閉所《狭いところが》恐怖症《怖い》。
言い終わると同時に「トラ」が薬指を伸ばそうとしたので、龍は慌てて身体全体を「トラ」に向け直して、まだ小指だけが立っている状態の「トラ」の手を、自分の両手で覆うように握った。
「戸が閉められたら、止めろって言えばいいじゃないか。開けてくれって叫べばいいじゃないか」
彼は顔を思い切り「トラ」の鼻先に寄せた。
「トラ」は龍の目をじっと見返して、「うん」と小さな声で答えた。
「じゃあ、なんで言わなかったんだよ」
「ボクは、小さい頃から狭いところが嫌いなんだ。いいや、嫌いというか……そうとても怖いんだ。
なぜだか知らないけれど、とても怖いんだよ。狭いところに長くいると身体が動かなくなって、何もできなくなるくらいに怖い。
例えば、押し入れとか、トイレとか、小さいエレベーターとか……そういう、手を伸ばせば壁に届くぐらいの狭い場所が、怖い。ここにいたら死んじゃうんじゃないかと思うくらいに怖い。
ちょっとでも窓や扉が開いていて、外が見えるならそれでもなんとか大丈夫というか、そこまで怖くはならないんだけど。それでもやっぱり少しは怖い。
それで……あの時の……用具室はとても狭くて、薄暗くて、暑苦しかった。
だから怖くなって……怖くなり過ぎて、身体が震えて、心臓がバクバク脈打って、息が苦しくなって、声が出なかった」
龍は唾を飲み込んだ。
暗くて狭くて暑苦しい場所――。
半地下の、穴蔵の中で、座り込んでいる「トラ」のすがたが、目玉の裏側に浮かんできた。
「じゃあなんで、わざわざ用具室になんか入ったりするのさ」
言ったすぐ後に、龍は、
『きっと「トラ」は用具室に掃除用具かなにかを取りに入ったに違いない』
と思いついた。
だって、それ以外に怖くて仕方がない場所に入る理由なんてないじゃないか。
だから龍は、小さな声で付け加えた。
「なにを取りに行ったのさ?
ほうき? モップ? バケツ? ワックス?」
「トラ」は四回首を横に振った。
それから消え入りそうな小さな声で、
「そこで待ってて、と言われたから」
と答えて、またうつむいた。
当然、龍は訊いた。
「誰に?」
「トラ」はまた首を横に振った。今度はそのあとに何も言わない。
誰だか知らない人だったのか、それとも知っている人だけれど答えたくないのか、それは龍には分からない。
「そいつは『トラ』が狭いところが嫌いって知ってた?」
龍は続けざまに訊く。「トラ」の返事はさっきと同じだった。
やっぱり知らない人だったのか、知っている人だったのか、龍には分からない。
「トラ」はうつむいたまま黙り込んだ。龍の手の中で、彼女の手が小石のように硬く冷たくなってゆく。
龍は両手を開いた。そして真っ白に固まった「トラ」の手の薬指をつまんで、ぎゅっと引っ張って立てさせた。
「何で学校にいたのさ」
できるだけ優しく聞いたつもりなのだけれど、「トラ」にはそう聞こえなかったようだった。
すぼめていた肩が、びくりと跳ねた。
「あの学校の児童だから……一応は」
下を向いて彼女はようやっと答えた。
龍は仰天した。
今までに学校の中で「トラ」を見かけた事なんて一度だってない。
だとしたら、龍とは学年が違うか、クラスが全然違うか、どっちかだろう。
「学年は? クラスは?」
思わず声が大きくなった。
「トラ」の顔がゆっくりと持ち上がった。
青白くて小さな顔は、寂しそうに怒っていた。