先生の子供。
ずぶ濡れになっていた龍の服はもう大分乾きかけていたけれど、池の水の藻と魚の混じった生臭くて泥臭い臭いはまだぜんぜん消えていない。
臭うのは服だけじゃなかった。龍だって池の水でずぶ濡れになった。体に付いた水分は乾いたけれど、水分以外は皮膚や髪の毛に残って、こびり付いている。
当人は臭いに慣れきってしまって、花が鈍感になり、まるで気にならくなっていた。でも、ほかの人からしたら、龍は人の型をした池の水だった。鼻がむず痒くなるくらいに酷い悪臭を放っていた。
Y先生は龍の手を引っ張って、
「我が家は、母屋はとても古いけれど、車庫とお風呂は新品なのよ。新しすぎて、時々使い方が判らなくなるくらい」
中庭の端の方に立てられた、新しくて小さな別棟に案内した。
小さな別棟には、母屋の方からも離屋の方からも、屋根付きの渡り廊下が繋がっている。
小さな玄関みたいな扉の脇の高さ1メートルぐらいの所に、水道の蛇口があった。Y先生は蛇口を開いて自分が履いていたゴム長靴の足の裏のどろを洗い流した。
先生は蛇口を開けたまま、龍の顔を見て、ニコリと笑った。
龍の身体は自然に水道の近くに寄って、自然に手を洗い、自然に靴に流水を浴びせた。
汗と泥と池の水の臭いのが混じった茶色っぽい水が、靴からしみ出した。
「靴はそこに脱いでいらっしゃい。後で日の当たるところへ持っていって、乾かしましょう」
先生は別棟の戸を開けた。そこは狭い玄関みたいになっていて、上がってすぐの廊下は母屋と離屋に繋がっている。そして真正面にまた扉がある。
「畑の仕事をしたり、庭の草取りをしたり、それで泥や汗が付いても、ここですぐに洗えるし、すぐにお風呂には入れるから、便利なのよ」
龍が案内されたお風呂は、本当にぴかぴかの新品だった。
床と壁は象牙色の四角いタイルでできている。洗い場も湯船も5人くらいいっぺんに入ってもまだ遊べるくらいに広い。
そして、壁からは銭湯みたいに二口の蛇口と、シャワーが突き出ている。
町の中心地の、あんまり広くない古い家に住んでいる龍には、夢のようなお風呂だった。
なにしろ龍の家のお風呂は、龍が生まれるずっと前に作ったもので、シャワーどころかお湯の蛇口だって付いていない。
洗い場の床はコンクリートの打ちっ放しで、冬になるとたまに隅っこの方に薄く氷が張ったりもする。とても寒いときは、お風呂が沸いても洗い場が寒いままで、隅っこの氷が溶けなことだってある。
洗い場は座れば背中を洗うのがやっとの狭さだから、龍が三年生に上がるころにはもう両親と一緒に風呂に入れなくなった。人が二人も入るには窮屈すぎるからだ。
「使って、良いんですか?」
龍は目を輝かせて先生に訊いた。先生はにっこり笑った。
「お風呂に入っている間に服を洗ってしまいましょう。着替えは……服はシィ兄ちゃんのお古で良いとして……肌着は……そうねヒィちゃんの物の中からまだ下ろしていないのを出しましょう」
龍はシィ兄ちゃんという人のことを知っている。
二年生のころの理科と社会科を混ぜた授業で、クラスでちいさな芋畑を作ったときに、道具や肥料を運ぶ手伝いをしてくれた背が高くて若い男の人を、Y先生は「息子」だと紹介してくれた。そして先生はその人を「シィ兄ちゃん」と呼んでいた。
シィ兄ちゃんの本当の名前は「しりょう」という。どういう漢字を書くのか、龍は知らない。
芋畑を作る前、教室であいさつしてくれたとき、
「二年生だと、まだ習わない字が混じっているからね」
シィ兄ちゃん自身がそういって、黒板にひらがなで書いた「しりょう」という文字は、とても綺麗だった。
けれどその音から、龍はいつだったか新聞のテレビ欄の下の方に載っていた「死霊のナントカ」という恐怖映画の事を想像した。映画そのものは見てもいないのに、ちょっと怖くなったのを覚えている。
そんな変な連想のお陰で、龍はシィ兄ちゃんという人の事をよく覚えている。
でも、先生の言葉の二番目に出てきた名前は、知らない。