トラックが止まる。
龍はもう一回辺りを見回した。
自分の家や学校からはとても高く見える山のてっぺんが、大分近くに見える。
自分の家や学校からは近すぎて見えない川の水面が、遠くでキラキラ光っている。
今いるところが、自分の上から見れば「山の上の方」である事は間違いなさそうだ。
でも、太い道路を車がびゅんびゅん行き交っているし、そこそこの数の家もあるようだから、
『タヌキはやクマは出ないよね』
と龍は思った。
ただ、道路の両側は木や草が生えているから、蛇舅母や青大将や、もしかしたら毒のある山楝蛇なんかは住んでいるかもしれない。
龍は道端のしおれた雑草にはできるだけ近寄らないようにして信号の柱まで歩いて行った。
そこまでたどり着くと、柱に背中をあててもたれかかった。
クマの出る心配はしなくてよさそうでも、家に帰れない不安は残っている。
龍は今ほんの少し歩いてきた道を振り向いた。トラックがお尻の方から黒い煙を吐き出して、車体を震わせながら向かってくる。
排ガス混じりの空気でくすんで見える道端の金網の向こう側に池があって、岸辺にはお墓と祠と鳥居があって、その反対側の岸にはよく判らない装置|(取水口)があって、そこの洞窟みたいなトンネルをくぐって行けば川に出る。
そうして川沿いに下流へ進めば、いつもの川原までたどり着く。そこからならすぐに家に帰れる。
一番確実なのは、もその方法だ。
『でも、池の所に戻るのは嫌だ』
あの池の岸辺――自分と年が近い『寅』という赤ちゃんのお墓がある場所――に戻らずに、あの川へ戻る方法はないのだろうか、と、龍は考えながら、またまたあたりを見回した。
道路と、家と、段々になった田圃と果樹園が見える。
『池に行くのは嫌だから、池に戻らないで、直接川に行けばいいんだ』
思いついた龍は、またまたまたあたりを見回した。
道路と家と田圃と果樹園が見える。
川筋は見えない。
冷静になって考えてみれば、道路と家と果樹園と田圃より一段低いところに水路が造ってあることや、そういった目の高さが合う物の影に埋没して低いところは見えづらい、なんてことに気が付いただろう。
ただ、このときの龍に冷静とか沈着さといった性質を求めるのは無駄だった。まだ小学生だ。背伸びをして、何でもできるような気分になっていただけの子どもだ。
幼すぎる龍の思考では「川が見えない」と「川が消えた」の間には=しかなかった。
龍は、自分がたどってきた「道」が
「消えちゃった」
と思い込んだ。
振り向けば、さっきまでいた場所は間違いなくあることが判る。
このあたりで龍が「知っている」のはあの場所だけだ。池の周りより他は全部知らない。
トラックが通り過ぎる。なま暖かい排気ガスの風が吹く。
空気はのろのろと濡れたシャツとズボンを通り抜けて、丸出しのお臍をなでる。体温が奪われて行く。
身体が震え始めた。
龍の脳みその中で、たどり着いた場所……姫ヶ池は、緑色の呪いになっていた。
膝小僧ががくがくする。龍は信号機の柱にすがりついたまま、ずるずると滑り落ちるようにして、その場にしゃがみ込んだ。
お腹が痛くなってきた。龍は口元にあてていたシャツの裾を下ろして、お臍を隠した。
チラリと見た横断歩道の上に、巨大な黒い車輪が止まっている。
しわがれた大人の男の人の怒った声が、高いところから龍の頭上に降り注いだ。
頭を持ち上げた龍の目玉と鼻の穴から水が流れ出した。
息を吸った龍は咳き込んだ。
背中を丸めると、涙がポタポタと落ちて、粉塵が積もったアスファルトの上にまばらな水玉模様ができた。
信号のところで止まったトラックの、農協のマークと電話番号が書かれたドアが勢いよく開いた。農協のマークの付いた緑がかった薄い黄土色の帽子がそこからぬっと突き出た。
すこし皺のある白い顔が、優しく笑っていた。
その顔を、龍は知っていた。
「Yセンセエ……」
龍は自分の魂が頭のてっぺんから抜けて行くような虚脱感に襲われた。