学校へ行く。
朝が来た。
龍は半分ほど寝ながら着替えた。朝食をガツガツと食べ終えてもまだ少し寝ぼけていた。あくびをしながらランドセルを背負い、図書袋を袈裟にかけたぐらいで目が覚めた気がした。体操着の入った巾着袋をグルグル振り回しながら、お店の出入り口兼用の玄関から飛び出した。
そうすると大体、背中の方で、
「飛び出さないで! 車が来たら引かれちゃうわよ!」
みたいな母親の声がする。
龍は、
『この時間帯の通学路は車両通行止めだから、大人がちゃんと交通ルールを守っていてくれたら、交通事故になんかあうもんか』
なんて思ったり、時々口に出して言ったりする。
ほんの少し大股で走ると、すぐそこに小学校の裏門がある。
本当は登校するときは正門から入るのが決まりだけれども、裏門が閉じているわけでもないし、誰かが見張っている訳でもない。
だから龍は、集団登下校とか、誰かと待ち合わせをしているとかじゃなければ、裏門から登校する。
龍のクラスの教室がある第一校舎は、裏口から入った方が近い。
龍が通う小学校には校舎が三つある。建築が古い順から「第一校舎」「第二校舎」「第三校舎」と呼ばれることになっている。
なっているのだけれども、この漆喰を塗り込めた壁に、木の窓枠、黒い瓦の切妻屋根の明治の末期の木造建築物は、旧校舎と呼ばれりことが多い。
もう一つ鉄筋コンクリートで建てた第二校舎が「新校舎」との対比があったからだろう。
しかも、その古さのために「市指定文化財」なんてものになっているから、窓ガラス一枚の修繕をするにも役場に稟議書を提出してハンコをもらうという、余分な手間が掛かるようになっている。
文化財指定を受けたとき、この旧校舎は地域の資料館になる予定だった。
それも見越して、元からある「新校舎」の横にさらに四角いコンクリートの「第三校舎」が増築された。
第二次ベビーブームなんていう現象が起きたのは、ちょうどその頃だ。六年後には生徒が急増加することが予測できた。新校舎と第三校舎だけでは教室の数が足りなくなる。
そのため旧校舎の資料館化は無期限延期になった。
そしてこの年度は、龍の学年の四クラスがここで授業を受けることになった。
クラスメイトの内には、
「こういうのって、貧乏くじを引いた、っていうんだぜ」
なんて文句を言うものもいた。
すきま風が吹き込んで寒いとか、すり減ってでこぼこした床を掃除をするが面倒だとか、第三校舎にある図書館までの移動距離が長いとか、確かに難点はたくさんある。
同時にこの校舎で学べることを喜ぶ者もいる。
その代表が龍だ。
隙間風で、壁に張り出したプリントや図画の時間に描いた絵が揺れるのが妙におもしろいし。新校舎のひんやりとするコンクリートの床よりも、旧校舎の木の床のほうが暖かい。図書室なんて、元からそんなに行かないんだから、遠くたってかまわない。
それに木の床には龍のお気に入りがある。
ちょうど彼の机の足がある辺りの床に直径二センチぐらいの木の節跡があった。その中側が栓のように抜けたりはまったりする。
退屈な授業中、龍は上履きを脱いだ足先で節を抜いて、消しゴムかすの丸めたヤツを節穴の中に蹴り落とす遊びをする。龍はそれを「床ゴルフ」と呼んでいる。本当のゴルフはやったことが無いけど、ボールを転がして穴に落とすところがそっくりだと思ったからだ。
これは新しいコンクリートの床では楽しめない。
床ゴルフはを授業中にやるのは龍一人だけれども、休み時間には前後左右両隣の級友達も参戦する。
その日の一時間目は、国語の授業だった。
「今日と明日の国語の時間で読書感想文を書きます」
そのために、まず今日は本を選んで、読み始める必要がある――。
と、担任の先生が言う。
龍のクラスの四十三名は、それぞれ図書袋を肩に下げて、第三校舎の端っこの図書館へ向かった。
道のりは、遠い。
文句を言いたいのはやまやまだけれども、児童達は他の教室の授業の邪魔にならないように、黙って歩かないといけない。
先頭は担任のチョット若い男の先生で、児童が背の順の二列になって続いて、一番後ろに副担任のチョット年寄りの女の先生がついて行く。
龍の図書袋の中には「代本」と呼ばれている板が入っている。代本の、本で言うと背表紙に当たるところに、児童一人取りの学年とクラスと名前の書かれたテープが貼り付けられている。
学校の図書館で読みたいての本が見つかったら、書架から本を引き抜いて、代わりにその板を突っ込む。そこにある本は貸し出し中ですよ、というのがすぐに解るようになっている。
それからその本の裏表紙裏に着いている貸し出しカードに学年と名前を書いて、そのカードを受付の司書さんに提出する。
貸出期間は大体一週間。それまでに返さないと担任の先生に叱られる。本を破ったり、汚したりすると、図書館の司書さんに注意される。
図書館の本は、学校の児童全員の物だ。
「自分の物が壊れたり汚れたりしたらイヤでしょう?」
一年生ぐらいの時に、龍は図書館の司書さんに言われたことがある。
新しい校舎の新しい図書室は、まだラッカー塗料の匂いがする。
窓の遮光カーテンが半分位閉まっているし、天井の蛍光管も半分ぐらいは消えているから、チョット暗かった。
本を読むところなのになんでこんなに暗いのか、龍には理由がわからない。特に、一番奥の書架のあたりは蛍光管が全部外されていて、ものすごく暗い。
それにそこにある本はは大きくて古いものが多い。だから龍には、なんとなく不気味で、なんとなく怖い場所に思える。
授業で読む本を選ばなければいけないのだけれど、
『あそこの本は絶対止めよう』
と、龍は思った。
四十二人は図書館に並べられた長机の思い思いの場所の椅子の背に図書袋を掛けるた。それから代本と本とを取っ替え引っ替えに書架へと出し入れし始めた。
龍は図書袋を椅子に置いて、中に手を突っ込んだ。指先が代本に当たった後、コツ、っと音がした。
指が代本に当たった音とは違う。何か別の硬い……でも小さい……ものが当たった、尖った軽い音だ。
龍は袋の口を大きく開けて、中をのぞき込んだ。
薄暗い闇のなかに、代本の背中、そこに書かれた自分の名前が見える。
入っているのはそれだけだ。それ以外の物はない。
龍は気付いた。
昨日までそこに入っていたはずの物がない。
雨に濡れても、川の水にさらされても、破れたり千切れたりしない、紙切れの束が――。
龍は袋の口を両手で閉じ、天を仰いだ。|虫が喰ったような小さな穴がのある《トラバーチン模様の》白い板が、視野いっぱいに広がっている。
まぶたを強く閉じた。
もう一度、今度は大きく開ける……まぶたも、図書袋の口も。
幼稚園の頃に好きだったテレビのキャラクタがプリントされたの内張布が、薄明るくて青い影を作っていた。
代本を持ち上げる。
その下に、小さな固まりがあった。
差し入れた指先に、冷たく硬い感触を跳ね返してくる。
つまんでみた。
角のない、つるつると滑る、長細い丸の形をしている。
持ち上げてみた。
ほんのりとした闇の中から浮かび上がってきたのは、小さな石ころだった。色は明るい茶色で、濃い茶の縞がある。
龍は、目の前が真っ暗になる……という感覚を、この時初めて味わった。
その真っ暗の向こう側に、白い影が見える。
妙に色白で、長袖と長ズボンで、刈上げ頭の人影。
椅子と机が大きな音を立てて倒れた。
その中心で、龍は仰向けに倒れて、目を剥いたまま気を失っていた。