グニャグニャ。
Y先生はちらっと右側――龍から見たら左側――を見た。
脱衣所の壁に丸い時計が一つ掛かっている。短い方の針がIが三つ並んだローマ数字の近くを指し示していた。
「丁度良い時間ですね。約束のとおり、おやつに桃を剥きましょうね。あの子も一緒に食べてくれると良いんだけれども」
先生が手招きをしながら歩き出したので、龍は慌てて後を付いて脱衣所から飛び出した。
一歩出た廊下で、龍は何気なく後ろを振り返った。
脱衣籠の縁に、湿ったバスタオルの端がだらりと引っかかっている。
『やっぱり、どこかで見たことがあるんだよなぁ、あれ』
龍の体に付いていた水滴を全部吸い取ってくれたタオル。
最初はふわふわだった表面が、次第にねっとりと重くなって行く感触。
じっとりと水がしみこんで、重たくなった布。
どこかで見たことがある。
どこかで感じたことがある。
つい最近。
ついさっき。
龍の足は二歩目を踏み出す前に止まった。
気付いた。
思い出した。
池の端、小さな祠、墓石の群れ。
びしょ濡れになった自分の身体に掛けられていた、真っ白なバスタオル。
墓石に刻まれた『寅』の文字。
地面へ放り捨てたときの、重たげなバスタオル。
背中に寒気が走った。
脱衣所に充満しているぼんやりとしけった空気が、冷たい。
龍は脱衣所のドアをぴしゃりと閉めた。
白い湯気がドアの隙間からするするとあふれ出る。それは竜巻みたいにぐるぐるとねじれて、細く長く伸びてゆく。
怖い。ただ、怖い。
龍は自分の体の中の「何か」が自分の体から落っこちて、地面の奥に吸い込まれていったような気がして、情けない声で叫んだ。
「うわぁ」
足首も膝も腰骨も背骨も首も、体をまっすぐに立てておくことの役にたたなくなった。
高く積み上げたつみきがバラバラに崩れるみたいに、さらさらの砂を積み上げた高い塔が崩れ落ちるみたいに、人型に切り抜いた紙切れが倒れるみたいに、龍はその場にぺたんと尻餅をついた。
立ち上がろうとしても身体が龍の言うことを聞いてくれない。一歩だって動けない。足の先の方が地面にめり込んでいるような気分がする。
龍が転んだことに気付いたY先生が、
「どうしたの!」
血相を変えて龍を抱きかかえた。グニャグニャになった龍の体を引っ張り上げて立ち上がらせる。
さっきまでお風呂で暖められてピンク色に上気していた龍の顔が、真っ白になっていた。
「落ちた、落ちたよぉ! おぼれちゃう、苦しい、苦しい!」
龍の唇が紫色になっている。歯の根をガタガタ震わせながら、龍は先生にしがみついた。
頭も持ち上がらない。上目遣いで天井を見る。薄い黄土色の天井には、ワックスでぴかぴかに磨かれた廊下に弾かれた金色の光がゆらゆらと揺れていた。
龍の目の前を、白い湯気がゆっくりと上昇してゆく。
白い渦巻きの中に誰かがいる。その誰かが、自分を置いて行ってしまう。
取り残される。一人きり置き去りにされる。
「待って!」
龍は叫んでいた。
自分の叫び声が遠くから聞こえた。
上からも下からも右からも左からも前からも後ろからも、ギュウギュウ押さえつけられているような気がした。
龍はてのひらを上へ突き上げた。手の甲も爪の先も真っ白だ。
自分の手が遠くに見える。
怖いという気持ちが、ギシギシと音を立てて彼の体を押しつぶしてゆく。
「待って」
もう一度、龍は言った。それは小さくて誰にも聞こえない声だった。
実際、Y先生には龍の声は聞き取れなかった。
先生は龍が唇をブルブルと震わせているだけに見えた。それは龍が急に「怖かったこと」を思い出したのか、あるいは急に具合が悪くなったかして、体が痙攣しているのだろう考えた。
Y先生は龍の体をぎゅっと抱きしめた。
確かに龍は、怖かったことを思い出している。それで急に具合が悪くなったのは間違いがない。
怖くて、気持ち悪くて、しかたがなかった。でも、龍は先生に抱きつき返さなかった。だからといって、先生から離れようともしなかった。
龍には、先生が自分を抱きしめられてくれていることが判っていなかった。
それどころか、Y先生がそこにいることだって忘れていた。自分が先生の家にいることも、キレイさっぱり忘れていた。
龍の頭の中で、ゆらゆらと揺れる天井の金色の光と、ぐんぐん上ってゆく銀色の泡と、ざわざわ揺れる木の枝とが、一緒くたになってぐるぐる回っている。
そのぐるぐるの向こう側に、いくつもの石の塔が見え隠れする。
石の表面には文字が刻まれていた。
龍の、できることなら見たくもない文字だった。そして絶対に声に出して読みたくない文字だった。
なのに。
龍の唇はそう声を出すように動いて、喉もその音を出すように動いて、その上に肺がちょうど良くへこんだ。
「『トラ』」
確かな声が出た。その自分の声が龍には怖く聞こえた。ぎゅっと目をつぶる。
目蓋に涙が押し出されて、ぼろぼろとこぼれた。
頬骨の一番高いところからほっぺたの上を通って、顎の先まで流れてくる間に、涙はひんやりと冷たく冷え切った水玉になっていた。