新しいお風呂場。
それはともかくとして、先生に「兄ちゃん」と呼ばれるからには、シィ兄ちゃんさんには弟か妹がいるのだろうということは、龍にも想像できた。そうすると、今さっきY先生の言った「ヒィちゃん」は、
『シィ兄ちゃんさんの「弟」だろう』
と、龍は考えた。それから、
『多分、小学生の男の子なんだ』
と思った。
だってそうじゃなければY先生が「ヒィちゃん」用に買い置きしてあった肌着を、小学生の男の子である龍に貸すことはできなじゃないか。
『しりょうお兄さんが「シィ兄ちゃん」なら、「ヒィちゃん」だと……もしかして「ひりょう」とかいう名前じゃないだろうか』
龍の頭の隅っこに、芋畑を作ったときにシィ兄ちゃんが担いできた、ちょっとだけ臭かった「肥料」の入ったビニール袋が浮かんだ。
『さすがにそんな名前はないか』
龍は考え直して、
『「ひ」が付く名前だと……ヒロシとか、ヒトシとかかな』
と、予測した。
脱衣所でY先生は龍に近所の商店のお年賀らしい新品のタオルと、赤いボール紙の箱に入った新品の石けんを渡してくれた。
「お湯にゆっくり入って、体の芯まで温めなさいね」
そういって、Y先生は脱衣所から出た。
龍は生乾きの服を脱いで、すぐそこの脱衣籠の中に投げ入れた。
服はボタッと重たく落ちて、籠の縁に引っかかり、だらしなく伸びたくしゃくしゃの固まりになった。
そのくしゃくしゃを見て、龍は、
『先生の家のお風呂を借りて、しかも洗濯もしてもらうのに、家のお風呂でするみたいに服を洗濯籠に投げたら、失礼だ』
と思って、服を籠から取り出して、できるだけ丁寧にたたんで入れ直した。
もしそのたたまれた服を他の人が見たら、投げ込んだのと大して変わらないじゃないかと思う位ダラリンとしていたけれど、本人は、
『生まれて初めての一番に丁寧にたためた』
と思ったし、
『もしかしたら先生にほめられるんじゃないか』
と思う位の完成度だったから、ものすごく満足していた。
光がギリギリ通るぐらいには透明な硝子の戸を開けると、お風呂場から湯気がぶわっと吹き出した。
龍は急いでお風呂場へ入って、急いで戸を閉めた。
これは龍の習慣だ。龍の家の古いお風呂場だと、湯気が脱衣所へ逃げてしまうと、すぐに洗い場が寒くなる。だから、扉は急いで開け閉てしないといけない。
でもここは龍の家のお風呂場じゃないし、チョットぐらい湯気が外に逃げてしまっても、洗い場はちっとも寒くなったりしない。でも龍はそのことを知らない。それに龍にとっては、
『お風呂場の扉は素早く開け閉めしないといけないもの』
というのが常識になっている。
そうやって、急いで洗い場に入った龍は、最初にシャワーを浴びようとして温度調節を間違って、
「ひゃぁ、冷たい!」
と叫んでしまった以外は、快適なバスタイムを過ごした。
体を洗い終わって湯船に浸かっていると、脱衣所との仕切のガラス戸に人影が映った。
扉の磨りガラスと、洗い場の湯気だらけの空気越しだから、それが誰なのか龍には判らなかった。ただその小柄な影は、手にたたまれた服やバスタオルを持っているように見えた。
影は持っていたバスタオルや服らしい物を脱衣所の棚に置くと、一言も声を出さず、そのまま出て行った。
「Y先生?」
湯船から飛び出した龍は、髪の毛からぽたぽた水を滴らせながら、脱衣所のドアを少し開けた。
そこには誰もいなかった。
脱衣籠の中からは龍が脱いだ服がなくなっていて、代わりにキレイに洗濯された服やバスタオルと、新品の真っ白な肌着が入っていた。
『先生、何か一言ぐらい何か言ってから行けば良いのに』
龍はちょっと寂しい気分になった。