どっちでも良いよ。
天井が回っている。
でも龍は目をつぶっているのだから、本当に天井が回っているのか、そんな気がしているだけなのか、それとも自分の体が回って落ちていっているのか判らない。
「助けて」
腕を突き上げた。龍の腕は何にもない空間で頼りない水草みたいにゆらゆらと揺れる。
てのひらを大きく、指の間が破けるんじゃないかというくらい大きく広げた。
指にも、てのひらにも、何も触るものがない。
指先から戻ってくる血液が冷たい。二の腕の筋肉がぴくぴくした。
「助けて、『トラ』」
言った直後、彼の指先にひんやりとした物が巻き付いた。
そっと目を開けた龍は、天井と床の間でふらふら揺れている自分の指が、細くて白い、そして冷たい別の指に握られているのを見つけた。
指は白い腕に繋がっている。長い腕は華奢な肩に繋がっている。肩の上には少し長い首があって、首の上にはまぁるい頭が乗っていた。
遠くに見えるその顔は真っ白で、短く切りそろえられた真っ黒な前髪は少し湿っているようで、わずかに前に垂れ下がっている。
ほんの少し八の字に下がった眉毛の下には、黒目がちな瞳が不安そうに光っていた。
「『トラ』?」
龍の耳に、そう言う自分の声が聞こえた。
同時に、
「ひぃちゃん?」
そう呼ぶY先生の声も聞こえた。
龍は混乱した。自分の声が呼んだ名前と、先生の声が呼んだ名前はぜんぜん違っていて、絶対に重ならない音だった。
でも、自分の目と先生の目が同じ物を見ているのは間違いなかった。
二人から見つめられている、「トラ」とも「ヒメコ」とも呼ばれているその人は、とても困った、すごく戸惑った顔をしていたけれど、龍の手をしっかり握ったまま、
「うん」
小さな声で言った。
細い指先できれいに切りそろえられた爪が、ピンク色に光っている。
「『トラ』? 『ヒメコ』ちゃん?」
龍が訊くと、
「うん」
困り顔が上下に揺れる。
龍は混乱した。
どうしても「トラ」という名前の友達と、「ヒメコ」という可愛らしい名前の会ったことのない女の子とが同じ人のことだとは思えない。
だいたい「トラ」が「ヒメコ」ちゃんだったら、「トラ」が女の子だということじゃないか。
混乱した龍はもう一度、ちょっとだけ言葉を変えて訊いた。
「『トラ』で、『ヒメコ』ちゃん?」
訊いておいて、自分でちょっと可笑しくなった。
その前にいった言葉と、ほんの一文字しか違っていない。
なんだか可笑しくて溜まらないのだけれど、名前のことで笑うのは「トラ」な「ヒメコ」ちゃんに悪いと思った。だから唇をぎゅっと引き締めたのだけれども、ほっぺただけはこらえきれずに、ぴくりと持ち上がった。
ある人からは「トラ」と呼ばれて、別の人からは「ヒメコ」と呼ばれているらしいその子は、龍をじっと見ていた。
そうして、その子の頬がぴくんと動いた。ぴくんは、気恥ずかしそうなニコリに変わった。「トラ」で「ヒメコ」な子は、小さく、
「うん」
とうなずいた。
龍はホッとした。
自分が「トラ」な「ヒメコ」ちゃんの名前のことで笑ってしまったことを、「ヒメコ」ちゃんな「トラ」が怒っていないらしいというのが判ったからなのか。
それとも「トラ」の笑顔を久しぶりに見たからなのか。
どっちなのかわからない。
多分両方の理由が正解だとも思う。
ホッとはしたけれど、それでもまだ龍はちょっと混乱していた。
「どっちで呼んだらいい?」
龍は「トラ」で「ヒメコ」ちゃんな、とても大切な友達の手をぎゅっと握った。
「ヒメコ」ちゃんな「トラ」は龍の手をぎゅっと握り返した。それから気恥ずかしそうで、寂しそうで、嬉しそうで、悲しそうな笑顔で答えた。
「どっちでも良いよ。どっちもボクの名前だから」