普通でいることは特別なこと。
今度は龍の肩がびくっと揺れた。
本当にあり得ないものを見てしまった。絶対に見てはいけないものを見てしまった。
そして見たくないものを見た気がした。
龍にとって「トラ」はいつも笑っているヤツだった。
打てば響くという諺を、この頃の龍はまだ知らなかったけれど、知っていたら『それは「トラ」のことだ』と思うだろう。「トラ」は龍が投げた質問に即座に答えを返してくるヤツだった。
あんまりあっさり答えを返してくる様が、自分をバカにしているみたいに聞こえる事もあって、それはちょっと癪だったけれども、それでも「トラ」は自分よりずっと頭が良くて、ずっと優しくて、ずっと高いところにいて、見上げるのが当たり前のヤツだった。
泣いちゃうのは、仕方がないと思った。
だって自分だって痛ければ泣く。悔しければ泣く。悲しければ泣くにちがいない。
だから「トラ」だって苦しくなったことを思い出せば泣きたくなる、というのは判る。
悔しく感じれば泣いて当然だし、悲しければ泣くのは当たり前のことだ。
でも、怒るなんてちっとも思わなかった。
龍は「トラ」という人物に、怒るという感情があるなんてことを考えもしていなかった。
龍が目を剥いて「トラ」を見つめていると、次第に「トラ」の白い怒り顔の上に薄い笑顔が被さってゆくのが判った。
怒りは見えなくなっただけで、消えたわけじゃない。「トラ」は怒った顔の上にペラペラに薄い笑顔のお面を付けただけだ。
しばらくして、「トラ」の唇が小さく動いた。
「保健室」
その言葉を言うことに、とてもとても勇気が要るみたいだった。
勇気を振り絞って言い終わった「トラ」の顔からは、怒っっていることがわかる、見えない棘みたいなものがすっかり消えていた。
「保健室?」
龍は「トラ」が言ったのと同じ言葉を繰り返した。「トラ」はうなずいて、付け足した。
「学校に行ったときは」
「学校に行ったときは?」
龍はまた同じ言葉を繰り返す。そしてまた「トラ」はうなずきを返す。
ただし、今度は付け足しの言葉がない。
何か説明してくれるだろうと思っていた龍は、それきり黙ってしまった「トラ」の、開かない唇にしびれを切らして、ちょっとドキドキしながら小さな声で訊ねた。
「まるで、学校に行くのが特別みたいだね」
「特別だよ」
ままごと人形のようにつるりとした笑顔で「トラ」が答えた。
その小さな声は、まるで川のそこから聞こえたようだった。白い顔は茶色い水の中で浮き沈みする紙切れみたいだった。
龍はブルッと震えた。
石を転がしながら流れる川の、轟々という水音が、頭の中にあふれた。その騒音の中で、龍はここにいない人の声を聞いた。
『どうしても教室にいるのが嫌な人は、担任の先生が許してくれればそれで良いんだよ』
校長先生の声だ。
あのとき……「トラ」が救急車で運ばれて、龍がパニックになったとき、校長先生が言った言葉。
校長先生はほんの少し辛そうな顔をしていた。
そうして、学校に毎日行くことも、教室で授業を受けることも、クラスメイト全員を友達と呼べることも、当たり前だと思っている龍を『優秀な小学生』だと言った。
教室で給食を食べるのが嫌な児童は、教室でない場所で給食を食べてもいいのだとも言った。
『あれは「トラ」の事なんだ!』
龍は脳味噌の中で叫んだ。
自分の中に心棒みたいに立っていた「当たり前の事」が、自分より高い場所にいると信じているトモダチにとっては「当たり前ではない事」だったと、気付いた。
龍は、自分を空から吊していた細くてまっすぐな蜘蛛の糸が、自分の頭のすぐ上でプツンと切れたような気分になった。
「だって、『トラ』はこんなに頭が良いのに」
まだ手の届きそうなところを漂っている細い「自分の常識」に、龍はもう一度捕まろうとした。
すると「トラ」が鼻水をすすり上げて答えた。
「勉強は好きだ。でも学校は苦手なんだよ」
龍の掴んだ蜘蛛の糸は、龍がそれを掴んだ拳のすぐ上で、またプツンと切れた。
「学校に行かなくて、どうやって勉強するのさ」
龍は「トラ」のまた両手をぎゅっと握った。
すがりついた、と言った方が良い。
それは龍にとって、遙か上空できらめいている蜘蛛の糸だった。確固とした常識だった。絶対に離したくない信念だった。
でも「トラ」は目を伏せてしまった。体中の力が抜けたみたいに、「トラ」の両手は重たく動いて、龍の手の中からぽとりと落ちた。
「本を読む、レコードを聴く。テレビを見る。それからウチの人に……お母さんに教わる」
龍の両手は空っぽになった。
どこからともなく、ヒグラシの鳴き声と、お線香の煙が漂ってきた。