ずっとずっと下の方。
柔らかい香りが、風に乗って流れている。
それが伽羅という香木に由来する香りだなんて難しいことは、龍は知らない。
龍のぼんやりとした顔から目を背けた「トラ」は
「姫ヶ池の、お姫様の事、だけれど……」
ゆっくりと言った。
あんまりゆっくり過ぎて、次の言葉がちっとも出てこなくて、龍はちょっとじれったくなった。
『続きを早く、早く』
と言いたくなったけれど、龍は言わなかった。
横を向いた「トラ」は、視線を開け放った掃き出し窓の向こうに側に投げたまま、しばらく口をつぐんでいる。
まるで、さっきまで動いていた人形がゼンマイの切れた途端にぴくりとも動かなくなったみたいに、静かに止まっている。
あんまり長く声を出さないので、龍の深く落ち沈んでいた心は、心配でドキドキと脈を打ちながら浮かび上がってきた。
彼は「トラ」が見ているのと同じ方向を見た。
きれいな庭があった。さっきまで自分がいたお風呂のある建物と、その反対側に小さな濡縁のある離屋が建っている。
「姫ヶ池のお姫様の事だけれど」
もう一度「トラ」が同じ事を言った。さっきよりちょっとだけ早口になっている。
龍は、また「トラ」黙ってしまうのではないかと心配になった。慌てて「トラ」の顔に視線を戻して、じっと見た。
「トラ」は相変わらず庭を見ていた。でも龍の「『トラ』がまた止まってしまうんじゃないか」という心配は、ちっともいらないものだった。
今度は「トラ」は呼吸一つ置いて、すぐに次の言葉をいった。
「君がどこでどんな寅姫さまを見たのか、ボクにはわからない。でも、寅姫さまとボクが似ていても不思議はないのかもしれない」
「どうして?」
すぐさま龍は訊ね返した。「トラ」は庭を見つめたまま、答えた。
「昔々、姫ヶ池で寅姫さまが人身御供に成って、しばらく経った頃。
池の工事の人足で、最後に人柱の穴を埋めた……つまり、寅姫さまを生き埋めにしたって事だけど……その人は、毎日池に通った。
その人はとても優しい人だったから、
『寅姫さまがあの世で幸せに暮らせますように。寅姫さまのお父上の普請奉行さまも苦しまなくなりますように』
と願ったんだ。
だから自分が知っている『ありがたいもの』を全部唱えた。
お念仏とか祝詞とかお題目とか、オラショとか、神さまも仏さまもごちゃ混ぜになってたけど、ともかく心を込めて一所懸命にお祈りをしていた」
「トラ」はうっすらと微笑んだ。
その途端、龍は自分の身体が、商店街の真ん中にあるデパートのエレベータに乗って一息にぐぅんと持ち上げられたみたいな、おかしな気分になった。
おかげで少し気持ちが悪くなって、思わず目を閉じた。
でもすぐに目を開けた。開けたつもりだった。
そこにあるはずの「トラ」の横顔が無かった。
あるのはキラキラと光を弾く水面だった。それが、龍のいるところよりずうっとずうっと「下」の方に見える。
つまり、龍の身体は、高い空の上にある。そうして、低い地面を見下ろしている。
思わず悲鳴を上げそうになったとき、
「うわぁ!」
自分ではない誰かの口から出た大声が聞こえた。
下の方へ目をこらしてみると、池の畔の地面の上で、男の人が一人、腰を抜かして座り込んでいるのが見えた。
テレビの時代劇でみるような格好で、頭はちょんまげを結っている男の人だ。
その人は皿のように目を見開いている。何か信じられない物を見てしまったというような目だ。
その丸い目で、上を見ている。上というのは、つまり龍のいるところだ。
男の人はまっすぐに龍の目を見ている。