ごめんで済んだら警察は要らない。
「ごめんね」
小さく言った「トラ」を、龍は見た。
やっぱり笑っていた。
笑っていたけれど、「トラ」の白目は真っ赤になっていた。涙が頬から顎まで筋を作っている。
見ちゃいけないモノを観たような気分になって、龍は急いでそっぽを向いた。
そっぽを向いたけれど、
『あ、今「トラ」の心にも、トゲがささっているんだ』
と、龍は理解した。
ただ、そのことが解っただけで、そういうときにどうしたら良いのかは見当がつかない。
大体、自分の心が痛いのだってどうしたら良いのかが解らないのだもの、そんな自分が「トラ」にどうしてあげたらいいのかなんて、解るはずがない。
確かなのは、困っている「トラ」の顔なんか見たくないってことだ。
苦しんでいる「トラ」の姿なんて、二度と見たくないってことだ。
龍の頭の中に、突然、救急車のサイレンが聞こえた。
あの時――「トラ」が本当に救急車で行ってしまったときに――は、ちっとも聞こえなかった音が、今の龍には聞こえている。
「なんでお前が謝るんだよ。ごめんで済んだら、ケーサツは要らないんだぞ」
自分でもよくわからないことを言っていると龍は思った。思ったけど、口から出てしまった言葉を止めることはできない。
龍は思い切り鼻水をすすり上げた。
目をぎゅっとつぶって余分な涙を全部押し出し、二の腕で目の周りをごしごしとこすって拭いた。
ほっぺたの上の所と、日焼けした二の腕とが、目から出た塩水でヒリヒリした。
龍は目をつぶっったまま顔を天井に向けたから、
「とにかく、全部解からないんだから、全部説明してよ」
と、自分が言ったとき、本当は「トラ」がどういう顔をしているのか判らなかった。
でも、龍の頭の中では「トラ」が泣きながら笑っている。
本当に「トラ」がそんな顔をしているのか、確かめて見るのが怖い。
だから、
「全部って、どれ?」
という力無い返事が返ってきたとき、まだ龍は顔を上に向けたままでいた。上を向いたまま、龍は目を開けた。
天井の板の木目が、細長い三重丸みたいな模様に見える。
水に何かが落ちた時の波紋みたいにも見える。
三重丸をにらみつけた龍は、頭の中にぐちゃぐちゃに浮かんだものを、片端から言った。
「集めた御札が消えたこと。
姫ヶ池のお姫様が『トラ』に見えたこと。
『トラ』が学校にいたこと。
倉庫の鍵が外側から掛かっていたこと。
着物のお年寄りが『トラ』を『トラ』って呼んだこと。
『トラ』が池にいたこと。
Y先生の家に『トラ』がいること」
一息にまくし立てたあと、彼は今度は口をぎゅっと閉じた。そうして、見開いたままの目玉を、ちょっとだけ動かした。
視界のギリギリ端っこに、「トラ」の顔が入った。
「トラ」はまっすぐ龍を見ていた。涙は流れるままに流れている。唇が小刻みに震えている。
そして苦しそうに微笑んでいた。
龍が慌てて目玉を元に戻そうとしたとき、「トラ」は指をチョキの形にした右の手をすっと挙げた。
龍は目玉を元に戻すのを止めた。止めて、めい一杯「トラ」の方に黒目を動かした。
「トラ」は、龍が自分を見ていることをちゃんと確認してから、はゆっくりと考えながらしゃべりはじめた。
「先生は、ボクのお父さんの弟のお嫁さん。つまり僕の叔母さん。
お父さんは僕が生まれてくる前に死んだ。それでボクとお母さんはこの家の離屋に住んでいる。
離屋にはお台所とお風呂は付いていないから、ボクはご飯の時とお風呂の時は母屋に来る。
だから今、ボクはここにいる」
言い終わると、「トラ」は中指を折りたたんだ。そして一つ息を吐いてから、またしゃべりはじめる。
「姫ヶ池のほとりに小さなお社があったでしょ?
夏の間、ボクはお社の側の木陰にシートやバスタオルを引いて昼寝をするんだ。あそこはとても涼しいし、お墓が近いから普段はあまり人が来ない。今日もそうしていた」
言い終わったトラは、人差し指を折りたたんで、大きく深呼吸をした。
「龍が『お年寄り』だと思っている人は、ボクのお母さんだ」
「え!?」
龍はの口から大きな声が出た。
龍は目玉の位置を変えないで、頭をぐるんと動かして、顔を「トラ」の方へ向けた。
「トラ」はやっぱり笑っていた。