大好物。
トラックのドアからY先生の手が伸びてきた。龍は両手でそれにすがりついて、掴んだ。
先生が腕を曲げると、龍の体はふわりと軽くなった。
トラックの運転席には農協の帽子をかぶった男の人がいた。龍の目には、年齢が先生と同じか少し上に見えた。先生の旦那さんだ。
龍のクラスの副担任のY先生は、兼業農家だ。
先生と先生の旦那さんと息子さんは、畑仕事をしながら、それぞれ学校や農協や会社で働いている。
先生の農家としての知識は、学校で花壇を作ったり、理科と社会と家庭科の授業用の田圃を作って稲を育るときや、焼き芋大会用の薩摩芋畑を作ったりするときにとても参考になった。
龍はY先生の膝の上をはって、運転席と助手席の間にちょこんと座った。
普段ここは荷物置き場になっている席だったから、シートベルトを探すのにちょっとだけ苦労した。
三人掛けがぎりぎりのトラックの中は、よだれが出そうなほど良い匂いで満ちていた。
龍の頭の中には、皮むきして切られて皿の上に乗って、プラスチックの柄の付いた二股の金属の楊枝が刺さった状態の、白くて赤くて甘くてとろりとした大きな桃が、はっきりと浮かんでいた。
トラックの荷台は空っぽだ。香りの発生源そのものは、とっくに農協の集荷場でベルトコンベアの上に載せられている。でも先生と旦那さんの体にその香りが染みついているものだから、狭い車内は桃缶を開けっ放しにした台所よりもずっと桃臭かった。
龍は鼻をクンクンとさせて匂いを嗅ぎ、顔をうっとりととろけさせた。……もちろん、今自分がどんなにだらしない顔をしているかなんか、ちっとも判らずに。
「今年は特に雨が少なかったから、桃の実はあまり大きくならなかったけれど、甘さはぎゅっと濃縮されているのよ。
ウチで食べる分は取り分けてあるから、着いたらみんなで食べましょう」
期待していても口にできなかった事をY先生の方から言われて、龍は踊り出しそうなくらい喜んだ。
龍は、あの池から離れられるという安堵感と、好物をご馳走してもらえるという期待感がごっちゃに混ざって、頭がぼーっとする位の幸福感に満たされていた。
それは生乾きの服の気持ち悪さなんかすっかり忘れてしまえるほどの幸せだった。
でも、脳みその片隅か、心の裏側なのか、ともかく龍の気持ちのどこかにある、幸せな光が届かない場所には、小さな暗闇が残っている。
だから龍は、本当に手放しで喜んでいるわけじゃなかった。足の小指の爪の先分ぐらいの大きさの何かかが、うんと深い所から引っ張られている、そんな不安な気持ちが残っている。
龍は「気持ちを引っ張っているモノ」の事は絶対に考えないことにした。
無理にでも喜んで、無理矢理にはしゃぐことにした。
もし喜ぶことをほんの一秒でも止めて、ちょっとでも「気持ちを引っ張っているモノ」のことを考えてしまったら、池に落ちたときのように身体全体が深く沈んでゆくんじゃないかと思った。
トラックは太い広域農道から狭くて舗装されていない道へ曲がった。車体ががたがたと揺れたのはほんのわずかな時間だけだった。
桃と林檎とぶどうの果樹園と水田がまだらに広がった場所の真ん中あたり、石垣のある古い二階建ての建物の前で、Y先生の旦那さんはブレーキを踏んだ。
Y先生がトラックから降りて、龍の手を引いた。二人が車から離れても、旦那さんはまだ車の中にいる。
先生の旦那さんは、三角形の屋根を小豆色のトタンで覆った母屋と瓦屋根で変な形の木の窓枠のある別棟に挟まれた、ぴかぴかに新しいステンレスのシャッターが付いた大きな車庫にトラックを入れた。
トラックのテールランプの赤い色が消えても、旦那さんは車から降りてこなかった。そしてそのまま車庫のシャッターが閉まった。
驚いて先生の顔を見上げた龍がなんの質問もしないのに、先生は、
「車庫の中にも、家に行くためのドアがあるのよ」
と、龍の知りたかったことを教えてくれた。
その答えをくれる感じを、龍は、
『どっかで聞いたような、見たような……』
気がする。
Y先生は龍の手を握ったまま、歩き始めた。二人は母屋の立派な玄関じゃなくて、建物の脇の細い通路を抜けて、その先の、中庭の縁側まで行った。