったらどうしましょう?」
龍の母親が夫に話しかけた。父親は面倒くさそうに新聞から顔を上げて、
「この辺りは元々雨が少ないから、溜池を作って水をためてある」
それだけ言うと、父親は「だから水不足にはならない」という答えの所までは言わずに、また新聞記事に目を落とした。
「あ、僕知ってる。社会の時間に習った」
龍はランドセルを背にしたまま食卓に着いていた。喋りながら、大あわてでご飯を掻き込んだ。
父親の言うとおり、この辺りの土地は昔から降水量が少ない。
土地の周囲を山が囲んでいる盆地なものだから、雨雲が山の外側にぶつかると、外側で全部水分を払い落としてしまう。そのあとで山肌から吹き下ろす風は、からからに乾いている。
一応、盆地を東西に別ける形で大きな川がながれている。南北の川から流れ出る僅かな水がその川に向けて流れ込む支流になってもいる。
そんな「流れる水」から離れている地域は、昔から水源不足に悩まされていた。
特に農業用水の不足は深刻な問題だった。
ちょっと昔まで、細い水路の上流と下流で水争いが起こった。
用水の上流で水を使いすぎると、下流の水は少なくなる。水が少なくなると、農作物は育ちが悪くなる。飲み水が無くなれば、人間は死んでしまう。
だから水の配分を取り決めるのだけれども、こっそりと取水口に細工をして、自分の田んぼや畑だけを潤そうとする水盗人が出たりした。
水が盗まれると、他の地域が乾いてしまう。それが続けば、生活と命が脅かされる。
水争いは、口げんかでは棲まない。戦争だと言ってもいい位の大喧嘩になったり、人殺しが起きたりしたという話だ。
そこで昔のお殿様や、役人、それから町や村の普通の人たちが、力を合わせて「雨水や湧き水を溜めておく所」つまり「溜め池」をいくつも作った。
そして人口の溜め池から、あちらにもこちらにも平等に水を分ける水路や地下水道を整備して、町中に張り巡らした。
そのおかげで、今になってもこの辺りでは「降水量が日本でも指折りに少ない地域」だというのに、よほどの日照でもなければ、水道が止まったりしない……と、社会の授業で龍のクラスの担任の先生が言った。
「父さんの言うとおりだ。先生も言っていたし、だからお母さん、大丈夫だよ。水がなくなったりはしないさ」
喋りながら口にご飯を詰め込んで、それをみそ汁で朝食を飲み下すと、龍は居間から飛び出した。
狭い店の中を通り抜け、ほんの五十歩だけ全力疾走して、学校の裏門へ駆け込んだ。
そこからすぐのところに龍の教室がある旧校舎があるのだけれど、そこに直接はいることはできない。
下駄箱のある昇降口は新校舎の方にだけ空いているのだ。
体育館の横のコンクリートの犬走りを通って校庭に抜けてから、真新しい第三校舎の前を進んで……結局正門の近くまで行って……から、改めて校舎の中に入らないといけない。
「面倒くさいなぁ。旧校舎の昇降口をふさいで、出入り口を新校舎だけにしちゃうから、いけないんだ」
文句を言いながら、龍は校庭へ向かって歩いた。