本当の名前。
「どうやらあなたはひぃちゃんにとって特別なお友達らしいのよね……。とても大切なお友達……」
Y先生は一回息を吐いてから笑い直して、
「ひぃちゃんのお母さんはね……どうしても男の子が欲しかったのね」
先生は、何を言ったら良いか、何を言わない方が良いのかを、言いながら考えて、考えながら言った。
「だからひぃちゃんがお腹の中にいた頃から男の子の名前を付けて呼んで、青のベビー服や、青い色のガラガラとかおしゃぶりとかを買って、布団や毛布もタオルも、全部青い色でそろえちゃったの。
男の子が欲しすぎて、生まれる前から『この子は男の子だ』って、思い込んじゃったのよ。
あんまり強く思い込んでしまった物だから、生まれてきて女の子だって判っても、女の子のお洋服や玩具を買う気には、どうしてもならなかったみたいだった。
最近はテレビのヒーローの身体が赤や黄色だったりヒラヒラしたマントを来たりするから、男の子用の服でも赤や黄色のものや、ヒラヒラしたものもできてきたけど、ひぃちゃんのお母さんはそういう色や形の物は選べなかった。
男の子の着る物や持ち物は、青や緑や黒っぽい物がいいと……あの人はその方が男の子っぽいと考えているのでしょうね。
だって、あの子がお腹の中にいた一年近くの間、ずっと男の子のつもりでいたのですもの。急に女の子だって思い直すなんてこと、できなくなっちゃったのね。
それだから名前も、新しく女の子っぽいものを考えられなかった。お腹の中にいたころ呼んでいた男の子の名前をそのままつけちゃったの。
役所に出す書類にその男の子の名前書くのは、私たち……家族や親戚が止めてさせた」
Y先生が「家族や親戚」という前に「私たち」と言ったのを、龍は聞き逃さなかった。
だからひぃちゃんという子供は、Y先生の家族の一人なんだろうと想像した。
「家族達が一所懸命に説得して、戸籍上の……つまり市役所に出した本当の名前は、ヒメコという女の子らしい名前になった。
でもひぃちゃんのお母さんはひぃちゃんのことを『正しいの名前』では呼べない。
ううん、彼女にとってはヒメコって名前のほうが間違いで、自分の付けた名前の方が『正しいの名前』なのかもしれないのだけれど」
先生はふう、と息を吐いた。とっても苦しそうなため息だった。
「ともかく、ひぃちゃんのお母さんは、ひぃちゃんが大分大きくなった今でも、男の子の服ばかり買ってくるの。
ズボンもシャツも、それから下着も、全部。
玩具も水鉄砲とかけん玉とかミニカーとか、超合金の人形とかをあげるの。
小学校に上がる年に買ったランドセルは黒。ノートも鉛筆も青や緑や黒っぽいものでそろえている。
お母さんがそういう物ばかりそろえるから、ひぃちゃんはズボンもシャツも下着も男の子の物を着ている。それしか着る物がないのだものしかたがないわね。
私は時々、
『ひぃちゃんが女の子の格好をしたいなら、女の子の服を買って着せてあげたいな』
と思うことがあるのだけれど、ひぃちゃんは女の子の服や女の子の玩具は欲しがらないのよ。
本当に自分が欲しくないと思っているならそれでいいのだけれど。本当は欲しいのにお母さんが喜ばないから我慢しているのだとしたら……。我慢のしすぎは、身体にも心にも良くないのだもの。
ああ、でも今日は、ひぃちゃんの服が君を助ける役に立ったから、あの子の服が男の子の服で良かったと思いましょう」
先生は笑った。無理矢理に笑ったみたいな顔だった。
龍はそのひぃちゃんという女の子が、どんな子供なのか知りたくなった。
お母さんは男の子だと思い込んでいて、他の家族は女の子だと思っているその子は、自分ではどちらだと思っているのだろうか。
「あの、ひぃちゃん……じゃなくて、ヒメコさんにお礼を言いたいんですけれど。服のこと、貸してくれてありがとうって」
龍が言うと、Y先生はちょっと考え込んだ。そして、
「君に会わせて良いかどうか……」
なんていう、なんだかよくわからない言葉を口の中でモゾモゾ言った。
何故先生が悩んでいるのか、龍にはさっぱり判らなかったけれど、失礼にならないように言葉を自分なりに選んで、
「ヒメコさんが会いたくないって言ったら、会いません。でもお礼は言いたいです」
頭を下げた。